第10話:増えすぎた
朝の光は、まだ眠りから覚めきらない街を薄く、青白く照らしていた。
人通りもまばらな時間帯。石畳を叩く硬い靴音だけが、静寂の中に響いては消えていく。
アグナードは、いつものように歩いていた。
そこに目的はない。昨日いた場所から、今日いるべき場所へ。あるいは、ただ視界に入る景色を更新するためだけの、無機質な移動。
漆黒の外套が風に揺れ、彼の孤独を際立たせていた。
「……?」
不意に、アグナードは足を止めた。
気配がある。
それも、一つや二つではない。
背後に澱みのように溜まった、明確な複数の視線。
彼は眉をひそめることもなく、ただ事象を確認するために、ゆっくりと振り返った。
そこに、いた。
数人の男女。使い込まれた武具を纏い、鋭い、だがどこか縋るような目を向けてくる者たち。
「……あ」
冒険者の一人、かつて森でオーガに追い詰められていたガラムが、弾かれたように顔を上げた。
「いた……! アグナードだ、見つけたぞ!」
その声を合図にしたかのように、周囲の空気が一変した。
路地の影、建物の隙間、あるいは屋根の陰。
そこかしこから、潜んでいた人々が次々と姿を現す。
十、二十……その数は瞬く間に膨れ上がり、静かだった朝の通りを埋め尽くしていく。
「……なんだ」
アグナードが問う。
そこには恐怖も不快感もない。ただ、進路を塞がれたことに対する淡白な確認だけがあった。
「……あんたに、用があるんだ」
ガラムが代表するように一歩前に出る。その背後には、あのとき共に生き残ったミナやディルの姿もあった。
「用?」
「ああ」
ガラムは深く息を吸い込み、周囲に集まった者たちの期待を背負うようにして、はっきりと言い放った。
「……弟子にしてくれ。俺たち全員をだ」
沈黙が降りた。
数秒ののち、アグナードの口から出たのは、心底からの疑問だった。
「……は?」
「あんたの強さを見た。あの日、あの森で。……魔法なんて言葉じゃ片付けられない、圧倒的な『理』を。俺たちは、自分の無力さを知った。だから――教えてくれ。どうすれば、あんたに近づけるのか」
後ろの者たちも、祈るような面持ちで頷く。
「……俺もだ。あんたの足跡を追ってきた」
「私も……。あの歌を聴いて、本物に会いたくて……」
口々に上がる声。
集まったのは、かつて彼に救われた者、彼の噂を聞きつけた者、そして彼という存在に魅了された者たち。
「……教えることなんて、何もない」
アグナードは即答した。
「……あるだろ! あの動き、あの判断、あの無駄のない破壊! すべてが俺たちの、この国の常識を超えている!」
「……知らん。俺はただ、俺の都合で動いているだけだ。教えられる技術などない」
アグナードは興味を失ったように踵を返す。
「見て覚えろ。それができないなら、諦めろ」
それだけを告げて、彼は再び歩き出した。
冷たい突き放し。だが、ガラムたちの瞳に宿った火は消えなかった。
「なら、それでいい!」
ガラムが叫ぶ。
「近くで見せてもらう。あんたが拒もうが、勝手についていく。見て盗めと言うなら、盗めるまで離れない!」
「……は?」
アグナードの歩調が、わずかに乱れる。
背後から聞こえるのは、数十人分の足音。
「俺もだ!」
「私もついていく!」
「アグナード様、どうかその背中を拝ませてください!」
ざわめき。
朝の静かな空気は完全に霧散し、アグナードを中心とした奇妙な大行列が形成されていく。
「……」
アグナードは足を止める。
止まる。
後ろの数十人も、ぴたりと足を止める。
歩く。
歩く。
全員が一定の距離を保ち、一糸乱れぬ動きでついてくる。
「……」
面倒だ、とアグナードは思った。
