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助ける。でも選ぶのはお前だ ~救った結果、世界が止まったので壊すことにした~  作者: 慈架太子


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第52話:溜まっている

夜の帳が王都を深く、重く包み込んでいた。

かつては略奪の快楽が吹き荒れていた屋敷も、今は静寂という名の膜に覆われている。

使用人の足音さえも消え、廊下に並ぶ燭台の火は揺れることもなく、ただ無機質に闇を穿っている。

表面上は、何も起きていない。

だが、その壁の内側、個々の部屋に閉じ込められた女たちの精神は、沸騰寸前の熱量を孕んだまま凝固していた。


カレンは、暗い部屋の窓際に立っていた。

窓硝子の向こうには、整然と並ぶ王都の灯火が見える。かつての彼女なら、あの光の一つひとつを蹂躙し、己の欲望のままに奪い尽くしていただろう。

しかし、今の彼女はただ、窓枠に指先を添えている。


ト、ト、ト……。


爪が木枠を叩く音が、規則性もなく、ただ苛立ちの残響のように響く。


(……つまらない)


心の中で吐き捨てる。

かつての刺激、喉を焼くようなスリル、それらすべてがこの「完璧な静寂」に飲み込まれて消えた。

アグナードを巡るこの均衡。一歩、踏み込めばいい。誰かを挑発し、この調和を内側から食い破り、混沌を呼び戻せばいい。そうすれば、自分は再び自由になれる。

彼女にはその力があり、その方法を熟知していた。


(……でも)


その思考の先で、冷たい氷のような制止が働く。


(……迷惑になるわね)


舌打ちが喉の奥で、苦い味を伴って止まる。彼に疎まれること、彼の視界から排除されることへの根源的な恐怖が、略奪者の本能を力ずくで檻に閉じ込めていた。


階下の別の部屋。

マリアは、寝台の脇に置かれた椅子に深く腰掛けていた。

祈るように組まれた手は微動だにせず、その表情は慈愛に満ちた聖母そのものだ。

しかし、彼女の脳細胞は休息を知らず、現在の状況を冷徹な数式のように弾き出していた。


(……安定している。表面的には、理想的な状態だと言えるでしょう)


分析。

だが、それは同時に、人々の心が摩耗し、限界を迎えていることも示している。


(……長くは持たない。必ず、反動が来る)


理解している。だからこそ、今すぐにでも自分が介入し、人々の不安を和らげる「調整」を行うべきだと理性は告げている。

だが、彼女もまた動かない。


(……今は触れない。あの方が望まぬ余計な波風を立てるわけにはいかないから)


結論はいつも、袋小路に突き当たる。


クラリスは、執務机の前で背筋を伸ばしていた。

目の前には、白紙の羊皮紙。ペンは置かれたままで、インクは乾ききっている。


(……構造はすべて見えているわ)


王都を包むこの異常な均衡。どこを突けば崩れるか、どの情報を流せば民衆がパニックに陥るか。

国家を揺るがす方法は、彼女の頭の中にいくつもストックされている。


(……だが、それをやる意味がない)


合理的、あまりにも合理的な結論。

混乱はコストを生む。そして何より、彼という基準を汚すことに繋がる。

しかし、その一方で、彼女のプライドが小さく悲鳴を上げていた。


(……面白くはないわね。これでは、ただの観測者だわ)


有能すぎる彼女にとって、能力を行使できない現状は、緩やかな窒息に近い苦痛だった。


廊下の壁にもたれかかっているのは、レオニアだ。

漆喰の冷たさが背中に伝わるが、彼女の筋肉は極限まで緊張し、熱を帯びている。

目は閉じられていない。暗闇の中で、獲物を探す獣のような鋭い光を放っている。


(……動きてえ。暴れてえ)


それは戦士としての本能。衝動。

目の前の石壁を砕き、刃を抜いて、斬るべき敵と対峙したい。


(……斬れる奴がいるなら、今すぐにでも斬りてえんだ)


だが、拳を握り込む音さえも、彼女は殺した。

あの日、あの男に救われた時に示された「基準」。


(……必要な時だけだ。それ以外で剣を抜くのは、ただの暴力だ)


自らの内なる荒ぶる魂を、彼女はアグナードの影で抑え込んでいた。


庭園、夜霧の中にリリスが立っていた。

冷気が肌を刺すが、彼女はそれに気づかない。

彼女の視線の先にあるのは、アグナードが眠る、あるいは起きているであろう部屋の窓。


(……近づきたい。隣に行きたい)


ただ、それだけ。

(……触れたい。その熱を感じたい)


狂おしいほどの情熱。しかし、彼女はその一歩を踏み出さない。

自分一人のわがままで、この危うい調和を壊すわけにはいかない。


(……今じゃない。今はまだ、私は彼を遠くから見守る権利しか持っていないから)


止まる。祈るように、自分を殺す。


屋根の上では、エルナがリュートを膝に抱えていた。

指は弦に触れているが、音は鳴らさない。


(……もっと、書ける。もっと劇的な物語を)


人々が熱狂し、涙し、救世主に跪くような詩。言葉を飾り、事実を盛れば、この噂は大陸全土に広がるだろう。


(……でも、それは違う)


あの日見た、あの男の無機質な背中。

嘘を並べれば、彼の真実が消えてしまう。

だから、彼女は指を止める。自分が最も得意とする「虚飾」を選ばないことで、彼に殉じようとしていた。


そして、王都の高所。

セリスは、甲冑の軋む音さえも風に溶かして、街を見下ろしていた。


(……崩せる。今この瞬間に介入すれば、この不自然な均衡は破壊できる)


確信。

それは秩序の番人としての義務感。

(……だが、今はそのタイミングではない)


理性が、使命感が、彼女を縛り付ける。

早すぎる介入は破綻を招く。だから、彼女もまた「やらない」という名の選択肢を飲み込む。


全員が、同じだった。

彼女たちは強者だ。

一国を動かし、歴史を変えるだけの力、知略、魔力、あるいはカリスマ性を持っている。

できる。やれる。壊せる。

その気になれば、アグナードを巡るこの奇妙な平和を、一瞬で終わらせることもできるのだ。


だが。

やらない。

全員が、自分自身の意思で、喉元まで迫った衝動を、欲望を、選択肢を、力ずくで飲み込み続けている。


「……」


深い静寂。

外から見れば、屋敷も街も、凪いだ海のように穏やかだ。

だが。

内側では、凄まじい密度の「何か」が溜まっていた。

発散されない欲望。

押し殺された衝動。

行使されない選択肢。

それらすべてが、出口のない巨大なダムのように、決壊寸前の水圧となって彼女たちの内面を圧迫し続けている。


ただ、止めているだけ。

誰もが限界まで自分を押し殺し、均衡という名の呪縛に身を捧げている。


――この日。

目に見える事件は、一つも起きなかった。

だが、王都の地下水脈に熱いマグマが溜まっていくように。

すべてが溜まった。

あとは、誰かが投じる「一石」が、あるいは「一言」が、この巨大なダムを破壊するのを待つだけだった。


溜まりに溜まったその重圧が、王都の夜をさらに深く、息苦しいものへと変えていた。







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