第19話:同席
夕暮れの光が、豪奢な屋敷の広間に長く、不吉な影を落としていた。
磨き抜かれた石床に、赤銅色の陽光が反射する。かつては華やかな社交の場であったはずのその空間は、今、極北の海のように冷たく、逃げ場のない重圧に満たされていた。
広間に集まった者たちの顔ぶれは、あまりに異質で、あまりに危険だった。
カレン。マリア。レオニア。リリス。
そして、この場に新しい波乱を呼び込んだ存在――クラリス。
彼女たちが一堂に会するのは、これが初めてのことだった。
同じ男を、それぞれの歪んだ執着で追い求める者たちが、ついに一つの檻の中に閉じ込められたのだ。
「……」
沈黙。
誰も椅子に腰を下ろそうとはしない。
円を描くように一定の距離を保ち、互いの出方を窺いながら、立ったまま対峙している。
視線が鋭く交差し、火花が散る。逸らせば死ぬかのような、剥き出しの敵意。あるいは、それ以上に深い「同族嫌悪」が、広間の空気を凍らせていた。
「……ふーん」
最初に沈黙の氷を砕いたのは、カレンだった。
彼女は退屈そうに自分の爪を眺めながら、だが全神経を目の前の「敵」に集中させて口を開く。
「……随分と、増えたわね。あっちもこっちも、賑やかなことで」
言葉は軽薄だが、その瞳に笑みはない。暗い沼のような色が、じっとクラリスを捉えている。
「……あなたが、“あの方の周囲”に群がっている存在ね」
クラリスが静かに、そして峻烈な言葉を返した。
彼女の口調は丁寧で、淑女としての礼節を崩してはいない。だが、その声には一切の温度が含まれておらず、相手を「不純物」として排除しようとする冷徹な意思が宿っていた。
「……そうよ。で? 何か用かしら?」
カレンが鼻で笑い、挑発的に一歩踏み出す。
「……確認よ。あなたたちがどこまであの方に……アグナード様に不当な関与をしているのかをね」
クラリスの視線が、鞭のようにしなって全員をなぞる。その目は、彼女たちがアグナードに与えている影響のすべてを数値化し、否定しようとするかのようだった。
「関与? 変な言い方するのね」
カレンの笑いが深くなる。
「私たちはただ、あのアグナード様に惹かれ、好きにしているだけ。統制だの確認だの、そんな無粋なもの、あの方は最も嫌うはずよ」
「……無秩序ね」
クラリスは短く、切り捨てた。
「あんたに関係あること? 私たちがどう動こうが」
「あるわ。あの方の歩む道に、あなたたちのような不確定要素が介在し続けることは、許容できない。……統制が必要よ。あの方をより高く、より正しい場所へ導くための枠組みがね」
空気が、一気に臨界点へ達した。
物理的な殺気すら漂い始め、リリスが腰の武器に指をかけようとした、その時だった。
「……やめましょう、皆様」
マリアが静かに、だが凛とした声で介入した。
「……ここで争っても、何の解決にもなりません。私たちの主語は、私たち自身ではなく、あの方であるはずです」
マリアの瞳には、狂信に近い静謐な輝きがあった。彼女は怒りに身を任せることも、クラリスの言葉に激昂することもしない。ただ、アグナードという中心を守るために、己を律していた。
「……賢明ね、シスター」
クラリスが冷ややかに応じる。
「……無駄な衝突は避けるべき。その点については、同意するわ」
「……同感よ。私も、あの方に余計な手間をかけさせたくないもの」
カレンも頷き、一見すると矛を収めたように見えた。
だが、カレンの指先は微かに動いている。いつでも、どんな術でも、相手の喉を掻き切れるように。
レオニアは腕を組み、壁際に寄りかかって終始無言を貫いていた。
彼女はアグナードを直接助けることよりも、周囲に集まるこの「毒」のような女たちが、どれほどの価値を持っているのかを冷徹に評価していた。
一方、リリスは誰の目も見ていなかった。
彼女は、アグナードという実体のいない空間の虚無を、愛おしそうに見つめていた。まるでそこに、彼が静かに座っているかのように。
長い、長い沈黙が広間を支配する。
夕陽が沈み、部屋の隅々に闇が染み込んでいく。
「……結論だけ、言わせてもらうわ」
クラリスが口を開く。彼女の声は、この広間の「主人」を自認する者の響きだった。
「……私は関与する。あの方の周囲を整理し、必要であれば、あなたたちも含めて制御下に置く。あの方に不必要なノイズを届けさせないために」
「……好きにすれば?」
カレンが、不敵な笑みを浮かべて返した。
「……でも、一つだけ言っておくわよ。あの人は、あなたが用意したどんなに美しくて頑丈な鳥籠にも、決して収まらない。止まらないわ。……あなたが作ろうとしている枠なんて、あの方は気づきもしないで踏み越えていく」
確信に満ちた言葉。
クラリスの瞳が、僅かに揺れた。
「……分かっているわ。……だから、こちらが合わせる。あの方がどんなに奔放に、無関心に歩もうとも、その足元に完璧な絨毯を敷き続ける。壊れない枠を、私が構築する」
「……無理ね。壊れるわよ、そんなの」
「……なら、壊れない形にする。それが私の役目よ」
クラリスは一歩も引かなかった。
アグナードを「あるべき姿」に嵌め込もうとする支配的な愛と、彼を「あるがまま」に執着し続ける混沌とした愛。
相容れない二つの意志が、広間の中央で激しくぶつかり、火花を散らした。
だが。
結局、誰もそれ以上、物理的に動くことはなかった。
理由は一つ。
ここで騒ぎを起こし、屋敷を壊し、街を騒がせれば、それはあのアグナードという男にとって、救いようのない「不快なノイズ」になるからだ。
「迷惑になる」。
その共通認識だけが、かろうじて彼女たちを理性の側に繋ぎ止めていた。
「……今日は、ここまでにしましょう」
カレンが肩をすくめ、背を向けた。
「……同意するわ。お互いの手の内は、少しだけ見えたものね」
クラリスも短く応じ、外套を翻した。
全員が、静かに引いていく。
だが、広間に残された熱量は、以前よりもずっと高いままだった。
終わっていない。
むしろ、始まったのだ。
アグナードという一人の男を巡る、美しくも醜い「陣取り合戦」が。
――この日。
アグナードに囚われた女たちは、初めて一堂に会した。
そして、彼女たちは痛感した。
自分たちの間に、歩み寄る余地など欠片も存在しないということを。
「相性が、最悪ね」
誰が呟いたのか。
その言葉だけが、夜の闇に沈む広間に空虚に響いた。
アグナードの知らないところで、彼という存在を中心に、世界で最も危険な連帯と、最も苛烈な対立が、同時に産声を上げていた。




