第44話:やるか?
夜の帳が王都の外れを深く、重く包み込んでいた。
かつては活発な物流の拠点であったはずの古い倉庫街は、今や崩れ落ちた梁や積み上がった瓦礫が月光を遮り、巨大な骸のように沈黙している。
灯火の一つもなく、湿った土と腐りかけた木材の匂いが漂う暗がりのなかで、世界は色彩を失っていた。
その倉庫の内部、一際濃い闇が澱む場所で、二つの影が対峙していた。
一つは、少年の影。リンだ。
彼は瓦礫の影に音もなく立ち、獲物を狙う獣のような鋭い眼差しを前方に据えていた。
もう一つは、長身の男の影。
それは昼間、路地の屋根の上からリンが完全に射程に収めながらも、あえて見逃した「敵」の一人だった。一度は逃げおおせたはずの男が、なぜかこの場所で足を止めていた。
「……」
互いに十分な距離を保っている。
一歩踏み込めば刃が届く。だが、その一歩を踏み出す者はいない。
静寂が、鼓膜に痛いほど響いていた。
「……追ってきたのか。それとも、俺を始末しに来たのか」
男が低く、掠れた声で言った。その声音には、恐怖よりも純粋な好奇心が混じっている。
「……違う」
リンが即座に、冷淡に答える。
「……確認だ」
「……は?」
男は不意を突かれたように、短く笑った。その笑いには、子供一人に追い詰められている現状への自嘲が含まれていた。
「……子供が夜中に一人でこんな場所まで来て、確認だ、と? 何を確認するつもりだ。俺の死に顔か?」
「……」
リンは何も答えない。
視線を逸らさず、男の呼吸の深さ、重心の位置、そして懐に隠した手の動きを冷徹に監視し続ける。
その揺るぎない「個」の強さに、男はわずかに眉を動かした。
「……面白いな、お前」
男は少しだけ肩をすくめ、張り詰めていた気力をわずかに抜いて見せた。それは降伏の合図ではなく、交渉のテーブルを用意するための隙だった。
「……で」
男は一歩、ゆっくりと距離を詰めた。
「……やるか?」
軽く、まるで明日の天気を尋ねるような軽薄な口調。
だが、その一言に込められた意味は、戦場のそれよりも重い。
組むか。
殺すか。
それとも、見逃すか。
どちらの選択を選んでもいい。この闇の中、目撃者はいない。
「……」
リンは動かなかった。
指先一つ、視線の一つさえも、男に隙を与えない。
「……お前、やれただろ。あの時」
男が続ける。
「……昼間、路地の屋根の上だ。お前は俺を上から見ていた。完全に捉えていたはずだ」
「……」
「今更隠すな。あの殺気、素人のものじゃない。お前があの瞬間に手を動かしていれば、俺は今頃、石畳の上で冷たくなってた」
事実だ。
リンの指が、記憶をなぞるようにわずかに動く。
あの時、リンの手の中にあった礫は、間違いなく男の急所を貫く軌道を描いていた。
「……何でやらなかった。怖かったか? 人を殺すのが」
「……違う」
リンが、即座に、そして断固として答えた。
恐怖ではない。彼はすでに、この残酷な世界で生き抜くために必要な冷酷さを身につけていた。
「……なら、なぜだ」
「……必要なかった。それだけだ」
短く、淡々と。
その答えに、男は少しだけ目を細め、値踏みするようにリンを見つめた。
「……必要なかった、ねえ。いいね、それ。合理的で、傲慢だ」
男が笑う。だが、その笑みはすぐに消えた。
「……でもな、坊主。必要になるぞ。いずれな」
彼は一歩、さらに近づく。
「……お前らが追っている連中は、お前が思うよりもずっと汚い。綺麗事じゃ済まない時が来る。その時、お前はどうする?」
「……やる」
即答だった。
迷いも、躊躇もない。
「……へえ」
「今は違う。今は、やらない」
リンははっきりと言い切った。
「……」
男は数秒間、沈黙した。
そこに宿る、アグナードという基準をなぞり、自分自身で「時」を測ろうとする少年の意志。
「……気に入った。お前みたいなガキは嫌いじゃない」
男は小さく呟くと、さらに一歩、距離を詰めた。もはや互いの吐息が届くほどの近距離。
「……じゃあ、別の話だ。……組むか?」
「……」
「……俺はあいつらの内部事情を知っている。情報も、奴らが次にどこへ現れるかも、教えることができる」
男は低い声で、悪魔のような囁きを投げかける。
「……その代わり、俺を見逃せ。俺の存在を、お前たちのアニキに報告するな。……どうだ? お前たちにとっても、悪い話じゃないはずだ。より確実に、より楽に、敵を根こそぎにできるんだからな」
合理。
それは、悪党が提示する最も魅力的な近道。
リンの瞳が、わずかに揺れた。
得はある。それも、莫大な得だ。
確かな情報があれば、仲間たちのリスクを最小限に抑えられ、アニキの手を煩わせる時間も短縮できる。
そして、この男一人生かしたところで、大勢に影響はないかもしれない。
「……」
一瞬。
リンの頭脳が、その「利益」を計算しようとした。
だが。
その回路を、静かな、冷徹な声が遮った。
――迷惑になることはするな。
「……」
リンは、瞬時に理解した。
この取引に応じれば。この合理的な近道を選べば。
それは、自分たちが最も忌むべき「アニキを利用する」という形に繋がってしまう。
自分の目的を果たすために、主の基準を歪め、不純な取引をその影で行うこと。
それは、救われた者としての背信だ。
それは、あの日から自分が歩もうと決めた道とは、「違う」。
「……」
リンが、ゆっくりと唇を開いた。
その声は、夜の風よりも冷たく、そして澄んでいた。
「……やらない」
「……理由は? 情報の価値が分からないほど、馬鹿じゃないだろ」
「……違うからだ。それだけだ」
「……」
男は、呆気にとられたようにリンを見つめ、やがて噴き出すように笑った。
「……ハハッ、いいね。そういうの。最高にやりにくいが、最高に清々しいよ」
男は肩をすくめ、持っていた緊張感を完全に捨て去った。
「……分かった。了解だ。交渉決裂、だな」
男はあっさりと背を向け、倉庫の出口へと歩き出した。
「……今回は引くよ。お前みたいなガキの正義感に付き合うのは、疲れそうだからな」
リンは止めなかった。
追いかけて背中を刺すこともしない。
ただ、闇の中に消えていく男の背中を、無機質な瞳で見送るだけ。
やらないと決めた。
今は、その必要がないと判断した。
それが、リンのすべてだった。
男の足音が消え、倉庫には再び深い静寂が戻る。
――この日。
リンの前には、目的を果たすための最も簡単な道が提示された。
得もあり、合理もあり、誰も見ていないという保証もあった。
それでも。
彼はそれを選ばなかった。
理由は、ただ一つ。
それがアグナードという男が残した世界の色彩とは「違う」ものだったから。
自分の損得ではなく、自分の中にある「基準」を守り抜くこと。
それは、刃を振るうことよりも遥かに強く、そして気高い意志の証明だった。
リンは再び闇に溶け込み、屋敷への帰路についた。
その小さな背中には、目に見えないが、決して折れることのない「やり方」が、確かに刻まれていた。
倉庫の外では、欠けた月が、変わらぬ冷たい光で王都の輪郭を照らし続けていた。




