第21話:寸前
夜の帳が屋敷を深く、重く包み込んでいた。
広間での一触即発の対峙を経て、屋敷の奥に位置する執務室には、逃げ場のない静寂が淀んでいる。壁に掛けられた燭台の火が小さく揺れ、磨き抜かれた机の上に不吉な影を落としていた。
クラリスは、窓の前に立っていた。
窓硝子の向こう側には、月明かりに照らされた庭園と、その先に広がる無機質な街の輪郭が見える。彼女は微動だにせず、ただ一点を見つめていた。
「……」
彼女の頭脳は、常に冷徹な計算機のように状況を整理し、最適解を導き出してきた。
現在の状況。
アグナードの周囲に蔓延る、把握不能な女たち。
立場の異なる者、感情で動く者、あるいは狂気に身を委ねる者。
それらはすべて、クラリスが求める「完全な統制」と「絶対的な秩序」にとっての不純物でしかない。
干渉不能。統制不能。
であれば、導き出される答えは、彼女にとってあまりに明白だった。
「……排除」
小さく、氷のような呟きが漏れた。
邪魔な要素は消す。綻びは断ち切る。
それが家門を守り、領地を治め、自らの世界を構築してきた彼女の流儀だ。
単純であり、かつ合理的。
対象はすでに定まっている。
あの無礼なカレン、そして底の知れないリリス。
彼女たちがアグナードの周囲に居座り続ける限り、クラリスの描く「理想の枠組み」は完成しない。
消せば、すべては整う。
「……」
彼女はゆっくりと机に向かい、椅子に座った。
机の上には、厚手の羊皮紙が置かれている。
命令書。
彼女の署名一つで、裏の世界の腕利きが動き、あるいは政治的な圧力が加わり、標的はこの世から静かに、だが確実に取り除かれる。
実行は難しくない。クラリスにはそのための権力と、資金と、冷酷さが備わっているはずだった。
彼女は迷いなく手を伸ばした。
羽ペンを取り、インクに浸す。
流れるような動作で、一行目を書き始めようとする。
「……」
だが、ペン先が紙に触れる寸前で、止まった。
「……」
わずかに。ほんの一瞬。
指先に、自身の意志とは無関係な「重み」を感じた。
クラリスは眉をひそめる。自分の体の一部が、自分の命令に従わないという未知の感覚。
その瞬間。
閉じ込めていたはずの記憶が、鮮明な色彩を伴って脳裏に溢れ出した。
泥の匂い。
足元から崩れ去る屋敷の誇り。
群衆の罵声と、冷たい雨。
あの日、すべてを奪われ、誰にも顧みられず、道端で泥を舐めるしかなかった自分。
完璧を自負していた自分が、これほどまでにあっけなく、惨めに終わるはずだった瞬間。
そのとき。
視界を遮る雨を裂いて、漆黒の外套が現れた。
何も言わず。
見返りを求めず。
ただ、そこに「在る」ことを許し、立ち上がる理由を与えた男。
救いとは、これほどまでに無機質で、それでいて暴力的なまでに確かなものなのか。
「……」
ペンが、止まったまま動かない。
インクがペン先で凝縮され、小さな黒い雫となって紙に落ちそうになる。
クラリスは奥歯を噛み締めた。
「……何だ、これは。何をしている、私は」
小さく、自分を叱責するように呟く。
理屈ではない。合理的な判断でもない。
ただの「感情」という名の不純物が、完璧だったはずの歯車を狂わせている。
邪魔をしている。
「……」
彼女は再び、強引に思考を切り替えた。
これは必要な処置だ。あの方の平穏を守るため、そして自分の矜持を保つため。
もう一度、ペンに力を込める。
だが。
やはり、一文字も書くことができなかった。
代わりに、別の重苦しい思考が浮かび上がる。
「……迷惑になる」
あの日、アグナードが自分に見せた「基準」。
彼は、目についた不快を消す。だが、その命を弄ぶことはしない。
彼が残し、歩き去ったあとの景色を、自分の勝手な「統制」で塗り潰していいのか。
理解してしまった。
この排除という行為は、アグナードという存在に対する、決定的な「否定」になる。
彼が気まぐれに救い、放置し、存在を許容したもの。
それを自分が消し去るということは、彼の選択を間違いだと断じることに他ならない。
それは――あの方を愛し、縋っている自分にとって、最も許しがたい背信ではないか。
「……」
クラリスは、ゆっくりと、震える指先でペンを置いた。
インクに濡れた羊皮紙は、宛名も命令も書かれないまま、空白の静寂を保っている。
「……馬鹿らしい」
小さく、自嘲の混じった笑いが漏れた。
自分は、あの方を制御しようとして、その実、あの方が残した無言の影に、誰よりも深く縛られていたのだ。
扉が静かに開き、側近のエリザが入室してきた。
「……準備は、整っております。合図をいただければ、即座に」
エリザはクラリスの背中に、短く、確実な問いを投げた。
「……やめた」
クラリスは窓の外を見つめたまま、平坦な声で答えた。
「……は?」
完璧な側近であるエリザが、わずかに眉を動かし、困惑を露わにする。
「……排除はしない。計画はすべて白紙に戻しなさい」
「……理由は、お聞きしてもよろしいでしょうか。あれほど執拗に排除を主張されていたのは、お嬢様ご自身ですが」
合理性を重んじるエリザにとって、この方針転換は理解しがたいものだった。
「……ないわ。理由なんて、どこにもない」
クラリスは即答した。
「……ただ、やらない。私がそう決めた。それだけよ」
「……」
沈黙が二人の間に流れる。
エリザは数秒、主人の背中をじっと見つめていた。
そして。
「……承知いたしました」
短く、彼女は言った。
それ以上は何も聞かなかった。
エリザもまた、この領域が言葉や理屈では決して測れない、絶対的な「重力」によって支配されていることを悟ったのだろう。
エリザは音もなく背を向け、部屋を去った。
残されたのは、窓の外の街明かりを見つめるクラリス一人だけだ。
「……」
窓の向こうの街は、不完全で、無秩序で、下卑た喧騒に満ちている。
かつての自分なら、眉をひそめて見下していたであろう光景。
だが、そのどこかに、あの方が今も歩いているのだ。
あの方が、その無秩序のなかで誰かを救い、あるいは見捨て、気まぐれな足跡を残している。
「……消せないわね。何もかも」
小さく、長く、溜息が吐き出された。
完全な統制も、完璧な秩序も、あの男の「気まぐれ」という名の理不尽の前では、砂細工のように脆い。
――この日。
屋敷の奥で画策された「排除」は、実行されなかった。
それを止めたのは、彼女の優れた理性でも、社会的な法でもない。
ただ一人の男に命を拾われたという、消えることのない「恩」。
そして、その男が残した世界の色彩を、一分たりとも損ないたくないという、狂おしいまでの執着だった。
クラリスは空白の命令書を丸め、火の中に投げ入れた。
燃え上がる炎が、彼女の冷徹な横顔を赤く照らし出し、以前よりも少しだけ、人間らしい歪みを浮き彫りにしていた。




