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助ける。でも選ぶのはお前だ ~救った結果、世界が止まったので壊すことにした~  作者: 慈架太子


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第25話:来て、帰る

夜の底は深く、沈黙が街の喧騒を飲み込んでいた。

豪華な装飾が施された屋敷も、今は眠りの中に沈んでいる。見張りの衛兵が眠気を堪えてあくびを噛み殺す、そんな静寂の隙間を縫うように、一つの影が動いた。


音もなく塀を越え、着地した瞬間にその輪郭が闇へと溶ける。

カレン。

彼女にとって、この程度の屋敷に忍び込むことなど、朝の散歩よりも容易いことだった。かつて盗賊の真似事をしていた頃に培った技術は、今や迷いのない一歩となって彼女を導く。


カレンは迷わなかった。

邸内の廊下を滑るように進み、目的地へと最短距離で向かう。

豪華な絵画や調度品には目もくれない。彼女の心臓の鼓動は、ある一点に向けて加速し始めていた。


廊下の突き当たり。

古びた木製の扉の前で、彼女は足を止めた。


「……」


扉の向こう側から漏れてくる微かな気配。

他の誰とも違う、極北の海のように冷たく、それでいて揺るぎない、圧倒的な「個」。

アグナード。

彼がそこにいる。


カレンは静かに、自らの呼吸を整えた。

指先を扉の取っ手にかけ、慎重に、だが躊躇わずに回す。

キィ……と、耳を澄まさなければ聞こえないほどの小さな音を立てて、扉が開いた。


部屋の中は、驚くほど簡素だった。

飾りのない机、質素な椅子、そして最低限の寝具。

かつての貴族の令嬢や騎士たちが手配しようとした贅沢を、すべて削ぎ落としたかのような、空虚な空間。


その中心に、男は座っていた。

アグナードは椅子に腰を下ろし、背中を向けたまま、闇を見つめるようにして動かなかった。


「……来たのか」


アグナードの声が響く。

振り返ることさえせず、まるですべてを見通しているかのような、無機質な一言。


「……バレてるじゃない。やっぱり、あんたの鼻を明かすのは無理ね」


カレンは不敵な笑みを浮かべ、扉を静かに閉めた。

言葉の響きは軽いが、彼女の指先は微かに震えていた。

これまで数多の修羅場を潜り抜け、死の淵を歩んできた彼女が、たった一人の男と二人きりになるという事実に、かつてないほどの緊張を強いられていた。


「……何しに来た」


アグナードは短い問いを投げかけた。

そこには拒絶も、歓迎もない。ただ、目の前の現象に対する純粋な確認だけがある。


「……さあ? 私にもよく分からないわ」


カレンは肩をすくめ、わざとらしく、気だるげに振る舞った。

だが、その視線はアグナードの広い背中に釘付けになっていた。


「……」


アグナードはそれ以上、何も言わなかった。

彼にとって、カレンが夜更けに忍び込んできた事実は、風が吹いたことや、月が雲に隠れたことと同程度の些細な事象でしかない。

その徹底した無関心。自分を女として、あるいは敵としてすら見ていないその冷淡さが、カレンの胸を激しくかき乱す。


「……ねえ」


カレンは一歩、アグナードに近づいた。

床が微かに軋む。

「……あんた、何も思わないの? こういう状況で」

「……何がだ」

「これよ、これ」

カレンは自分自身を指し示し、挑発的な笑みを深めた。

「……夜に、女が一人で男の部屋に来てるのよ? 何か起きるって、期待したり、警戒したりしないわけ?」


わざとらしく吐き出された言葉。それは彼女なりの防衛本能であり、同時に彼からの「反応」を求める切実な祈りでもあった。


「……別に。興味ない」


即答。

一秒の猶予もなく、アグナードは彼女の期待を粉砕した。

「……興味、ない?」

「ないと言っている。お前が誰であろうと、どこにいようと。俺の関知するところではない」


短く、重い言葉。

カレンは数秒、立ち尽くした。

アグナードの瞳――そこにあるのは、底知れない虚無だ。

どんなに美しく着飾っても、どんなに激しい言葉をぶつけても、彼の世界を揺らすことはできない。


「……ほんと、変な男ね」


カレンは自嘲気味に、だが愛おしそうに小さく笑った。

彼女はさらにもう一歩、距離を詰めた。

手を伸ばせば、その漆黒の外套に触れられる。

指先を動かせば、彼の肌の温もりを感じられるかもしれない。


カレンの指が、ゆっくりと宙を泳ぐ。

普通ならば、ここで理性が弾け、欲望が溢れ出すはずだった。

誰にも見られない、二人だけの時間。

彼を自分のものにするために、あらゆる手段を尽くす。それが、彼女が知る「愛」や「執着」の形だったはずだ。


だが。

彼女の指先は、アグナードの肩に触れる寸前で、ピタリと止まった。


「……」


脳裏を掠めたのは、昼間に交わされた自分たちの言葉。

――迷惑になることはするな。


それは、アグナードが命じたわけではない。

彼女たち自身が、彼の「静寂」を守るために、己に課した、呪いよりも重い規律だった。

今、ここで自分の欲望を優先させれば、それは彼にとっての不快な「ノイズ」になる。

彼が保とうとしているその孤高の静寂を、自分の浅ましい手で汚すことになる。


カレンは、小さく、深く、溜め息を吐き出した。

その息には、熱い衝動と、それを上回るほどの深い諦念が混ざっていた。


「……やめた」


ぽつりと、彼女は呟いた。

突き上げていた熱量が、潮が引くように消えていく。


「……そうか」


アグナードは相変わらず、背中を向けたままだった。

彼が何を考えているのか、あるいは本当に何も考えていないのか、それさえも分からない。


カレンは、ふっと口元に寂しげな、だが晴れやかな微笑を浮かべた。

「……ほんと、つまんない男ね。少しは慌てた顔くらい見せなさいよ」


軽口を叩きながら、彼女は一歩、また一歩と距離を戻す。

「……帰るわ。長居しても、良い夢は見られそうにないし」


「……ああ」


それだけのやり取り。

カレンは踵を返し、扉へと向かった。

一度も振り返ることなく。

扉を開け、再び夜の静かな廊下へと出た。


外の空気は、思いのほか冷たかった。

塀を越え、屋敷の敷地から出た彼女は、立ち止まって夜空を見上げた。

雲の隙間から、冴え渡るような月の光が彼女を照らし出している。


「……危なかったわね」


自分自身に言い聞かせるように、彼女は小さく呟いた。

もしあそこで手を伸ばしていれば。

もし、彼を汚してしまっていれば。

彼女の中に残る、アグナードから与えられたあの「基準」は、永遠に壊れていただろう。

彼に救われた自分の誇りを、自分自身で踏みにじるところだった。


カレンは一度だけ、屋敷の方を振り返ることなく、暗い夜道へと歩き出した。

彼女の足取りは、来たときよりもずっと軽やかで、それでいて力強いものだった。


――この日。

カレンはアグナードの元を訪れ、そして「何もしない」という選択をした。


欲情よりも、略奪よりも。

彼が残した「正しさ」を、そのままの形で守り抜くこと。

それは彼女にとって、これまでのどんな略奪よりも難しく、そして気高い勝利だった。


夜は更け、街は深い眠りの中にある。

アグナードの部屋の灯りが消えるのを、彼女は知らない。

ただ、彼女の心には、彼という絶対的な基準が、消えない星座となって輝き続けていた。






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