第53話:リリス限界寸前 でも止まる
月光すら届かない、屋敷の廊下の隅。
そこには、世界で最も濃密で、最も壊れやすい距離があった。
近い。
あまりにも、近すぎる。
目の前には、アグナードの背中がある。
手を伸ばせば、その漆黒の外套に触れられる。あと一歩、踏み出すだけで、その体温を感じられる距離。
アグナードは気づいていない。あるいは、気づいていても無関心を貫いているのか。
彼はいつも通りだった。
何も考えていないような、無機質な横顔。周囲を狂わせ、世界を書き換えている自覚など微塵もない、あまりに無防備で冷徹な静止。
リリスは、息を止めていた。
彼女の細い指先が、吸い寄せられるように彼の方へと伸びかける。
あと数センチ。そのわずかな境界を越えれば、彼女が抱き続けてきた「執着」は形を得る。
だが。
止めた。
空中で静止した指先が、激しく震える。
触れれば終わる。
理解していた。この指が彼に触れた瞬間、この屋敷を、そしてこの王都をかろうじて繋ぎ止めている「均衡」という名の糸が、音を立てて千切れることを。
今、この瞬間、彼女の背後には何十もの視線があるような錯覚を覚える。
同じように自分を殺し、同じように限界まで溜め込んでいる女たちの、凍りついた気配。
(……触れたい)
脳内で、獣のような叫びが木霊する。
(独り占めしたい)
(私だけのものにしたい)
(誰にも、一秒だって渡したくない)
胸の奥で、どろりとした情念が暴れ狂っていた。
理性が焼き切れ、本能が叫びを上げる。
息が浅い。
心臓の音が耳元で爆音となって響き、視界が極端に狭まっていく。
世界からすべての色が消え、ただ目の前にある「背中」だけが、唯一の鮮やかな実体として浮かび上がる。
一歩。
ただ一歩、膝を前に出せばいい。
しがみつけばいい。
泣き叫んで、その孤独の中に自分を無理やりねじ込めばいい。
それだけで、すべては解決する。
誰も止めはしないだろう。
誰も、表立って彼女を責めはしない。
今のこの王都は――そういう場所だ。
アグナードという絶対的な基準の前では、個人のわがままも、狂気も、等しく無価値として受け流される。
でも。
「……だめ」
唇から漏れたのは、祈りにも似た拒絶だった。
小さく、風が吹けば消えてしまうような掠れた声。
リリスは自分で、自分を止めた。
そこに、高潔な理由などない。
立派な理屈も、道徳も関係ない。
ただ。
壊れると、直感でわかるからだ。
もしここで自分が境界を越えれば、アグナードはどうなるか。
彼はただ、不快そうに眉を寄せ、そのまま彼女を捨てて去るだろう。
他の女たちはどうなるか。
均衡は崩壊し、屋敷は戦場へと変わり、王都に流れる「善意の連鎖」は、醜い「独占の競争」へと姿を変える。
世界はどうなるか。
アグナードが意図せず作り上げた、この歪で美しい平和は、一瞬で瓦解する。
全部、見える。
彼女の鋭敏すぎる感性が、未来の破滅を鮮明に映し出してしまう。
(嫌われる)
(壊れる)
(終わる)
それだけは、死んでも嫌だった。
彼に拒絶されるくらいなら、彼を失うくらいなら、このまま「何も起きない地獄」の中で、自らを削り続ける方がマシだ。
リリスは、ゆっくりと、震える手を引いた。
数分、あるいは数時間にも感じられる時間をかけて、指先を自分の胸元へと戻す。
何もなかったみたいに。
最初から、何も望んでいなかったみたいに。
アグナードは振り向かない。
やはり、気づいていない。
目の前の少女が、今この瞬間に世界を一度壊し、そして作り直したことさえ、彼は知らない。
それでいい。
それが、この世界なのだ。
中心にいる男が何も知らず、周囲にいる者たちだけが、その沈黙に殉じて自らを殺し続ける。
リリスは、唇の両端を吊り上げた。
暗闇の中で、不自然なほど完璧な微笑みを作る。
いつも通りの顔。
何も起きていない顔。
でも。
その内側は、とっくに限界を超えていた。
抑え込まれた情熱は、行き場を失って彼女自身の精神を内側から焼き、どろどろに溶かしていく。
皮一枚で繋ぎ止めているだけの、張り詰めた自我。
それでも、抑えた。
今日も。
昨日と同じように。
自分の執着よりも、彼の「静寂」を優先した。
この歪な世界を、壊さなかった。
だから。
この息苦しいほどに穏やかな日々は、まだ続く。
明日もまた、同じ距離で、同じ絶望を抱えながら、彼女は彼の背中を見続けるのだろう。
リリスは静かに背を向け、闇の中に溶けていった。
廊下には、冷たい空気だけが残された。
アグナードは相変わらず、何も知らずにそこに立っていた。
均衡は守られた。
だが、その歪みは、さらに深く、暗く、彼女たちの心の奥底に溜まっていく。
決壊の音を、誰もが聴いていた。




