第29話:通じない
夜の冷気が、屋敷の重厚な石壁に沿って静かに降り積もっていた。
風はぴたりと止み、木々の葉が擦れる音さえも消失した。世界が息を潜めたかのような静寂のなか、二人の男女が対峙している。
騎士セリスは、微動だにせず立っていた。
その視線の先には、漆黒の外套を纏った男、アグナード。
二人の距離は、手を伸ばせば届くほどに近い。逃げ場のないその間合いは、セリスが意図的に作り出したものだった。彼女の放つ、秩序を守らんとする鋭い気配が、アグナードの無機質な存在感と真っ向からぶつかり合っている。
「……話がある」
セリスが口を開いた。その声は硬く、一切の妥協を許さない。
「……ああ」
アグナードは短く、吐き捨てるように返す。視線はセリスを通じ、その先の虚無を見つめているようだった。
「……お前の行動についてだ。アグナード」
「……何だ」
「大きな影響が出ている。……お前自身、その自覚はあるのか」
セリスの問いは、告発に近い響きを持っていた。
「……知らん」
即答だった。
「……」
セリスの眉が、わずかに、だが不快げに動く。
「理解していないのか、あるいは無視しているのか。どちらだ」
「興味がないだけだ」
淡々と、彼は告げる。明日、どこに雨が降るかを聞かれた時と同程度の熱量で。
沈黙。
セリスは一歩、重厚な鎧の音を響かせて踏み込んだ。
「お前が気まぐれに人を助けたことで、周囲は劇的に変わっている。……勝手な組織が生まれ、行動が勝手に連鎖し、今やこの街には統制不能な流れができつつある。お前という一個人の存在を軸にしてな」
理詰め。
セリスの言葉は、法と秩序を重んじる騎士としての正論だった。
「……で、それが何だ」
アグナードが問う。
「問題だ」
セリスは間髪入れずに言い放った。
「……なぜ」
「制御できないからだ。意図のない力は、いずれ暴走する。そうなれば、必ずどこかで被害が出る」
それは予測される最悪の事態。
だが、アグナードはわずかに首をかしげる。
「……出てから止めればいい」
短く、あまりに単純な解決策。
「……遅すぎる!」
セリスの声に力がこもった。
「起きてからでは手遅れなのだ。秩序とは、不測の事態を予測し、未然に防ぐためにある。それが、守る側の人間の務めだ」
「……お前にそれができるのか」
「……できるようにする。それが私の役割だ」
「……そうか」
それだけ。
アグナードの言葉には、感銘も反発も含まれていない。ただの「音」として、彼女の覚悟を処理したに過ぎなかった。
「……」
セリスはさらにもう一歩、彼の間合いへと深く踏み入る。
「だから聞いているんだ。アグナード。……お前は何を基準に動いている。お前の目的は何だ。この先、どこまでやるつもりだ」
問いを重ねる。
逃げ道を塞ぎ、相手の「核」を暴き出そうとする。
「……」
アグナードは数秒、沈黙した。
その瞳の奥に、わずかな思考の揺らぎが見えた気がした。
そして、彼は答えた。
「……困ってたら、助ける。邪魔なら、消す」
それだけ。
あまりにも幼稚で、あまりにも全能な。
「……そんなことは分かっている! 私が聞いているのは、その先だ。救った後、壊した後に、お前は何を残したいんだ」
「……知らん」
また、同じ答え。
セリスの目が、獲物を睨むように鋭く細められた。
「……無責任だな。お前は」
「……そうか」
否定しない。
彼は自分が無責任であることを認めたわけではない。セリスがそう評価したという事実を、ただ受け流しただけだ。
沈黙。
セリスはさらに言葉を重ねた。必死に、彼の「理」に届こうとする。
「お前は、自分の行動の結果を管理しない。他人の人生に介入しながら、その後の責任も取らない。……それでいいと思っているのか」
「……思ってない」
「……では」
「考えてない」
完全に、言葉が切られた。
セリスの喉が、微かに震えた。
論理が通じない。
どんなに言葉を尽くしても、どんなに倫理を説いても、彼の前ではすべてが滑落していく。
議論にならない。
これは戦い以前の、絶対的な断絶だった。
セリスは、ゆっくりと、長く、溜め込んでいた熱い息を吐き出した。
理解した。
これは「対話」ではない。
相手が何を考えているかを確認する「調査」ですらない。
ただ、「通じない」という事象を確認させられているだけの時間。
「……」
彼女は一歩、距離を戻した。
張り詰めていた肩の力が、諦念とともに抜けていく。
「……もういい。お前に何かを説くのは、石像に説教をするより無意味だった」
「……そうか」
アグナードは、変わらない。
表情も、気配も、そして歩みも。
彼はセリスを置き去りにし、再び無機質な足取りで歩き出した。
止めない。
いや、止められない。
法で縛ることも、言葉で縛ることもできない存在。
セリスは動かず、遠ざかっていく黒い背中をじっと見つめていた。
分かった。
この男には、言葉は届かない。
理屈も、正義も、責任も。
社会を形作るあらゆる概念が、彼という虚無の前では意味を失う。
――この日。
二人の間で行われた対話は、完全に崩壊した。
対立という言葉さえ、まだ生温い。
残されたのは、世界と、この男。
その間にある「通じない」という、あまりに残酷で、あまりに強固な事実だけだった。
セリスは、暗闇に消えていく外套の影を、ただ見守ることしかできなかった。
その背中は、どんな絶望よりも冷たく、そして美しく見えた。




