第8話:選ばれなかった者
昼の大通りは、残酷なまでの晴天に恵まれていた。
降り注ぐ陽光が、石畳の上に作り出された見世物小屋のような光景を、隅々まで鮮明に照らし出している。
集まった群衆からは、隠そうともしないざわめきと、ねっとりとした好奇の視線が向けられていた。そして、その根底に流れるのは、甘美な愉悦を孕んだ――嘲笑だ。
「……どうして……っ」
人だかりの中心で、一人の少女が震えていた。
仕立ての良い、高価な絹のドレス。丹念に整えられた金糸のような髪。彫刻のように美しい顔立ち。
だが、そのすべては今、泥にまみれ、見るも無惨に崩れ去っていた。
エレノア。
この国の有力貴族の令嬢であり、次期王妃と目されていた女。
だが、彼女を形作っていたその輝かしい肩書きは、数分前の宣告によって、跡形もなく粉砕された。
「婚約は破棄する。今、この場をもってだ」
凍てつくような冷たい声が、広場に響き渡った。
声の主は、この国の第一王子。エレノアが幼い頃から、添い遂げるべき伴侶として、そして自身の世界の中心として仰いできた男だった。
王子の背後には、可憐に震える一人の男爵令嬢が守られるように立っている。その対比が、エレノアの惨めさをより一層際立たせていた。
「君のような傲慢な女は、我が王室には必要ない。国外追放にしないだけ、私の慈悲だと思いたまえ」
周囲から、クスクスという忍び笑いが漏れる。
「……違います……! 私は……!」
エレノアは必死に声を絞り出した。喉が焼けつくように痛い。
「私は、家のために……。王妃として相応しくあるために、厳しく律してきただけです! 誰に対しても、礼節を――」
「うるさい」
王子の苛烈な一言が、彼女の言葉を切り捨てた。
「すでに調べはついている。君が陰で、身分の低い使用人を虐げ、私の愛する彼女を排除しようと画策していたことはな」
「それは……っ」
否定しようとして、言葉が詰まる。
嘘ではない。彼女は確かに、甘い顔で王子に近づく女を冷遇した。王家の威厳を損なう無能な使用人を厳しく叱責した。
だが、それはすべて「そうするしかなかった」からだ。
完璧な王妃という偶像を維持するために。
弱さを見せれば食い殺される社交界という戦場で、己と家門を守るために。
しかし、そんな弁明が、今の彼に届くはずもなかった。
「……見苦しいな。誇り高い名門の娘が、最後は泣き落としか」
王子が軽蔑を隠さずに背を向ける。
「もう二度と、私の前に現れるな。君との関わりは、私の人生の汚点だ」
それで、すべてが終わった。
王子を追って人々が散っていく。嵐が去ったあとのように静まり返った大通り。
残されたのは、豪華なドレスを泥で汚し、一人地面に突っ伏した女だけだ。
地位も、名誉も、信じていた愛も。
積み上げてきた十数年の歳月が、たった一言でゴミのように捨てられた。
「……あ、あぁ……っ」
膝の力が抜け、エレノアは地面に両手をついた。
視界が激しく揺れる。
誰も助けてくれない。誰も、自分を見ていない。
先ほどまで媚びを売っていた者たちですら、今は石を投げる機会を伺っているだろう。
自分は、選ばれなかったのだ。
不要なものとして、世界から放り出されたのだ。
「……どうして……私が……何を間違えたというの……」
震える声が、空虚に吸い込まれていく。
そのときだった。
「……終わりか」
頭上から、不意に声が落ちてきた。
慈悲も怒りも含まない、ただ淡々とそこにあるだけの、無機質な響き。
エレノアは、縋るような思いで顔を上げた。
そこに立っていたのは、漆黒の外套に身を包んだ男だった。
男の名は、アグナード。
彼は周囲の惨状に動じることもなく、ただそこに「存在」していた。
「……誰……?」
掠れた声で問いかける。
「……通りすがりだ。邪魔だったから止まった。それだけだ」
その徹底した無関心さに、エレノアの顔が自嘲に歪んだ。
「……そう。なら、満足でしょう……?」
彼女は、壊れたように笑った。
「かつては未来の王妃と崇められた女が、こうして道端で泥を舐めている。……落ちるところまで落ちた滑稽な姿を見て、笑いに来たのね?」
「……興味ない」
アグナードの即答は、彼女の予想を遥かに超えていた。
「……は?」
「お前が何者で、何をして、どうなったか。……そんなこと、俺にはどうでもいい」
理解できない。
「なら、なんで……なんで私に声をかけたのよ! 放っておいてくれればいいじゃない!」
