第3話:あなたのもの
昼下がりの市場は、煮え立つような熱気に包まれていた。
至る所で飛び交う怒声。石畳を叩く馬車の車輪。硬貨がぶつかり合う下卑た音。それらが混ざり合い、逃げ場のない騒音となって頭上に降り注ぐ。
人々は、自分たちの生活を少しでも豊かにしようと、血走った目で商品を品定めしていた。
その喧騒のなか、不自然な静寂を纏った一角がある。
「ほら見ろ! 安いぞ安い! こいつは従順だ、絶対に逆らわねぇ!」
男の野太い声が、周囲の野次馬を煽る。
一段高く作られた粗末な木の台。その上に、“それ”は転がされていた。
鎖に繋がれた、一人の少女だ。
布切れ一枚に近いボロを纏った体は、見る影もなく痩せ細り、浮き出た肋骨が痛々しい。細い手首には、重い鉄輪が食い込んだ跡が赤黒く変色し、消えない呪いのように刻まれていた。
少女はただ、膝を抱えて丸まっていた。
表情は見えない。長い間、光を拒んできたかのように、脂ぎった髪の間からわずかに見える視線は地面の亀裂だけを追っている。
「ほら、愛想を振りまけって言ってんだろ!」
奴隷商が少女の髪を乱暴に掴み上げ、頭を無理やり台に押し付けた。
ゴツン、と乾いた音が響く。
それでも少女は、悲鳴一つ上げない。痛みすらも、彼女にとっては日常の一部に過ぎないようだった。
集まった男たちは、同情の欠片もない視線で彼女を値踏みする。
「……使い物になるのか、これ?」
「すぐに壊れそうだな。労働力にはならねぇよ」
「観賞用にも程がある。安けりゃ考えてもいいが……」
交わされる言葉のすべてが、彼女を人間ではなく、摩耗した道具として扱っていた。
その場において、彼女の魂の重さは、市場に並ぶ腐りかけの果実と大差なかった。
「……」
喧騒から少し離れた場所。
人混みに溶け込むこともなく、ただそこに佇む一人の男がいた。
黒い外套を羽織った男、アグナードだ。
彼の瞳に、特別な感情は宿っていない。
虐げられる弱者への憐れみも、それを嘲笑う強者への怒りも。
ただ、彼の視界にその光景が入った。それだけのことだった。
彼は無機質な足取りで、奴隷商の方へと歩み出した。
「銀貨三十! それ以上は一銭も出せねぇ!」
「ふざけんな! このツラを見ろ、磨けば光るんだ。もっと出せ、もっと!」
下卑た交渉の最中、低い声が割り込んだ。
「……いくらだ」
奴隷商が弾かれたように顔を上げる。
そこには、陽光を吸い込むような漆黒の外套を着た男が立っていた。
「お、お兄ちゃん。見る目があるな。こいつはな、家系を辿れば実は由緒ある――」
「いくらだ」
二度目の問い。
抑揚のない声だったが、そこには一切の拒絶を許さない、絶対的な圧があった。
奴隷商は喉を鳴らし、少しばかり値を吊り上げることに決めた。
「……金貨一枚だ。これ以下にはできねぇ」
周囲にざわめきが走る。
明らかに法外な価格だ。健康な若い男の労働奴隷が買えるほどの金額。痩せこけた少女一人の対価としては、あまりに滑稽な提示だった。
誰もが、その黒い外套の男が鼻で笑って立ち去るだろうと思った。
「いい」
即答だった。
「……は?」
奴隷商の顔が、間抜けに歪む。
アグナードは腰の袋から金貨を一枚取り出すと、それを放り投げた。
放物線を描いた黄金が、奴隷商の汚れた掌に収まる。
チッ、という硬質な音が、少女の運命が決した合図だった。
「……ま、毎度」
奴隷商は顔を綻ばせ、慌てて少女の鎖を外した。
「ほらよ。今日からお前のもんだ。好きにしろ」
背中を乱暴に押され、少女はよろけながら台から転がり落ちる。
アグナードの足元に、崩れるように着地した少女。
彼女は、自分の新しい「所有者」の顔を見ようとはしなかった。ただ、冷たい石畳を見つめ、震えている。
「行くぞ」
アグナードはそれだけ言い残すと、背を向けて歩き出した。
数拍の遅れ。
後ろから、カサカサという乾いた枯葉のような足音が聞こえてくる。
少女は必死だった。
縋るべき場所を失えば、次に待っているのはさらなる地獄だということを、本能が理解していた。
市場の喧騒を抜け、人通りの途絶えた静かな路地裏。
アグナードは不意に足を止めた。
背後の足音も、重なるように止まる。
「……自由だ」
男の口から出た言葉を、少女はすぐには理解できなかった。
