第57話:レオニア警告 「このままだと腐る」
王都の夜は、あまりにも静かだった。
石造りの壁に囲まれた屋敷の広間は、灯火の揺らめきさえも死に絶えたかのような、不気味な凪に包まれている。
そこに集う者たちの呼吸は、細く、浅く、空間を濁らせることもなく消えていく。
重い。
空気が、物理的な質量を伴って肩にのしかかってくる。
街は動いているはずだ。人々は手を貸し合い、商人は品を回し、均衡という名の透明な機構は今日も完璧に機能している。
だが。
動いているのに、淀んでいる。
流れがあるのに、その中身は腐った沼の底のように重く、暗い。
レオニアは、壁にもたれかかるのをやめ、広間の中央に立った。
鍛え上げられた巨躯を誇示するように、太い腕を組み、仁王立ちになる。
誰も、何もしていない。誰も、誰かを傷つけてはいない。
平和そのもの。
それなのに――。
苛立つ。
喉の奥を焼くような、じりじりとした焦燥感が、彼女の血を沸騰させていた。
(戦えない)
(ぶつかれない)
(外に出せない)
戦士としての本能が、悲鳴を上げている。
かつての戦場にあった、生と死が激しく火花を散らすあの熱量。
裏切りも、憎しみも、殺意さえも、そこには「生」の躍動があった。
しかし、今のこの場所には何もない。
均衡を守るという名の自制。
アグナードを傷つけないという名の沈黙。
その呪縛の中で、力が余る。筋肉が、実戦を忘れた獣のように鈍っていく。
「……気持ち悪いな」
誰に聞かせるでもなく、地を這うような低音で吐き捨てた。
誰かが反応するのを期待したわけではない。ただ、言わずにはいられなかった。
レオニアは、組んだ腕を解かずに周囲を見渡した。
カレン、マリア、クラリス、セリス……。
そこにいる誰もが、同じ顔をしていた。
表面上は穏やかで、あるいは冷徹。
だが、その奥底では全員が己の衝動を喉元で押し殺し、どろりとした情念を飲み込み続けている。
(分かってるだろ。全員が、分かりきってるはずだ)
ここで一歩踏み出せば。誰かに刃を向ければ。アグナードに手を伸ばせば。
このガラス細工のような均衡は砕け散り、元の「汚れた世界」が戻ってくる。
それが、彼に救われた自分たちが最もやってはいけないことだと、骨の髄まで理解している。
だから、やらない。
それが正しい。それが「恩」を返す唯一の方法なのだ。
だが――。
「……それでいいのかよ、お前ら」
声が、少しだけ強くなった。
石畳に響くその振動は、静止した空間に投じられた岩のように、明確な異物となって広がっていく。
視線が集まる。
カレンの皮肉めいた瞳が、マリアの憐憫を含んだ眼差しが、クラリスの透徹した理性が、一斉にレオニアに突き刺さった。
時間が止まる。
だが、誰も何も言わない。
反論も、肯定も、嘲笑もない。
ただ、真空のような沈黙が返ってくるだけ。
その無反応さが、余計に彼女の苛立ちを煽った。
レオニアは、一歩前に出た。
重いブーツが床を叩き、境界線を無造作に踏み越える。
「壊れるのが怖いか? この、嘘っぱちみたいな平和が」
返事はない。
当然だ。そんな問い、答えを出すまでもない。
全員が同じ恐怖を抱え、同じ絶望を共有している。
だからこそ、石像のように止まっているのだ。
「……違うだろ」
声を落とす。
奥歯を噛み締め、言葉の一つひとつを噛み殺すようにして、彼女は続けた。
「……腐るのが怖いんだろ。本当は」
空気が、明確に揺れた。
ほんのわずか。
カレンの指が、ピクリと動く。
マリアの視線が、わずかに床へと逸れる。
クラリスの、常に崩れないはずの眉間が、一瞬だけ歪んだ。
図星。
言葉にすれば、この「地獄」の正体が剥き出しになる。
レオニアは笑わなかった。
ただ、その野性味に溢れた瞳で、広間にいる全員を一人ずつ睨みつけた。
「このままだと、俺たちは腐る。動かねぇまま、誰にも触れねえまま、自分を殺し続けて、ただの死体になるんだよ」
はっきりと。
この広間の静寂を、物理的に切り裂くような鋭い声。
「動かねぇまま、終わる。それが、あいつに救われた俺たちの結末か? ああ?」
沈黙。
あまりに長く、あまりに重い、漆黒の静寂。
誰も、動かない。
カレンは窓の外を、マリアは虚空を、クラリスは手元の資料を見つめ直した。
理解はしている。認めれば終わることを。
だから、誰もこの「警告」を拾おうとはしなかった。
レオニアは、小さく舌打ちをした。
(分かってて、やらねえ。自分の心臓が腐り始めてるのに、止まることを選んでる)
(だからこそ、腐りは加速するんだ)
彼女は視線を外した。
広間の少し離れた場所、影の中に佇むアグナードを見る。
彼は、何もしていない。
彼に何かを求める視線が、自分に突き刺さる警告が、空気中に溢れているというのに。
彼は何も言わない。
ただそこに座り、あるいは立ち、無関心という名の壁を自分との間に築いている。
それでも、彼がそこにいるだけで、この歪な構造は維持される。
「……あんたもだ、アグナード」
届かない距離。
届かない言葉。
彼にとって、レオニアの叫びも、他の女たちの絶望も、ただの「ノイズ」に過ぎないのかもしれない。
それでも、彼女は言わずにはいられなかった。
「そのままでいいのかよ、あんたは。……俺たちが腐っていくのを、ただ見てるだけか」
返事はない。
いつも通り、反応の一つさえない。
それが、何よりもレオニアを絶望させ、苛立たせた。
アグナードという基準は、あまりにも透明で、あまりにも高い。
レオニアは背を向けた。
これ以上ここにいても、自分の爪を噛み切ることしかできない。
歩き出す足音は重く、自ら課した「抑制」の鎖を引きずるような音がした。
止まらない。
だが、踏み出さない。
今ここで彼に向かって叫び、胸ぐらを掴み、この沈黙を暴力で破壊してしまいたいという衝動を、彼女は最後の理性で縛り付けていた。
まだ、その時ではない。
彼を傷つけることだけは、あの日救われた「誇り」が許さなかった。
「……くそ」
路地裏へ続く扉を開けながら、彼女は小さく呪った。
今日も、自分を抑え込んだ。
今日も、均衡は守られた。
だが。
腐りは――。
もう、誰の目にも明らかなほどに、内側から始まっている。
発散されない熱量が、澱んだ空気の中で悪臭を放ち、彼女たちの魂をゆっくりと、確実に侵食していた。
夜の闇に消えるレオニアの背中に、広間の沈黙が冷たく降りかかる。
均衡の決壊は、もはや時間の問題だった。