しかし、彼らを力尽くで排除する理由もない。害意がない以上、それはただの「動く背景」に過ぎなかった。
彼は放置を決め込み、歩き続ける。
だが、状況はさらに悪化する。
裏路地に差し掛かったところで、別の影が動いた。
「……アニキ」
小さな、だがよく通る声。
ボロを纏った子供たち――あの路地裏の少年たちが、木箱の影から顔を出した。
一人ではない。後ろにはさらに多くの、アニキという呼び名を共有する子供たちの集団が控えている。
「……あいつらもか。裏路地の餓鬼共まで……」
ついてきていた冒険者の一人が呟く。
子供たちは躊躇なく、行列の隙間に割り込んだ。
「アニキ、今日はどこへ行くんだ? 俺らも準備はできてるぜ」
少年の問いに、アグナードは前方を見据えたまま答える。
「……知らん。勝手についてくるな」
「へへ、なら勝手についていくよ。追い払わないって約束だろ?」
「……」
増える。
さらに、増える。
街を歩くごとに、かつて彼が「都合」で救い、放置してきた過去の破片が、磁石に吸い寄せられる鉄屑のように集まってくる。
そのとき。
「……アグナードさん」
柔らかく、慈愛に満ちた声が響いた。
孤児院の前。シスター・マリアが、子供たちの手を引いて立っていた。
「また、来てくれたんですね。いえ、寄ってくれたというべきでしょうか」
彼女は微笑む。
だが、その背後に控える子供たちの目には、明白な「独占欲」にも似た輝きがあった。
「……別に。通り道だ」
「ふふ、そう仰ると思っていました。……それにしても」
マリアは、アグナードを取り囲む異様な大群衆を見渡し、小さく笑った。
「……随分と、増えましたね」
マリアの言葉には、母のような優しさと、そして「新参者」に対する少しばかり鋭い、選民意識のような色が混じっていた。
さらに、視線を上げれば屋根の上。
リュートを抱えた吟遊詩人、エルナが腰掛けていた。
彼女は言葉を発しない。ただ、この奇妙で巨大な「現象」を、一文字も逃すまいと瞳に焼き付けている。
彼女の指が弦を弾くたび、アグナードという伝説に新しい一節が書き加えられていく。
「……面倒だ」
アグナードの呟きは、群衆の熱気にかき消された。
誰一人、離れようとしない。
むしろ、周囲を固める密度は増していく。
アグナードが意図せず撒いてきた「救い」という名の種は、いつの間にか芽吹き、絡み合い、逃げ場のない巨大な茨の檻となって彼自身を囲んでいた。
「……アグナード様」
誰かが、熱っぽくそう呼んだ。
最初は、一人の称賛に過ぎなかった。
だが、それは瞬く間に伝染し、大きなうねりとなって通りを支配した。
「アグナード様」
「アグナード様」
「アグナード様……!」
呼び名が変わる。
関係が固定される。
救われた者。救った者。
そこには、アグナードが最も嫌うはずの「執着」の鎖が、何重にも巻き付いていた。
「……」
アグナードは何も言わず、ただ中心に立っていた。
彼の周囲には、もはや彼を一人にする気のない、数百の意志がひしめいている。
止まらない。
増え続ける。
彼が「いらない」と切り捨てた感謝も、誠意も、名前も、すべてが歪な形を成して彼に回帰してきた。
理由は、ただ一つ。
彼が誰のものでもないからこそ、彼らは彼を、自分たちだけの中心にしたかった。
――この日。
一人で歩くことを選んだ男は、世界で最も孤独ではない男になった。
そして、彼が気づかないうちに。
その漆黒の外套の下には、彼を信奉し、彼を離さないと誓った者たちが創り上げた、新しい「理」が構築され始めていた。
「増えすぎたな……」
再びの呟き。
しかし、その声に応えるのは、忠誠を誓う何百もの、熱を孕んだ返答だった。
アグナードの旅は、もはや彼一人のものではなくなっていた。




