第6話:離さない
夜の路地は、世界から見捨てられたかのように暗かった。
建物の合間に差し込む月光すら届かない、どん底の吹き溜まり。遠くで聞こえる喧騒が、この場所の孤独をより一層引き立てている。その静寂を、断続的に響く湿った音が引き裂いていた。
――バシッ。
肉を打つ嫌な音が、石壁に跳ね返る。
「だから言ってんだろうが、この泥女が!」
男の、酒と苛立ちに濁った怒鳴り声。
「客の相手くらいまともにしろって言ったはずだ。てめぇに拒否権なんてあると思ってんのか!」
もう一度、硬い革靴が何かを蹴り飛ばす音が響く。
路地の行き止まり、冷たい壁際に一人の女がうずくまっていた。
娼婦としての装いは無残に引き裂かれ、厚い化粧は涙と泥に混じって醜く崩れている。切れた唇から溢れる鮮血が、白磁のような肌を赤く汚していた。
男は女の細い肩を乱暴に掴み上げ、強引に自分の方へと引き寄せる。
「……やめて……お願い……」
掠れた声。それは抵抗というよりは、消えゆく命の最後の灯火のような、力ない懇願だった。
「うるせぇ! そのツラを二度と拝めねぇようにしてやる!」
男の太い腕が、慈悲もなく振り上げられた。
そのときだった。
「……うるさい」
頭上から、冷え切った声が落ちてきた。
高くも低くもない。ただ、感情の起伏が一切存在しない、絶対的な静寂を伴った響き。
男の動きが、凍りついたように止まった。
「……あ?」
男が苛立ちを露わにしながら、声の主を振り返る。
そこに立っていたのは、夜の闇と同化したような漆黒の外套を羽織った男、アグナードだった。
彼はただ、そこに立っている。武器を構えるでもなく、殺気を放つでもない。
しかし、彼がそこに存在するだけで、路地の酸素が薄くなったかのような錯覚を周囲に与えた。
「なんだてめぇ。余計な首突っ込んでんじゃねぇぞ」
男はアグナードの痩せた体躯を見て侮ったのか、脅しつけるように一歩踏み出した。
「仕事の邪魔をする奴は、この街じゃ生きて――」
言い終わる前に、事象は完了していた。
男の巨体が、まるで巨大な質量に押し潰されたかのように地面に激突した。
「……がふっ!?」
肺の中の空気をすべて吐き出させ、石畳を砕かんばかりの衝撃。
男は何が起きたのか、自分がなぜ地面を舐めているのかすら理解できていなかった。ただ、全身の神経が逃走を叫んでいた。
「……次やるなら、殺す」
アグナードの声が、空ろに響く。
淡々と、明日の天気を告げるかのような無機質さ。
だが、その言葉には「実行」という名の重みがあった。
「……っ、ひ、ひぃぃぃ!」
男は転がるようにして立ち上がると、振り返ることもなく暗がりの向こうへと逃げ去っていった。
足音が遠ざかり、再び路地に重苦しい静寂が訪れる。
「……」
アグナードは、倒れ伏したままの女を一瞥した。
彼女は震えていた。助けられたことへの安堵ではない。自分を支配していた暴力よりも、さらに得体の知れない「怪物」が目の前に現れたことへの恐怖。
「……立て」
短く、彼は告げた。
女は痛む体に鞭打ち、壁を伝ってゆっくりと顔を上げる。その瞳は、絶望の果てに何も映さないほど空虚だった。
「……なんで……」
血の混じった唾を吐き出し、彼女は掠れた声で問うた。
「なんで、私を助けたの……。あんたも、何かしたいから、ここに来たんでしょう……?」
それは、この街の底辺を生きる女が唯一知っている理屈だった。
何かを与えられる裏には、必ず奪われる何かがある。親切の裏には、必ず対価という名の搾取が控えている。
彼女は、次に自分が何をされるのかを想像し、怯えていた。
「……別に」
アグナードは視線を外し、遠くの暗闇を見つめた。
「ただの通り道だ。目についただけだ。そこにゴミが落ちていれば避ける。それと同じだ」
あまりにも軽い、存在の否定に近い理由。
女は、呆然とした。
殴られない。鎖に繋がれない。下卑た命令も下されない。
ただ「邪魔だった」という理由だけで、彼女を縛り付けていた地獄が消失した。
「……帰れ」
