第2話:いらない
森の境界線、木々の影が長く伸びる夕暮れ時。
街道へと続く開けた場所に、急ごしらえの野営地があった。焚き火の爆ぜる音だけが、重苦しい沈黙をかろうじて繋ぎ止めている。
「……本当に、助かったんだよな……。俺たちは」
前衛の戦士・ガラムが、自身の大きな掌をじっと見つめながら呟いた。
指先はまだ、かすかに震えている。武具を握るための筋力は戻りつつあるが、精神に刻まれた「死」の予感だけが、泥のようにこびりついて離れない。
あのオーガ。
絶望の具現化そのものだった巨躯。振り下ろされた拳の風圧。鼻を突いた腐臭。それら全てが、自分たちを確実に屠るはずだった。逃げ場も、逆転の策も、奇跡さえも存在しなかったあの瞬間。
それを――
「……一瞬で、終わらせた。まるで、邪魔な小石をどけるみたいに」
後衛の魔術師・ミナが、膝を抱えたまま小さく呟く。
彼女の脳裏には、今もアグナードの放った弾丸が焼き付いている。
自分たちがどれほど修行を積み、どれほど効率的な魔法式を構築しようとも到達できない次元の事象。
詠唱すらなく、ただ指を動かし、法則を断罪するような一撃。
男の名は、アグナード。
素性も、目的も、その力の源さえも分からない。
ただ一つ、揺るぎない事実としてあるのは、彼が「強すぎた」ということだけだった。
「……で、どうする?」
焚き火の対面で、軽戦士のディルが地面に座り込みながら、硬い声で問うた。
「どうするって……何をだ?」
「決まってるだろ。礼だよ、礼。命を拾ったんだ。ただでさえ全滅寸前だったところを、あんな風に助けてもらったんだぞ。……このまま何も言わずに立ち去れるかよ」
ディルの言葉に、ガラムは重い首肯を返した。当然の話だ。
命を救われた。それも、ただ窮地を脱したというレベルではない。文字通り、無に帰す直前を引き戻されたのだ。
冒険者としての報酬、あるいは金貨数枚。そんなもので購える命ではないことは、誰の目にも明らかだった。
「金、全部出すか……?」
ガラムが腰のポーチを外そうとすると、ミナが自嘲気味に口角を上げた。
「……足りるわけないでしょ。あんな力を持ってる人が、私たちみたいな低ランク冒険者の小銭を欲しがるとは思えないわ」
「それでもだ!」
ガラムの声に力がこもる。
「足りないのは分かってる。だが、何もしないわけにはいかない。それは、俺たちの誇りの問題だ。助けられて、それで終わり。そんな情けない真似、死んでもしたくない」
その場にいた全員が、静かに頷いた。
彼らにとって、それは単なる義理の問題ではない。
アグナードという圧倒的な存在に、自分たちの存在を、意志を、せめて一分でも刻み込みたいという無意識の抵抗だった。
「……探すぞ。まだ遠くへは行っていないはずだ」
ガラムが立ち上がる。
一行は傷ついた体を動かし、森を抜けて街道へと向かった。
そして――。
その男は、すぐに見つかった。
街道の脇に転がる大きな石に、腰掛けていた。
まるで、先ほどまで怪物を塵へと変えていた戦いなど、数時間前の出来事か、あるいは他人の出来事であったかのように、彼はただ無造作に座っていた。
「……いた」
ガラムが息を呑む。
アグナードは、ぼんやりと茜色に染まり始めた空を見上げていた。
その姿はあまりにも「普通」すぎた。
一国の軍隊に匹敵するような破壊力を内に秘めながら、そこにあるのはただの、どこにでもいるような旅人の佇まいだ。
あまりにも気負いがなく、あまりにも何もなさそうにしている。
そのことが、逆に底知れない違和感となってガラムたちを威圧した。
「……行くぞ」
ガラムを先頭に、四人で近づく。
足音に気づいたのか、アグナードが視線だけをこちらに向けた。
「……何だ」
低い声。感情の起伏が削ぎ落とされた、凪のような声だった。
「助けてもらった礼を――」
ガラムは、アグナードの前で深く、直角に頭を下げた。
