4/8 【後藤田壱衛門】
秋の月がうっすらと見え始め陽も大分陰ってきた頃、海藤はその夜、隊士内海次郎と共に洛東・東山のあたりにある小料理屋にいた。
内海には、海藤に人を暗殺させるという策謀がこの時あった。
程なく、料亭には同じく示現流志士の薩人・後藤田壱衛門が現れた。
今、この料亭の奥の間に三人は座していた。蝋燭の火が、三人の影を上へ下へとゆらゆら動かしている。それが言い知れぬ殺気にも似ている。
だが、天衣無縫なこの海藤には、そんな気が知れない。
そんな人柄であったが故に、今回の騒動を招いてしまったとも言える。海藤は真面目で実直な男であったが、何より口が軽いところがあった。
それはまた、この同隊士・内海にも言えることだ。
内海次郎は、武蔵国・川越出身の伊東門下の平隊士であった。
伊東甲子太郎の側に身を置き、伊東の考えも常に空気中の酸素を取り入れるかのように内海の中へと入っていった。そんな伊東のまだ広めてはならない勤皇思想を、内海がある祇園の夜につい口が滑ったのか、この海藤に話してしまったのである。
「真の害は幕府であり、家茂公である!」
しかし剣だけに生きている海藤にとっては、差ほど重い印象を受けなかった。
だが海藤は数日後、この時酒が入って興奮していた内海の様子を別隊士・中西昇に気さくに話してしまった。
場所は、西本願寺稽古場ということもあって他の隊士たちも何名かいた。この話を聞いた中西は、すぐに伊東へ報告した。
もし中西が試衛館派であったら、伊東はこの時すでに土方たちによって粛正されていたかもしれない。
この事件の発端は内海にあり、この時珍しく憤慨した伊東は、内海に海藤の処理を命じたのである。
しかし海藤の剣術は、既に相当なものであった。内海の腕を楽に越えていたことは明白であった。毎日剣の稽古に励み、己の示現流を徐々に上達させていたのだ。
「きえええぇぇい!!!」
独特の奇声と打ち込みで知られる示現流の稽古法は、他の隊士たちからも特異な目で見られていた。
隊士たちの殆どは関東以東のために、示現流での型稽古を知らない。
海藤はよく外に出ては椎などの堅い木を土中にニ尺ほど埋めて、五間ほど離れては右に左に打ち込む立木打ちの稽古に励んでいた。
右手に自然に振り上げて左手で添えた構えである「蜻蛉」から、手の内を締め、腰を十分に据わらせてから即座に打ち下ろすこの「置き蜻蛉」といわれる一刀が、示現流の特徴であり、近藤勇をも懼れさせていた。
精神を統一し渾身の力を込め、この一刀を打ち下ろした直後には、眼前の敵が二つに両断されている。そんな即進撃に隊士たちは内心敬服し、また近藤同様懼れていた。
内海も、勿論その例外ではなかった。
毒には毒を——。
示現流には示現流を——。
内海は、薩摩屋敷から良い使い手を探し出した。
それが、後藤田壱衛門である。
その日の海藤は、あまり飲まなかった。いつもは内海が祇園に誘えば、共に沢山飲んだものだが、今宵は徳利によく酒が残っていた。
本人にとっても変な気がしたのだろう。
いくら同じ九州人だからといっても、肥後と薩摩ではやや遠い。それを内海が半ば強引に、この後藤田壱衛門という男と会わせているのだから、変に思うのも無理はない。
更に海藤はこの隣の薩人・後藤田から、自分に向けた殺気を嫌と言うほど感じ取っていたわけで、それが尚更不審且つ警戒な気を抱かせていた。
いくら呑気な海藤であっても、こうも至近距離から徐々に殺気をぶつけられては、いつまでも穏やかにはいられなかった。
握り拳の内側では、自分にも気が付かないほどの汗を溜め込んでいた。
「おはんの剣は、示現流と聞いたが……。それは、誠か?」
そう聞いてきたのは、後藤田だった。
「はあ。本元の薩摩の剣にゃ敵いまっせんが、私は稚児ん時から、ずっと木相手に打っとらした」
少し飲んでも赤くなるらしい。が、海藤は決して酔ってはいなかった。
「ふむ。ならば拙者も示現流たい。一度、打ち合ってみたいもんたいね」
