第38話:任務
朝の光が、王都の中枢に位置する石造りの重厚な建築物を白く照らしていた。
ここは国家の意思が決定され、膨大な情報が処理される心臓部。高い天井と厚い壁に囲まれた回廊には、冷徹な静寂が常に淀んでいる。
その一角にある会議室の重い扉が開かれ、一人の女性騎士が足を踏み入れた。
セリス。
彼女の白銀の鎧は磨き抜かれ、一切の無駄を排したその佇まいは、規律そのものを体現しているようだった。
部屋の中には、数名の役人が円卓を囲んで座っていた。
彼らの前には山積みにされた書類。その多くには、最近王都とその周辺で起きている「奇妙な連鎖」についての報告が記されている。
「……報告は以上か」
円卓の奥、中央に座る年配の役人が、低い声で問いかけた。
「……ああ」
セリスは表情を変えずに答える。
「……現象は依然として拡大中。背後で何者かが糸を引いている形跡はない。民衆が自発的に『助ける』という行為を連鎖させている。……現時点では、制御不能」
「だが」と、セリスは言葉を継いだ。
「……直接的な違法行為、あるいは国家への反逆を唆すような言動は、一切確認できない。彼らはただ、目の前の誰かを無償で助けているだけだ」
事実。
法典のどこを捲ろうとも、隣人を助け、余った荷を分け与える行為を罰する条文など存在しない。
「……厄介だな」
役人の一人が、苦々しく眉を寄せた。
「取り締まる根拠がないというのは、最もタチが悪い。善意の名の下に既存の秩序が書き換えられようとしている。……しかし、放置はできん」
別の役人が、苛立ちを隠さずに手元の書類を叩いた。
「……すでに流通に明らかな影響が出ている。本来、貨幣が動くはずの場所で、物品が『善意』として無償で動いているのだ。商業のバランスが崩れ始めている。貴族間でも、この得体の知れない流れを『不気味な扇動』として問題視する声が上がっている」
沈黙が部屋を支配した。
秩序を守る側の人間にしてみれば、管理できない「善」は、予測できる「悪」よりも恐ろしいものだった。
「……結論を出せ」
中央の男が、セリスを真っ直ぐに見据えた。
「……近衛騎士団、そして治安維持局として、どう動くべきか」
視線が、セリス一点に集中する。
彼女は数秒の猶予も置かなかった。すでに、この部屋に来る前から、自身の胸中では一つの解が導き出されていた。
「……監視を強化する」
簡潔に、彼女は告げた。
「……対象――アグナードという男を中心とした、すべての関与者の行動記録を集める。誰が、どこで、何を、誰に与えたか。その因果関係をすべて数値化し、記録し続ける」
「……異常、あるいは明確な法への逸脱が出た時点で、即座に介入する。今は、そのための牙を研ぐ期間だ」
「消さないのか」
役人が冷酷な問いを投げる。起点となる男を排除すれば、流れは止まるのではないか。そう言いたいのだ。
「……現時点では不可だ」
セリスの声には鋼のような硬度があった。
「正当性がない。民に崇拝され始めている男を理由なく捕らえれば、それこそ暴動の火種になる」
「……それと」
一瞬の間を置き、セリスはより深刻な事実を口にした。
「……失敗した場合、この流れは地下に潜り、完全に制御不能になる。……あの男は、何もしていないからこそ、消すことが難しいのだ」
正確な分析。
部屋の温度が数度下がったかのような錯覚を役人たちは覚えた。
彼らは理解した。これは、力ずくで押さえ込めば、逆に爆発して自分たちを飲み込む「触れれば崩れる繊細な構造」なのだと。
「……」
中央の男が、ゆっくりと深く頷いた。
「……なら、任せる。セリス卿、貴殿に全権を与えよう」
「……治安維持として動け。個人の感情や、過去の恩義に引きずられるな」
男は短く、釘を刺すように付け加えた。
「……過剰な介入はするな。だが、一分一秒の逸脱も見逃すな。この街の理を乱す者が現れた時、真っ先に剣を振るうのは貴殿だ」
「……了解」
セリスは静かに答えた。
彼女にとって、それは重い任務として、自身の魂に刻み込まれた。
「……以上だ。解散」
号令と共に、役人たちが席を立つ。
セリスは背を向け、迷いのない足取りで部屋を後にした。
高い回廊を、彼女のブーツの音がリズミカルに叩く。
「……」
歩きながら、手の中に渡されたばかりの正式な命令書に視線を落とす。
内容は、極めて単純。
監視。記録。そして、必要時の介入。
やるべきことは、これまで彼女が個人的な懸念から行ってきたことと、大差はない。
だが。
意味は決定的に変わった。
これはもう、彼女個人の執着ではない。
国家の、そして秩序の番人としての「義務」だ。
屋敷の外に出ると、春の柔らかな光が溢れていた。
眼下に広がる王都の街並み。
そこには今日も、無数の人々がうごめいている。
荷を運ぶ少年。立ち話をする老婆。互いに会釈し、手を貸し合う市民たち。
その温かな連鎖は、止まる気配を見せない。
「……」
セリスは目を細め、その流れの中心を――街のどこかを歩いているであろう黒い外套の背中を探した。
アグナード。
彼は今も変わらず、自分が背負わされた「罪」や「期待」にも気づかず、ただ不快を消して歩いているのだろう。
対立は、終わっていない。
むしろ、ここからが本番だ。
彼というあまりに巨大な「現象」と、自分が守るべき「法」という名の壁。
どちらが先に折れるのか。
――この日。
セリスは、アグナードを追う「一人の騎士」から、彼を監視する「国家の執行官」へと変わった。
個人の意思を任務という鎧で包み込み、彼女は喧騒の中へと踏み出した。
街に流れる「恩」という名の不確かな正義。
それを冷徹に裁くための、美しくも残酷な日々が幕を開けた。




