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助ける。でも選ぶのはお前だ ~救った結果、世界が止まったので壊すことにした~  作者: 慈架太子


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第45話:重さ

夜の帳が王都を深く、重く包み込んでいた。

中央広場には、昼間の喧騒とは質の異なる、密度の高い静寂が澱んでいる。

広場を照らす石造りの灯籠に火が入り、揺れる光が石畳を断片的に照らし出していた。


人が集まっていた。

その数は、いつもの夜の広場とは比べものにならないほど多い。

だが、そこには祭りのような浮き足立った期待感はない。

囁き合う声さえも低く、湿り気を帯びたざわめきが波のように寄せては返している。

彼らは待っていた。

最近、街の至る所で耳にする「あの男」の、真実の姿を語る言葉を。


広場の中央、粗末な木材を組み上げただけの小さな舞台。

エルナは、そこに一人で立っていた。

使い込まれたリュートの首を優しく、だが確かな力で抱えて。


「……」


彼女はゆっくりと視線を上げ、集まった観衆を見渡した。

一人一人の瞳に、期待と、好奇心と、そして何かに縋りたいという切実な熱が宿っている。

群衆は日に日に膨れ上がっている。

彼女が歌えば歌うほど、人々は「特別な奇跡」を、自分たちを救い上げてくれる「聖者」の物語を強く求めるようになっていた。


(……でも、あんたはそんなんじゃない)


エルナは心の中で、誰にも届かない言葉を呟いた。

彼女は深く、肺の奥まで夜の冷気を吸い込んだ。

そして、ゆっくりと吐き出す。

その動作一つで、彼女の周囲から余計な熱が削ぎ落とされていった。


指が、静かに弦に触れる。

最初の音が鳴った。

それはきらびやかな和音ではない。ただの、一点の曇りもない透明な低音。

その響きが波紋のように広がると、広場のざわめきが、まるで魔法にかけられたように止まった。


「――特別な男の話ではない」


歌い出し。最初の一文。

観客の間に、微かな、だが明確な動揺が走る。

彼らが期待していたのは、光り輝く剣を持ち、悪を挫く勇壮な英雄譚だ。

だが、エルナの歌う旋律は、それらとは真逆の色彩を帯びていた。


「――ただの人間の話だ」


音が続く。

どこまでも低く、飾りを排した、地面を這うような旋律。

エルナは誰の顔も見ていなかった。ただ、脳裏に焼き付いている「あの背中」だけを追いかけていた。


「――強くもない」

「――正しくもない」

「――自分が何をしているのかさえ、何も分かっていない」


空気が、劇的に変わっていく。

軽やかさは消え、心地よいカタルシスもそこにはない。

物語の王道から外れた冷徹なフレーズが、聴衆の心に鉛のように沈み込んでいく。

盛り上がりなど微塵もない。

なのに、人々は引かれていた。

その「拒絶」に近いまでの真実味に、逃げ場を失っていた。


「――それでも」


一瞬、間。

広場全体が息を止めた。


「――その手は、差し出された」


音が少しだけ強くなる。

光り輝く魔法の力でも、天の慈悲でもない。ただの血の通った、肉体という名の質量。


「――理由はない」

「――意味もない」

「――ただ、そこに不快があったから」

「――ただ、そこに、あんたがいたからだ」


観客の表情が、複雑に歪み始めた。

理解しようとする顔。納得いかないと首を振る顔。

だが、彼らがこれまで抱いていた「聖者」という名の虚像が、エルナの歌声によって一枚ずつ剥がされていく。


「――救われた者は、感謝を捧げた」

「――だが、彼はその手を受け取らない」

「――祈りも、金も、名前さえも」

「――後には、何も残らない」


重い。

それは、聞いていて全く気持ちの良くない歌だった。

高揚感も、明日への希望も、自分たちが期待していた「都合の良い救い」も、この歌はことごとく否定していく。

なのに、誰も耳を塞げなかった。

誰も、その場から離れることができなかった。


「――残るのは」

「――“やった”という、あまりに無機質な事実だけ」


音が、一段と低く落ちる。

蝋燭の火が消えかかるような、危うい静寂。


「――だが、その跡を見た者が」

「――理由も分からぬまま、次に動いた」

「――連鎖する善意に、名前はない」

「――ただ、確かに繋がった。あの男の無関心が、世界を一つに変えた」


言葉が広がっていく。

広場を埋め尽くした人々の間を、透明な衝撃となって駆け抜けていく。


「――それは、神が下した奇跡ではない」

「――吟遊詩人が飾る、美しい物語でもない」

「――ただの、泥にまみれた連鎖だ」


最後。

エルナは、全ての弦を右手で押さえ、音を完全に止めた。

一拍。

無限にも思える沈黙の後、彼女は呟くように結んだ。


「――それでも。その瞬間だけは、確かに、あった」


終わり。

完全な、絶対的な静寂が広場を支配した。


誰一人が、拍手をしなかった。

できないのだ。

胸の奥に、あまりに重い「事実」を置かれてしまったために。

歌をエンターテインメントとして消費することを、彼女の旋律が許さなかったからだ。

手のひらを叩く音を立てることさえ、今の彼らには場違いで、不敬なことに感じられた。


「……」


エルナは何も言わなかった。

満足げな微笑みも、謙虚な礼もない。

ただ、舞台の上に立ち、集まった人々を無表情に見つめている。

彼女もまた、アグナードという基準によって、評価を求めるという機能を捨て去っていた。


観客の中、最前列にいた一人の男が、肺の中の空気をすべて吐き出すように小さく息を吐いた。


「……重いな」


誰かが呟いた。

その呟きは、決して否定的なものではなかった。

「……でも」

別の声が続く。

「……嘘じゃないな。あれは」


それだけだった。

華々しい賛辞はない。

だが、その言葉こそが、エルナが求めていた唯一の対価だった。


やがて。

ぽつり、と。

広場の端から、乾いた拍手の音が一つ。

それは爆発的に広がることはなかった。

連鎖し、波及し、嵐のような喝采に化けることもなかった。


だが、止まらなかった。

一人、また一人。

静かに、噛みしめるように。

大きくはならない、だが力強い手のひらの音が、夜の広場をゆっくりと満たしていく。


エルナは、ゆっくりと目を閉じた。

瞼の裏に、かつて見たアグナードの横顔を思い浮かべる。


「……」


成功とは呼べないだろう。

人気が出るわけでもないだろう。

明日になれば、多くの人がもっと派手で、もっと気持ちの良い物語を求めて別の場所へ去っていくかもしれない。


だが。

この夜、この場にいた者たちの心には、楔が打ち込まれた。

“消えない”。

彼らはこれから、誰かを助ける時、あるいは助けられた時。

今日のこの重い旋律を、あの男の無骨な背中を、嫌でも思い出すことになる。

それでいい。それが、吟遊詩人としてのエルナが下した、救われた者としての判断。


――この日。

歌は、流行のようには広がらなかった。

だが、石に刻まれた文字のように、深く、深く、聴衆の魂に刻まれた。


流行ブームではなく、信仰しんこうでもなく。

ただ一つ、「真実の重さ」として。


広場を去る人々の足取りは、来たときよりもずっと静かで、重厚なものに変わっていた。

エルナは舞台を下り、リュートをケースに仕舞う。

夜風が彼女の頬を撫で、王都の闇の中、また一つ新しい連鎖が静かに動き出した。






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