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助ける。でも選ぶのはお前だ ~救った結果、世界が止まったので壊すことにした~  作者: 慈架太子


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第66話:カレン受容 触れない愛

夜の深淵に沈む屋敷の廊下。青白い月光が、冷徹な一筋の境界線を描き出している。

カレンは、その境界線のこちら側で足を止めていた。


遠い。

物理的には、ほんの数メートル。

手を伸ばせば、その指先は容易にアグナードの漆黒の外套へと届くだろう。

だが、そのわずかな距離のあいだには、目に見えない、そして決して越えてはならない断絶が横たわっていた。


でも。

見える。


それだけでいい。

今は、その事実だけを魂の糧にしようと、カレンは深く、重い息を吐き出した。


彼女は、ただそこに立っていた。

かつてのように、自分の衝動に従って乱暴に踏み出すことはもうしない。

略奪者としての誇りも、女としての独占欲も、今はその硬いブーツの踵の下で押し殺している。

動かない。動かないと決めた。

もう、無理に彼に近づき、その「静寂」を揺らすような真似はしない。


前は、違った。

何もかもを奪い去るのが、彼女の生きる術だった。

欲しいものがあれば手を伸ばし、力ずくで引き寄せ、自分のものにしてきた。

アグナードに対してもそうだった。

触れたかった。抱きつきたかった。

たとえ、その行為が彼という存在を、そしてこの危うい均衡を壊すことになったとしても、それでも構わないとさえ思っていた。

自分の熱量を彼に叩きつけ、その無機質な瞳に、自分という存在を刻み込みたかった。


でも――。


「……やめた」


小さく、掠れた声が夜の静寂に落ちる。

それは、自分自身に下した最後通牒だった。

決めたのだ。略奪することを、所有することを、そして「触れること」を。


触れれば、終わる。

それは、残酷なまでの真実だ。

彼という人間は、誰かの執着を、誰かの期待を、あるいは誰かの重すぎる愛を受け入れる器を持っていない。

いや、持とうとさえしていない。

その境界線を無理やり踏み越えた瞬間、彼は姿を消すか、あるいは自分を「不快なノイズ」として永遠に排除するだろう。

そうなれば、もう二度とこの背中を見ることはできない。


なら。

触れない。


ただ、それだけのことだ。

答えは驚くほどに単純で、そして吐き気がするほどに苦しい。


簡単じゃない。

胸の奥では、今もどろりとした情念が渦巻いている。

略奪者の血が、所有を求めて叫んでいる。

今でも、視界のなかの彼を見れば、無意識に右手が動きそうになる。

指先が彼の温もりを求め、くうを掴もうと震える。


それを止めるのは、誰の命令でもない。

自分自身の意志だ。


「……っ」


カレンは奥歯を噛み締めた。

口のなかに鉄の味が広がるほど、強く、強く。

伸びようとする手を、自分の左手で力ずくで押さえ込む。

衝動が指先にまで伝わり、肩が激しく震える。

だが、彼女は一歩も動かなかった。

喉までせり上がった「抱きしめて」という叫びを、そのまま胃の奥底へと飲み下す。


引くのだ。

欲しいからこそ。失いたくないからこそ。

彼女は、自らの愛を「不作為」という形で証明することを選んだ。


アグナードを見る。

彼は相変わらず、何も変わらない。

背後で一人の女が、魂を削るような葛藤の末に、一つの決断を下したことさえ知らないだろう。

何も知らない、無関心な横顔。

だが、今はそれでいい。

それでいいと、心から思う。


(好きだ)


その言葉は、決して唇を割って外へ出ることはない。

言う必要がないからだ。

彼に伝わって、何かが変わることを彼女はもう望んでいない。

伝わらなくていい。

理解されなくていい。

ましてや、応えてもらう必要なんて、最初からなかったのだ。


触れなくていい。

近づかなくていい。

この、彼が見ることのない暗がりのなかで、ただその背中を見つめ続けるだけで。

それでも、この想いはここにある。

誰にも奪われず、誰にも汚されず、カレンという個体の内側で、静かに、だが熾火のように燃え続けている。

消えない。

彼が自分を忘れても、世界が彼を否定しても、彼女のなかにあるこの形は、永遠に変わることがない。


カレンは、ようやく肺のなかの淀んだ空気をすべて吐き出した。

ゆっくりと。

胸の重みが消えるわけではない。

苦しみが、甘い喜びに変わるわけでもない。

だが。

壊れない。

この「触れない愛」を選んだことで、彼女はようやく、彼を失うという恐怖から、ほんのわずかだけ解放された。


以前の、壊してでも奪いたいと願っていた頃よりは、ずっとましだ。

少なくとも、今の自分は「彼を大切にする」という新しい強さを手に入れたのだから。


「……これでいい」


誰にも向けない、独り言。

それは納得の言葉ではない。

ましてや、不本意な諦めでもない。

ただ、冷徹な現実をそのまま引き受けた、受容の響きだった。


受け入れたのだ。

自分という略奪者の本能を殺し、触れない距離を維持するという、最も過酷な刑罰を。

その、自分自身で引いた線を、自分自身で守り抜くという誓い。


触れない距離。

越えない線。

その閉ざされた世界のなかで。

ただ、好きでいる。


カレンは、不敵に笑った。

かつての、すべてを小馬鹿にしていた傲慢な笑みではない。

微かな涙の痕が残る頬を月光に晒しながらも、そこには確かな充足感が宿っていた。

無理をしているわけではない。

これが、今の自分にできる、最高に美しくて、最高に歪な愛の形だと、彼女は確信していた。


もう。

壊さない。

彼という基準も、王都の均衡も、そして自分自身の誇りも。


触れないままの愛は。

夜の静寂のなかで、誰に気づかれることもなく、静かに、そして深く続いていく。

彼女はもう、その背中を追って泣くことはない。

ただ、彼と同じ夜の空気を吸っているという事実に、微かな微笑みを浮かべながら。


カレンは静かに背を向けた。

歩き出す足音は、これまでになく静かで、迷いがなかった。

背後に残されたアグナードの影は、変わらぬ無関心を湛えて、月光のなかに佇んでいた。









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