肩が、目に見えて大きく震える。
「どこに行くかは、好きにしろ。もう、追ってくる奴隷商はいない」
アグナードがゆっくりと振り向く。
「鎖はない」
事実だけを告げる声。
それは、彼女がこれまでの人生で最も望んでいたはずの言葉であり、同時に、最も恐れていた宣告でもあった。
沈黙が続く。
少女は俯いたまま、彫像のように動かない。
「……聞こえてるか」
問いかけると、少女は小さく、消え入りそうな動作で頷いた。
だが、その場から一歩も動こうとはしない。
アグナードはわずかに眉をひそめた。
彼は、不都合な存在を排除し、あるいは開放することで、自分の視界を整理したに過ぎない。これ以上の関わりは不要だった。
そのとき。
少女が崩れるように膝をつき、両手を地面についた。
石畳に額を擦り付ける、隷属の礼。
「……ありがとうございます」
かすれた、今にも消えそうな声だった。
「ご主人様」
「違う」
アグナードの否定は、雷のように速かった。
「俺はお前の主人じゃない」
淡々と、突き放すように続ける。
「金を払って、その鎖を買い取った。それだけだ。お前はもう、誰のものでもない」
少女の細い肩が、激しく上下し始めた。
「……じゃあ……」
途切れ途切れの声が、漏れ出す。
「……私は……私は……どうすればいいのですか……?」
その問いは、空洞だった。
自由を与えられても、彼女にはそれを行使するための「自分」が残っていなかった。
何を食べるか、どこで眠るか、誰のために動くか。
すべてを他人に委ねることでしか生きられなかった魂にとって、放り出された自由は、底の見えない深淵と同じだった。
アグナードは、少しだけ考えた。
目の前の壊れかけた生命体をどう扱うべきか。
だが、彼が出した答えは、慈悲とは程遠いものだった。
「知らん」
短い一言。
「自分で決めろ」
非情な突き放し。
少女の呼吸が、目に見えて乱れていく。
怖い。
何をしていいか分からない。
一人で生きていく術などない。
また、誰かに拾われ、売られ、壊される。
その恐怖が、絶望が、彼女の心を粉々に締め付ける。
だから。
少女は、その歪んだ思考の果てに、一つの光を見出した。
この男だ。
この男だけが、自分という「無」に対して、対価を支払った。
自分を自由という名の奈落へ突き落としたこの男こそが、今、世界で唯一自分と繋がっている存在なのだ。
なら――。
そこに縋り付く以外に、息をする方法などない。
少女は顔を上げた。
初めて、アグナードの瞳を真っ向から見据えた。
その瞳は、暗く、澱んでいた。
正気と狂気の境界線で、彼女の意志が爆ぜる。
「……なら」
小さく、深く、空気を吸い込む。
「……私を、ください」
「……は?」
アグナードの眉が、今度は明確に不快げに寄った。
「私は、あなたのものです。あなたが買い取った。あなたが、決めた。……だから、私はあなたの所有物として、ここにいます」
少女の言葉には、もはや迷いも、怯えもなかった。
それは、自由を放棄し、自ら進んで「呪い」を受け入れる者の顔だった。
「私は……あなたの一部としてしか、存在できません」
「……」
アグナードは黙り込んだ。
彼が求めたのは「無」であり、関わりの消失だった。
しかし、彼が投げ捨てた慈悲という名の無関心は、少女の中で猛毒のような執着へと昇華されてしまった。
「勝手にしろ」
結局、彼はそれだけを口にした。
拒絶することさえ、彼は面倒だと感じたのかもしれない。
少女は再び、深く頭を下げる。
壊れた機械が、ようやく自分の居場所を見つけたかのように。
「……はい、ご主人様」
「違うと言っている」
訂正する気のない、冷え切った声。
しかし少女は、その唇にかすかな、しかし確かな微笑を浮かべていた。
安心したのだ。
自分の人生を、自分の足で歩くという地獄から逃れ、この黒い背中についていくという、新しい鎖を手に入れたことに。
名前もない。
帰る家もない。
だが、彼女には「属する場所」ができた。
この日。
一人の少女は、地獄から救い出された。
そして同時に、アグナードという名の、永遠に解けることのない呪縛に囚われた。
彼女の瞳に宿った光は、もはや純粋な感謝などではない。
それは、救済という名の絶望に根ざした、狂おしいほどの執着の産声だった。




