第54話:カレン涙 触れない苦しみ
夜の帳が、王都の屋敷を冷たく塗り潰していた。
窓から差し込む青白い月光が、廊下の絨毯に細長い空白を描き出している。
その境界線の上に、カレンは立っていた。
距離がある。
物理的には、ほんの数歩。
手を伸ばせば、その指先は確実に彼の体温に届く。
その漆黒の外套の感触を、その背中の堅さを、確かめることができる。
……届くはずなのに。
カレンは動かなかった。
動けなかった。
かつては、欲しいものはすべて力ずくで奪ってきた。
人の心も、財宝も、命さえも。略奪者としての彼女に、躊躇という言葉は存在しなかったはずだ。
だが、今は違う。
目の前にいる男――アグナード。
彼はいつも通りだった。
感情の起伏を感じさせない、凪のような横顔。
周囲の女たちがどれほどの地獄を内側に抱え、自分という存在に狂わされているかなど、これっぽっちも興味がないと言わんばかりの、無機質な静止。
それが、余計にきつい。
(なんで……)
問いかけが喉まで出かけて、カレンはそれを無理やり飲み込んだ。
言葉にすれば、それは「愛」や「執着」といった、彼女が最も忌み嫌っていた弱さの形になってしまう。
言えない。
言った瞬間、この危うい均衡は粉々に砕け散り、彼との繋がりさえも消えてしまう。
そんな予感があった。
わかっている。
やるべきことは、あまりにも簡単だ。
一歩。
ただ一歩、その境界線を越えて踏み出せばいい。
そのまま、その広い背中に抱きつけばいい。
肌と肌が触れ合い、体温を感じれば、この乾いた渇きは癒えるはずだ。
略奪者らしく、力ずくで彼を自分の領域に引きずり込めばいい。
この世界なら、今のこの歪な屋敷なら、誰も止めない。
皆が同じ衝動を抱え、皆が同じように限界で止まっているからこそ、誰かが最初の一線を越えるのを、どこかで待っている。
でも――
「……っ」
足が止まる。
石像のように、一ミリだって動かない。
怖いのだ。
略奪を繰り返してきた彼女が、生まれて初めて「失うこと」を恐れていた。
壊れるのが。
今のこの、彼と同じ空気を吸っているだけの関係が変わってしまうのが。
一度触れてしまえば、もう二度と「今の自分」には戻れなくなるのが。
彼という基準から外れ、ただの「縋る女」に成り下がってしまうことが、耐えられなかった。
(触れたら……終わる)
意味はない。論理的な説明もつかない。
だが、確信だけがあった。
アグナードという男は、執着を向けられた瞬間に、その存在を無機質に切り捨てる。
その潔癖なまでの不干渉を壊せば、彼との接点は永遠に失われる。
カレンは拳を握る。
爪が手のひらに食い込み、鋭い痛みが走る。
強く。
肩が震えるほどに。
それでも。
彼女の足は、その一歩を踏み出すことを拒絶し続けた。
ぽたり。
石畳のような床に、一滴の雫が落ちた。
自分でも気づかないまま、視界が滲んでいた。
流れるはずのないものが、頬を伝う。
涙。
かつて、絶望する被害者たちが見せてきた、あの無価値な液体。
それを今、自分が流している。
「……なんでよ」
小さく、掠れた声。
夜の静寂に吸い込まれ、誰の耳にも届かない、彼女だけの悲鳴。
触れたいだけなのに。
その温もりを確認して、安心したいだけなのに。
これまでの人生で、数え切れないほど繰り返してきた「所有」という行為が、今の彼女には、世界で最も困難な偉業のように感じられた。
こんなに近いのに。
手を伸ばせば、その指は彼の髪にさえ届くのに。
心の距離は、宇宙の果てよりも遠い。
アグナードは気づかない。
背後で一人の女が、魂を削るような葛藤の末に涙を零していることなど。
いつも通り。
何も変わらない。
彼の視界には、依然として「自分以外の存在」は映っていない。
それが、何よりも痛かった。
刃で斬られるよりも、心臓を撃ち抜かれるよりも、彼の「無関心」という拒絶はカレンを深く抉る。
カレンは、乱暴に顔を背けた。
見られたくない。
たとえ彼が自分を見ていないとしても、この無様な姿を晒すことだけは、彼女の最後の一線だった。
涙を拭う。
袖で、乱暴に。
何もなかったみたいに。
いつもの、不敵で、傲慢なカレンに戻ろうとする。
……できない。
拭っても、拭っても、胸の奥に澱のように溜まった苦しみが消えない。
物理的な涙を消したところで、魂が流し続ける「触れられない渇き」は止まってくれない。
触れられない距離。
壊すことができない、意気地のない自分。
アグナードという名の、高すぎる基準。
カレンは笑う。
無理やり。
口角を吊り上げ、いつもの、すべてを小馬鹿にしたような表情を張り付かせる。
月の光に照らされたその笑顔は、ひどく歪で、今にも崩れそうなほど脆かった。
「……ふん」
鼻で笑ってみせる。
でも、その吐息は震えていた。
均衡は守られた。
今日も彼女は、一線を越えなかった。
彼に触れず、彼を壊さず、ただ見守る者としての「不快のない存在」であり続けた。
だが。
限界は、すぐそこまで来ていた。
内側に溜まり続けるこの熱量が、いつか彼女を焼き尽くすか、あるいは世界を焼き払うか。
そのカウントダウンの音は、静寂の中で確実に大きくなっていた。
カレンは再び彼を振り返ることなく、闇の中へと消えていった。
後に残されたのは、月光に照らされた無人の廊下と、乾き始めた一滴の跡だけだった。




