第71話:レオニア共犯化 「やるか」
夜の静寂が、音を立てて剥がれ落ちていく。
王都の空気を支配していた、あの不気味なほどの重さが消えた。
完全になくなったわけではない。淀んでいた空気の底に、新しい「風」が吹き込んだに過ぎない。
それでも。
止まってはいない。
少なくとも、今のこの広間には、凍りついた時間は存在しなかった。
レオニアは、壁にもたれていた身体をゆっくりと剥がした。
その顔には、獰猛な笑みが浮かんでいる。
口の端を吊り上げ、獣が牙を覗かせるような、不敵で、傲慢な笑み。
(ようやくか。ようやく、この死んだような場所がまともに動きやがった)
動く空気。揺れる流れ。
それはまだ、微かな震えに過ぎない。
子供の一歩。弟子の独立。そして、セリスの決断。
これまで積み上げてきた均衡に比べれば、あまりに脆く、あまりに遅い変化だ。
だが、ゼロではない。
一度動き出した歯車は、もはや静止していた頃の純粋さを失い、不格好な「生」の音を奏で始めている。
「……退屈しねぇな、おい」
誰に聞かせるでもなく、地を這うような低音で独り言ちる。
レオニアは首を左右に振り、骨の鳴る音を広間に響かせた。
身体が軽い。
あの日、アグナードに救われてから、ずっと彼女の内側に溜まっていた熱量。
行き場を失い、腐りかけ、自分自身を焼き尽くそうとしていた衝動が、今は出口を見つけたかのように脈打っている。
ほんの少し、毒が抜けたような爽快感。
だが。
まだ足りない。
こんな小波程度で満足できるほど、彼女の魂は安っぽくはなかった。
もっと、大きなうねりが欲しい。
もっと、世界が軋むほどの衝撃が欲しい。
彼女が彼女として存在し続けるための、命を懸けるに値する「戦場」を。
レオニアは、真っ直ぐに視線を向けた。
その先にいるのは、アグナードではない。
銀の鎧を纏い、自らの手で「静寂」を切り裂いた女。
セリス。
動かした奴。
均衡という安穏を自ら捨て、停滞という名の地獄に終止符を打った奴。
そして、その後に訪れる混乱をすべて引き受けると決めた奴。
レオニアは、一歩前に出た。
重いブーツが石畳を噛み、鈍い音を立てる。
迷いはない。止まるつもりも毛頭ない。
そのままセリスの間合いへと、無造作に踏み込んでいく。
「……で?」
低く。獲物を値踏みするような、試す声。
セリスの瞳を覗き込み、その奥に潜む本心を暴き出そうとする。
「どこまでやるつもりだ? 騎士様よ。均衡を壊したその先、地獄まで付き合う覚悟はあるんだろうな」
セリスは答えない。
だが、その視線は微塵も逸れなかった。
恐怖に揺れることも、後悔に曇ることもない、澄み渡った正義の瞳。
言葉を重ねる必要はなかった。
その眼差しだけで、十分すぎるほどの返答になっていた。
中途半端じゃない。
彼女は、自分が何をしたかを理解している。
そして、これから自分が何をしなければならないのかも。
レオニアは笑った。
今度は、隠すこともなく、はっきりと。
暗闇を照らし出すような、眩しくも凶暴な笑み。
「いいな。最高だ」
ようやく。
ようやく、この「ごっこ遊び」のような平和が終わる。
同じ側に立てる。
誰かの後ろを追うのではなく、誰かの影に隠れるのでもない。
壊すためだけに暴れるのではない。
かといって、何かを盲信して守るためだけに止まるのでもない。
“やる”ために。
ただ、生きている実感を得るために、世界と、自分自身とぶつかり合う。
「……やるか」
短く。
それは確認ではない。同意を求める問いかけでもない。
もちろん、一方的な宣言でもなかった。
それは、共犯の合図。
アグナードという名の不変の太陽に対し、自分たちの足で歩き出すという、反逆にも似た結託。
セリスが、わずかに頷いた。
鎧の隙間から零れたその微かな動き。
それでいい。
それで、すべてが決まった。
多くを語る必要など、かつての戦友のような信頼など、今の彼女たちには不要だった。
ただ、「止まらない」という一点において、二人の意志は重なった。
レオニアはさらに前に出る。
もはや、自分を抑える理由はない。
これまで課してきた過酷な自制。彼に嫌われないために、彼の邪魔をしないために、檻に閉じ込めてきた自分という獣を、今、解き放つ。
止めない。
この後に続く崩壊も、人々の不安も。
ただ。
合わせる。
セリスが作り出した、この「動く流れ」に、自らの圧倒的な力と熱量を叩きつける。
拳を握りしめる。
指の間で、かつての戦場を思い出させるほどの力が凝縮される。
今度は、振るえる。
空を掴むのではなく、確かな手応えのある明日を、その拳で掴み取れる。
「……潰すぞ、何もかも」
何を、とは明言しない。
内側から始まっていた腐りか。
世界を凍りつかせていた停滞か。
それとも、自分たちを縛り付けていた過去のすべてか。
カレンが、その殺気にも似た気迫に息を呑む。
クラリスが、新たな変数の登場に目を細め、再計算を始める。
マリアが、瓦解が加速することを察し、さらに深く支える位置へと足を進める。
エルナが、真実の先にある「激動」の予感に、瞳を輝かせ見つめる。
波が、広がっていく。
セリスという中心から始まった波紋は、レオニアという力強い共犯者を得て、巨大な潮流へと変わりつつあった。
一人じゃない。
二人でもない。
この屋敷に集う者、王都で息を潜める者、すべてがこの連鎖に飲み込まれていく。
アグナードは動かない。
背後で何が起きようと、かつての「手駒」たちがどのような密約を交わそうと。
彼はただ、そこに在るだけ。
いつも通り、無機質な瞳で、変わりゆく世界を眺めている。
それでいい。
今回は。
あいつに助けてもらう必要なんてない。
あいつの顔色を伺って、止まる必要も。
「……行くぞ」
レオニアは地を踏みしめ、強く踏み込んだ。
迷いの一切を脱ぎ捨てた、戦士の踏み込み。
世界が。
一段、強く動いた。
均衡という名の美しい氷原は完全に砕け散り、その下から激しく、そして泥臭い「生」の奔流が溢れ出した。
夜明けはまだ遠い。
だが、その暗闇を切り裂くのは、もうアグナードの光だけではなかった。
自ら燃え始めた女たちの、烈火のような意志。
それが、王都の新しい形を焼き尽くし、描き直そうとしていた。