「俺たちはあんたに命を救われた。あんたがいなけりゃ、今頃あそこで肉塊になっていたはずだ。だから――」
震える手で、革袋を差し出す。
中には、彼らが持ち寄った全財産。冒険で得た報酬も、蓄えも、すべてを注ぎ込んだものだ。
ガラムはそれを、アグナードの足元の地面に置いた。
「……足りないのは分かっている。これっぽっちの金で、命の重さが測れるなんて思っちゃいない。だが、今の俺たちにできる精一杯がこれなんだ。受け取ってくれ」
沈黙が訪れる。
通り抜ける風の音と、遠くで鳴く鳥の声だけが響く。
アグナードは、地面に置かれた袋を一瞥した。
「……終わりか?」
「え?」
「礼だの何だのと、騒がしいから何かと思えば。それだけかって聞いてるんだ」
ガラムが顔を上げると、アグナードは相変わらず無表情のまま、空虚な瞳で彼らを見ていた。
「……ああ、そうだ。感謝の言葉と、これを受け取ってもらいたい」
「そうか」
アグナードは立ち上がり、外套の裾を払った。
そして、一歩も袋に歩み寄ることなく、言い放った。
「いらない」
「……は?」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
ガラムだけでなく、背後のミナやディルも呆然と立ち尽くす。
「いや……いらないって……これは、俺たちの誠意で……」
「見りゃ分かる。金だろ。俺には必要ない」
アグナードは興味を失ったように背を向け、歩き出そうとする。
「じゃあな」
「待て!」
ガラムが思わず大声を上げた。
「なんでだよ! 命を救われたんだぞ!? これを受け取ってもらわないと、俺たちの気が済まないんだ!」
それは、懇願に近い叫びだった。
施しを受けたままではいられない。救われた側としての整合性が取れない。彼らは、自分の価値を認めてほしかったのかもしれない。
しかし。
アグナードは足を止めることなく、肩越しに冷たく言い捨てた。
「……別に。勘違いするな」
「勘違い……?」
「助けたのは、俺の都合だ。目の前で騒がしく死なれると、寝覚めが悪い。それだけだ」
あまりにも、軽すぎる理由だった。
「だから、礼なんかいらない。お前らが勝手に助かっただけだ。勝手に拾った命なんだから、好きにしろ」
アグナードの足取りは、淀みがない。
森の深淵へと、あるいは未知の地平へと。
その背中は、どれほど声を張り上げても届かないほどに遠く、拒絶に満ちていた。
「……ふざけるなよ」
ガラムが拳を握りしめ、地面を睨みつけて呟いた。
「そんなの……納得できるか……!」
命を救われたという、人生において最も重い出来事を。
「都合」の一言で、路傍の石を避ける程度の出来事として処理される。
自分たちの命は、彼にとってそれほどまでに無価値なのか。
「……ねえ」
ミナが、消えかけていく黒い背中を見つめたまま、微かな声を出した。
「あの人……」
その瞳には、恐怖とは異なる色が宿り始めていた。
「私たちのこと、もう覚えてないよね……。多分、明日には、顔も名前も忘れてる」
誰も、その言葉を否定できなかった。
アグナードにとって、自分たちは「助けた対象」ですらなかったのだ。
ただ、視界の隅で発生したノイズを除去しただけ。
その残酷なまでの無関心。
「……もう一度、会う」
ミナがぽつりと、しかし硬い決意を込めて言った。
「え?」
「今度は……絶対に忘れられないようにする。あんな顔で、いらないなんて言わせない」
その声は小さかった。
だが、そこには明確な「意志」が宿っていた。
命を救われた感謝。
そして、その重みを「無」と断じられたことへの、烈火のような反発。
それはやがて、執拗なまでの執着へと形を変えていく。
去りゆく男、アグナード。
彼が撒き散らした「救い」という名の無関心は、人々の心に癒えない傷跡を残していく。
救われた者たちが、その救いの手を呪い、同時に追い求め始める。
それが、歪な「執着」の始まりであることを、当のアグナードだけが知る由もなかった。