エレノアの中で、抑えていた感情が爆発する。
「嘲りも軽蔑もしないなら、消えて! 一人にしてよ!」
アグナードは少しだけ考え、そして言った。
「……立て」
短い、命令のような一言。
「……え?」
「地面に這いつくばっている理由は、もうないはずだ。……見世物になりたいなら別だが」
彼は手を差し出すこともしない。
ただ、そこに立っている彼自身の在り方そのものが、「立てるはずだ」という残酷なまでの信頼を突きつけていた。
「……私は……全部、失ったのよ……? もう、どこにも行く場所なんてない。生きる意味だって……!」
「そうか。なら、お前の“物語”は一度終わったんだな」
アグナードは冷淡に頷いた。
「……っ!」
エレノアの息が詰まる。その言葉が、剥き出しの心臓に突き刺さる。
だが、彼は続けた。
「だが。……死んではいないな」
「……え?」
「なら、物語の続きを書く時間は、まだ残っている。……ただそれだけのことだ。いつまでそこにいる」
当たり前すぎる、あまりに単純な事実。
エレノアの思考が、白く塗りつぶされた。
地位がない自分は自分ではない。誇りがない自分は死んでいるも同然だ。そう教育され、そう信じ込んできた。
けれど、この男は言う。
肉体が生きていれば、それは単なる「継続」に過ぎないと。
「……立て」
もう一度。
逃げ場を塞ぐような、静かな響き。
エレノアは、震える手で地面を押し返した。
泥にまみれたドレスが重い。足に力が入らない。
それでも、目の前の男の視線が、彼女を無理やり垂直の世界へと引き戻す。
ゆっくりと、彼女は立ち上がった。
ふらつきながら。涙を拭うことさえ忘れ、幽霊のような足取りで。
「……そうか」
アグナードは、彼女が立ち上がったことを確認すると、それだけで満足したようだった。
未練も関心も残さず、彼は踵を返す。
「……待って!」
エレノアの声が、去りゆく黒い背中を引き止めた。
アグナードは足を止める。だが、決して振り返ることはない。
「……あなたは、私のことを何も知らないのに……。私が何をしたのか、どれほど醜い女なのかも……なのに……」
言葉が、喉の奥で渋滞する。
「どうして……否定もしないの? 軽蔑も、同情も……。私を、立たせたのは、なぜ……」
「……別に。俺の勝手だ」
アグナードは、やはりそれだけを告げて歩き出した。
人混みに紛れ、その漆黒の外套が遠ざかっていく。
エレノアは、動けなかった。
ただ、彼の背中が見えなくなるまで、ずっと立ち尽くしていた。
理解できない。
あんな人間、出会ったことがない。
彼にとって、自分は「可哀想な令嬢」でも、「傲慢な悪女」でもなかった。
レッテルも偏見も、家門の重みさえも通じない。
ただ、そこにいる「不都合な状態の個体」として、無機質に、そして等身大に扱われた。
初めて。
生まれて初めて、自分という人間そのものを見られた気がした。
「……あぁ……」
声が、熱を帯びて漏れ出す。
膝が激しく震える。
今、自分は立っている。自分の足で、地面を踏み締めている。
その事実に、これまでに感じたことのない激しい動悸が突き上げた。
「……あの人……。あのアグナードという男は……。私を見た」
頬を伝う涙は、もはや悲しみの色をしていなかった。
それは、空っぽになった魂に注ぎ込まれた、毒にも似た歓喜の輝き。
「なら……」
エレノアは顔を上げた。
その瞳には、かつての令嬢としての矜持を焼き尽くし、さらに深く、暗く、熱い炎が宿っていた。
「なら、私が選ばせる。……王子でも、家でもない。あの男に……アグナードに、私を選ばせるわ」
拳を強く握りしめる。
爪が掌に食い込み、血が滲む。
だが、その痛みさえも心地よい。
「……あなたに。……私という存在を、二度と『別に』の一言で片付けさせない」
それは、聖女の祈りよりも純粋で、悪魔の囁きよりも禍々しい誓いだった。
愛でも恋でもない。
自分を「人」として確立させてしまったあの男に対する、救いようのないまでの所有欲。
逃げれば追う。拒絶されれば、その首に鎖をかけてでも、自分の存在を刻み込む。
――この日。
絶望に沈んだ一人の令嬢は、その精神を完膚なきまでに崩壊させた。
そして。
再生した彼女の胸の内に芽生えたのは、世界で唯一の存在を求める、狂おしいまでの執着だった。
アグナードの歩む道に、また一つ。
決して消えることのない、執念の灯火が灯った。




