第56話:セリス決断 壊すか守るか
王都の夜は、月光さえも沈黙させるような、あまりに不気味な凪の中にあった。
高所に立つ銀の騎士、セリスの瞳には、かつて見たことのないほど整然とした街の灯火が映し出されている。
静かすぎる。
通りの端々、建物の屋根、そして石畳の上。
そこには確かに人がいる。
呼吸をし、熱を持ち、動いている。
でも――
“選ばれていない”。
その確信が、セリスの胸を鋭く抉った。
誰もが、自分の意志で明日を掴もうとしていない。ただ、アグナードという中心軸が放つ、無自覚な「不干渉」という磁場に囚われているだけだ。
セリスは、屋敷の広間の中央に立っていた。
そこは、誰のものでもない場所。
利害も、執着も、階級も入り混じるこの異様な空間の中で、彼女だけが、秩序という名の物差しを捨てきれずにいた。
視線を巡らせる。
均衡。
維持。
抑制。
そこに並ぶ女たちの横顔を見れば、すべてがわかる。
カレンの皮肉めいた沈黙、クラリスの研ぎ澄まされた静止、リリスの狂気じみた自制。
全員が理解しているのだ。
“やれば壊れる”
この危うい均衡に一太刀でも入れれば、砂上の楼閣は崩れ、二度と元の美しさには戻らない。
だから、彼女たちは自らを殺し、やらないことを選んでいる。
(……異常だ)
治安維持の騎士として、これほど完璧な平和はない。
だが、人間としての本能が、これは正解ではないと叫んでいる。
正しい。
でも、絶対におかしいのだ。
世界が止まっている。
前へと進むための摩擦さえもが、アグナードという潤滑油によって消し去られている。
いや――
進めないのだ。
誰もが、彼に嫌われることを、彼を失うことを恐れるあまり、一歩を踏み出す勇気を奪われている。
「……」
甲冑の手甲の中で、セリスは拳を強く握りしめた。
自分の役割とは何か。
治安。
秩序。
法という枠組みで、人々を導くこと。
本来なら、国家の剣として命じる側だ。
逸脱を止める側だ。
だが、このアグナードを巡る世界には――。
それがない。
彼が何も命じず、何も求めないからこそ、この世界は成立している。
命令がないからこそ、誰も反抗できず、ただ同調という名の泥沼に沈んでいく。
(壊せば、終わる)
理解している。
完全に、嫌というほどに。
一言でいい。
一歩でいい。
“やめろ”
“動け”
その、騎士としての当然の介入を行うだけで。
この偽りの平和は瓦解し、すべてが変わる。
秩序は再び国家の手に戻り、人々は不自由な日常へと回帰するだろう。
それは、彼女が守るべき「元の世界」だ。
視線が止まる。
アグナード。
相変わらず、何もしない存在。
ただ座り、無機質な瞳で空を見つめている。
それでも、この場のすべてに、王都のすべてに、彼は決定的な影響を及ぼしている。
(……あいつは選ばない。……選んでくれない)
アグナードは、壊すことも守ることも選択しない。
だから。
自分が、選ぶしかないのだ。
秩序を司る者として。彼を監視する「任務」を帯びた者として。
喉が焼けるように熱い。
言葉が、せり上がってくる。
抑え込んできた「法」の言葉が、今にも溢れ出しそうになる。
壊すべきか。
守るべきか。
どちらも正しい。
秩序を取り戻すことは騎士の正義だ。
だが、この平和を守ることも、民を思う者としての正義だ。
どちらも間違いだ。
この停滞を許すことは怠慢であり、この平和を壊すことは暴力だ。
「……っ」
迷いはない。
セリスの瞳に宿ったのは、ただ一つの色。
覚悟だけ。
一歩。
彼女は、広間の石畳を鳴らして踏み出した。
その金属音は、静止した世界に投じられた明確な打撃だった。
止まらない。
もう、自分を抑えることはできない。
このままでは、世界も、彼も、自分も、すべてがこの静かな地獄に溶けて消えてしまう。
「……私は――」
言いかけて。
セリスは、止まった。
一瞬。
ほんの、一瞬。
脳裏に浮かぶ。
壊れた後の光景。
砕け散った女たちの心。
血を流し、再び争いを始める民衆。
自分を拒絶し、軽蔑の眼差しすら向けずに立ち去るアグナードの背中。
戻らない均衡。
その瓦礫の山。
(……それが、本当に正しいのか?)
沈黙。
あまりに長い、数秒。
誰も何も言わない。
カレンも、マリアも、クラリスも。
ただ、息を呑んで彼女の次の一言を待っている。
世界が、待っている。
銀の騎士、セリスが下す、決定的な選択を。
「……まだだ」
小さく。
奥歯を噛み締め、血の味がするほどに喉を押し殺して。
セリスは、踏み出した足を止めた。
選ばない。
今は。
壊さない。
この歪な平和を、もう少しだけ、自分の肩で背負い続ける。
それが今の彼女にできる、最も残酷で最も慈悲深い「維持」だった。
だが。
彼女は決めた。
次。
次、何かがこの均衡を揺らしたとき。
その時は、もう自分を止めない。
自らの手で、この不自然な幕を引く。
均衡は――。
もう、終わる。
その予感だけが、広間に満ちる冷たい空気の中で、静かに、だが確実に形を成していた。
夜が明けるまでの短い猶予。
セリスは再び、ただの観測者へと戻るために、静かに目を閉じた。




