プロローグ 冒険者になった日
見知らぬ天井だった。
木目の走り方も、梁の組まれ方も、田舎の家とは違う。一瞬だけ寝ぼけた頭が「ここはどこだ」と騒いだけれど、すぐに思い出す。
昨日、僕――ヴェルディは、冒険者クラン《新緑の剣》に加入したのだ。
起き上がって、借りた部屋の小さな窓を開ける。フェルンハイムの朝の空気が流れ込んできた。土と、微かな金属の匂い。ダンジョン都市特有の、あの匂いだ。
正直、まだ実感がない。昨日までは祖母の残した畑を一人で耕していた田舎者で、気づけば冒険者クランの一員になっていた。しかも、スカウトの場で他の誰も僕のことなんて見向きもしなかったのに、たった一人――クランマスターのセレスティアさんだけが、僕を選んでくれた。
「なんとなく分かるのよねぇ」
と、彼女は事もなげに言っていた。理由なんて自分でもよく分かっていない、というふうに。それでもいいと思った。誰にも見つけてもらえないよりは、ずっといい。
祖母が生きていた頃は、来る日も来る日も畑と睨めっこするだけの毎日だった。冒険者になりたいなんて、口に出したこともない。ただ、夜の寝物語に聞かされた英雄譚の一節――名もなき者たちが、大穴に飲み込まれかけた世界を守った話――だけは、いつまでも胸の奥に残っていた。
祖母が眠るように逝ってしまってから、あの村にはもう僕の居場所と呼べるものはなかった。だから冒険者になった。生きていくために。そして、あの物語の中の誰かに、少しでも近づきたくて。
身支度を整えて階段を降りると、リビングの方から賑やかな声が聞こえてきた。
「あ、起きた起きた! おはようヴェルディくん!」
真っ先に声をかけてきたのは、他ならぬセレスティアさんだった。昨日会った時の、クランマスターらしい落ち着いた雰囲気はどこへやら。今は寝癖のついた髪のまま、テーブルに頬杖をついてへらへらと笑っている。
「お、おはようございます」
「緊張しなくていいのよぉ。ここ、見ての通りたいした人数もいないんだから」
言われて見回した拠点は、たしかに広さのわりに人の気配が少なかった。かつては名門と呼ばれたクランだと聞いている。壁にかけられた古い紋章や、色褪せた表彰状らしきものが、その名残を静かに主張していた。今はもう、見る影もないけれど。
「よう、坊主。ぐっすり眠れたみてぇだな」
奥から出てきたのは、がっしりとした体格の男――オスカーさんだった。年季の入った大剣を肩に担ぎ、こちらを見下ろすようにニヤリと笑う姿は、いかにも頼れる先輩という感じがする。
「はい、おかげさまで」
「そりゃ何よりだ。ぐだぐだ座学から始めるつもりはねえ。善は急げ、今日からさっそく現場だ。体で覚えるのが一番早い」
その隣から、ひょいと顔を覗かせたのは同年代くらいの少女だった。
「あんたが噂のヴェルディ? ふうん、思ったより普通じゃん」
「おいニーナ、初対面でいきなり失礼だろうが」
オスカーさんに窘められても、彼女――ニーナは悪びれる様子もなく僕をじろじろと眺めてくる。値踏みされているようで、少し落ち着かない。
「別にいいですよ。実際、僕なんてまだ何もできない新人ですし」
「へえ、素直じゃん。気に入った」
ニーナはにっと笑うと、僕の背中を軽く叩いた。思ったより力が強くて、よろける。
「さ、腹ごしらえしたら早速行くわよ。今日の依頼はダンジョンの浅層で、牙兎の牙を十本納品。まずは肩慣らしね」
セレスティアさんの号令で、朝食もそこそこに拠点を出ることになった。
フェルンハイムの街は、思っていたよりずっと活気があった。あちこちに冒険者らしき人影があり、露店の呼び込みの声が飛び交っている。この街の傍らにあるダンジョンの浅い階層に神殿があるおかげで、駆け出しの冒険者でも安全にステータスの更新ができる――それがこの街の発展の理由だと、道すがらオスカーさんが教えてくれた。