後藤田が、少し笑みをこぼしながら、御猪口に口を付けた。目はなぜかギラギラしている。
「はっはっは。なあに、わたしゃあ、あっちゅう間に頭をかち割られますね。本家本元、薩摩の示現流には、それこそ頭が上がりまっせん。はははは!」
海藤は笑う。
後藤田は澄ます。
内海は、機を見計らったとばかりに口を開く。
「それにしても、同じ九州人。話はいろいろと御有りの様。それがしは厠の方へと用を足してくるので、今は心置きなく——」
そういうと内海はちらりと後藤田を見てから、障子戸を開けて出て行った。
海藤は、突然の内海の用足しに少し気まずくなった。
相手は、平然としている。
内海が消えて間もなく、嵐山の方角から夜のカラスの鳴き声が、遠く小さく聞こえて来た。
それが合図であるかのように、後藤田は妙な話を始めた。
「以前、この部屋で女を抱いたことがありもした。足の綺麗な女でごわした。その女も、おはんと同じ熊本出身——」
後藤田が海藤を見ずに、薩摩訛りでゆっくりと話し出した。
「へえ、どこでお知り合いに?」
後藤田は、相手の質問など聞こえなかったという風に話を続けた。
「そん女は、加藤清正を崇拝しちょって、寝ても醒めてもそればかり話しちょった。清正の軍馬がどうした、清正の胴丸がどうした、清正の笠懸・流鏑馬・犬追物が良い良いといちいちうるさい。終いにゃ、こん薩摩と比較してきたとね。熊本女は、九州一の別嬪だとか抜かしよる。薩摩女は論外であると、笑いだしたと。おいは、そん女と寝たことなどとうに忘れ、帰り道で真っ二つにしてやったわ、うはははは!」
笑い続けて喉も乾いたのか、徳利で潤し始めた。
空になった徳利を部屋の隅にぶん投げたことにより、柱に当たり木っ端微塵となってしまった。
海藤は、この時自分の首筋が妙にひんやりしているのがわかった。
「薩摩隼人の剣筋を御覧になってみるかな?」
と、言ったは後藤田——。
言ったと同時に鞘から刃が、すかさず半身ほど姿を見せて、抜刀と同時に横払いで海藤を襲う。
殺気が嫌というほど伝わっていた海藤の反応は俊敏だった。剣先あと僅かというところで、体ごと後ろへ避けていて、左手には海藤の徳利が握られていた。
両者はもう立ち上がっている。
だが引いた海藤の方は、やや体勢が崩れていた。
反対に後藤田の体勢は、二の太刀要らずの「蜻蛉」の構えになっている。
あとは打ち下ろしてくる「置き蜻蛉」のみ。
間髪入れずの奇声! 無論、後藤田のだ。
襲い来る後藤田に、海藤は徳利を思い切り投げつけていた。
示現流は、すべての精神を集中させるために、其の他の雑事には無頓着と言ってもいい。
それは、中空から投げ入れられる徳利とて例外ではなかった。
徳利は、敵の顔面に見事に当たった。
先ほど後藤田が柱に投げつけたソレのように簡単に砕けて、畳にバラバラと破片がこぼれ落ちた。
中身の酒は、畳一面に流れ、染み込んでいく。
ぎゃああああ!
敵の奇声は悲鳴へと変わり、切れた顔面の皮膚から血がみるみると流れ出た。
と、次の瞬間、海藤の奇声が、海藤の「置き蜻蛉」が、相手を強襲した。
鋭い閃光は、海藤の初太刀だった。
だが後藤田の動きも流石だった。
流血の顔面だったが、己の目玉で何とか見えた目の前の剣を、己の剣で受け止めようとした。決して業物では無かったが、今まで何人かの示現流初太刀を、これで食い止めて来たのだ。
しかし、状況が悪かった。
顔面流血の上、畳に多く零れた徳利の酒が、この男の足をよく滑らせた。顔の痛さも激しく神経を敏感にさせ、敵の刃を受け止めるどころではなかった。
海藤の剣を、横向きの後藤田の刃が受け止めた。
受け止めたものの、それはただ触れただけと言ってもいい。海藤の腕前は確かに上達していて、敵の刃など風に舞う木の葉の如く吹き飛ばし、左肩に刀身が当たる感触を確かに捉えた。
刀は骨を貫き、肩の中に奥深く切り込んだ。
畳は血の海となり、後藤田壱衛門の残骸はその海に虚しく漂っていた。