アグナードは踵を返す。
「二度と、こんな場所で騒ぎを起こすな」
それだけを言い残し、彼は再び夜の深淵へと溶け込もうとした。
そのとき。
「……待って」
女の声が、彼の背中を引き止めた。
アグナードは止まる。だが、やはり振り返ることはない。
「……私……行く場所なんて、ないの。帰るところも……もう、どこにもない」
静かな、諦念に満ちた言葉。
この街の掟では、逃げ出した娼婦に居場所などない。戻れば殺され、彷徨えば野犬の餌になるだけだ。
「……知らん。自分でどうにかしろ」
突き放す声。
女は俯いた。それが正しい反応だ。赤の他人に、自分の人生を背負わせようとする方が狂っている。
助けられた。それだけで十分すぎるほどの奇跡だ。
それでも。
彼女の足は、吸い寄せられるように男の背中へと向かっていた。
「……ねぇ」
震える声で、彼女はアグナードの外套の端を掴もうとして、その冷たい気配に手を止めた。
「……一晩でいいの。なんでもする。あんたが望むなら、どんなことでも。だから……」
言葉を絞り出す。
それが、彼女がこれまでの人生で唯一「生き延びる」ために磨いてきた技術だった。自分の体を投げ出し、相手の欲求を満たすことで、わずかな憐れみを乞う。
彼女は、それ以外の価値を、自分の内に見出せなかった。
「……」
アグナードは、ゆっくりと顔だけを向けた。
その瞳には、侮蔑すらも宿っていない。ただ、極北の海のような静寂があった。
「……いらない」
「……え?」
「そういうのは、いらない。俺に、お前の体で払えるものなど何もない」
はっきりと。二度と繰り返さないという意志を込めて、彼は言った。
女の体が、石のように強張った。
自分が全存在を賭けて差し出した対価が、価値以前に「不要」だと切り捨てられた。
「……じゃあ……私は……私は何をすればいいの……」
泣きそうな、迷子の子供のような問い。
価値を持たない自分。誰にも欲しがられない自分。それは彼女にとって、死よりも深い孤独を意味していた。
アグナードは少しだけ考え、そして歩き出した。
「……勝手に生きろ。誰のためでもなく、お前自身の都合でな。俺がそうしているように」
それが、彼が与えた最後にして唯一の、呪いのような教えだった。
男は去っていく。
暗闇に吸い込まれ、その姿は二度と見えなくなった。
女は、崩れた化粧のまま、一人で路地に立ち尽くした。
理解できない。
対価を求めず、支配もしない。
ただ、自分に「自由」という名の、何よりも重い重石を投げつけて去っていった男。
そんな人間が、この汚れきった世界に存在するのか。
胸の奥が、熱い。
今までに感じたことのない、どろりとした感情が腹の底で渦を巻く。
怖い。
逃げ出したいほどに、あの男の無関心が恐ろしい。
でも――。
「……ねぇ」
誰もいない闇に向かって、彼女はもう一度呼んだ。
返事はない。
「……あなた。……逃げないでよ」
血の混じった涙が、頬を伝い、地面に落ちる。
「……初めてなの。何も奪わないで、ただ『生きろ』なんて言った人は……」
アグナードは止まらない。彼はすでに彼女のことなど忘れているだろう。
だが、女は笑った。
その顔は、狂気と喜悦が入り混じった、歪な形をしていた。
「……いい。逃げてもいい」
指先で、乾き始めた唇の血を拭う。
「……あんたが忘れても、私が追うから。世界中のどこへ逃げても、見つけ出してあげる」
その瞳からは、先ほどまでの空虚さは消え失せていた。
代わりに宿ったのは、一人の男という太陽を焼き付けられたことによる、逃れられない盲目。
烈火のような執着。
「……絶対に、離さない」
誰に聞かせるでもなく、彼女はそう誓った。
アグナードに救われ、アグナードに捨てられた。
その欠落を埋めるために、彼女はこれからの一生を、彼の影を追うことに捧げるだろう。
――この日。
地獄に咲いた一輪の徒花は、救いという名の毒液を飲み干した。
そして、彼女は初めて、他者のためにではなく、己の狂おしい「欲」のために、その一歩を踏み出した。