街の中心部にある冒険者ギルドに立ち寄ると、受付には見慣れない道具や、依頼を記した紙が所狭しと貼り出されていた。カウンターの奥で忙しなく動く職員たちの様子を眺めていると、これが本当に「冒険者」の世界なのだと、じわじわ実感が湧いてくる。
オスカーさんが手慣れた様子で依頼書を受け取り、ギルドカードを提示する。ちらりと覗き込むと、そこには「Lv.3」の文字が刻まれていた。
「ランクの表示はこのLvがそのまま使われる。数字がすべてを語ってくれるからな、ここじゃ余計な肩書きはいらねえのさ」
その言葉に、僕の真新しいカードに刻まれた「Lv.1」の数字が、やけに頼りなく見えた。
「ステータスってやつ、僕にもあるんですよね」
「おう、誰にでもある。だがな、モンスターをぶちのめしただけじゃ数字は動かねえ。神殿で『更新』して、初めて自分の力になる。覚えとけ」
なんだかおとぎ話のような不思議な仕組みだと思いながら、ダンジョンの入り口をくぐる。ひんやりとした空気と、微かな光苔の明かりが、内部を淡く照らしていた。
浅層は思ったより静かだった。石造りの通路が奥へと続いている。オスカーさんとニーナが先導し、僕はその後ろについていく形だ。
「最初の一匹は俺たちで片付ける。お前はまず突っ立って、よく見とけ。話はそれからだ」
そう言われて頷いたものの、実際に目の前に現れた牙兎をオスカーさんが一撃で沈めるのを見て、僕は息を呑んだ。あんな化け物じみた動きが、この世界の「強さ」なのか。
「次、来たわね。ヴェルディ、やってみなさい」
ニーナの声に、僕は慌てて剣を構えた。渡された片手剣は、握りなれない重さで手のひらに食い込む。
通路の奥から、白い小さな影が飛び出してきた。牙兎だ。想像していたよりずっと素早い。
振るった剣は空を切り、逆に牙兎の鋭い牙が肩をかすめた。焼けるような痛みが走る。
「くっ……!」
まだ何の実績もない、ただの新人。ステータスだって、まだ何も刻まれていないまっさらな状態だ。頭では分かっていたつもりだったけれど、身体で思い知らされる現実に、胃の奥が冷たくなる。
悔しさより先に、頭の中で警鐘が鳴る。ここで怯んだら、本当に終わりだ。なぜか祖母の顔が脳裏をよぎった。こんなところで立ち止まっていられるものか。
肩の傷から伝う血の熱さを感じながら、それでも僕は剣を握り直す。
二度、三度とがむしゃらに剣を振るう。掠りはするものの、致命傷には程遠い。息が上がり、腕が震え始めた頃、飛びかかってきた牙兎の体に夢中で刃を叩きつけた。肉を断つ嫌な手応えとともに、白い影が床に転がる。
「はあ……っ、はあ……」
動かなくなった牙兎を見下ろしながら、僕はその場に膝をついた。たった一匹相手にこのザマだ。セレスティアさんが見出してくれた「何か」は、今の僕のどこにも見当たらない。
「ま、最初はそんなもんよ」
ニーナが呆れたように、でもどこか優しい声で言った。
オスカーさんは、大股で歩み寄ると僕の肩を思い切り叩いた。痛いくらいの力だった。
「上出来だ。今日、剣を抜いて自分の足で立って帰ってきた――それだけで十分すぎるくらいさ。明日はもう少し傷が減る。明後日はもっとだ。俺が保証してやる」
それだけ言うと、オスカーさんはさっさと背を向けて歩き出す。振り返りもせず、けれどその背中は、ついてこいと言っているようだった。
悔しさと情けなさで、目の奥が熱くなる。それでも――と、僕は思う。
これが今の僕だ。ここから始めるしかない。
セレスティアさんが見てくれた「何か」を、いつか自分の力で証明してみせる。
震える手で剣を鞘に収めながら、僕はそう心に誓った。
拠点に戻った頃には、もう日はとっぷりと暮れていた。手当てを終えた肩の傷がじんじんと疼く中、セレスティアさんが温かいスープを差し出してくれる。
「今日はお疲れ様。……大丈夫、その傷も、その悔しさも、ちゃんと明日への糧になるから」
いつものおちゃらけた調子とは違う、静かで穏やかな声だった。カップを受け取りながら、僕は小さく頷く。
この場所が、僕の帰る場所になる。そんな予感が、疲れ切った体の奥で静かに灯っていた。




