1/8 【切腹】
元治元年はまさに激動であった。
過激派の公家七卿が長州へ下っていくと、世の中は京都を中心に、慌ただしく揺れ動いていくことになった。
それは新撰組にとっても、決して例外ではなかった。
壬生の屯所にいた頃は、まだまだ幕府からの信頼もほとんど得ておらず、殊に芹沢鴨の狼藉は、京都守護職会津容保候の印象をますます悪くしていき、近藤たちも気が気ではなかった。
そんな中での元治元年——。
もう芹沢を始め、新見錦、平山五郎などの水戸一派は消えていた。今や多摩・試衛館道場の近藤、土方、沖田、井上たちの手に新撰組はあった。
言い換えれば、隊を自分たちの都合よく掌握していたのだ。
近藤たちは、古高俊太郎と名乗る御所炎上並びに、帝の長州拉致を企てていた不逞浪士を捕えて、拷問を受けさせた。
その結果、出た答えは右記の企てと、その具体案を取り決めるための京都池田屋での密会の開催の実——。
だが新撰組の動きは速かった。
近藤、土方を始めとする壬生で生まれた会津お預かりしこの剣客集団は、元治元年六月、祇園祭りの夜に池田屋へと颯爽と斬り込んだのだ。
宮部鼎造、吉田稔麿ら重要幹部の暗殺に成功(但し、最重要人物であった桂小五郎は、密会に参加していなかった為に難を逃れた)。近藤たちの幕府への信頼は揺るぎないものとなり、また新撰組の知名度も世に知れ渡らすことになったのである。
その後も激動は続いた。
長州軍は、池田屋事件の惨禍を黙って見過ごすことなどできず、同年夏、幕府を相手に軍を率いて上京し、御所の周りで幕府軍との乱戦となった。新撰組も大いに働き、長州軍に打ち勝った。
この頃になると、会津容保侯の信任はいよいよ厚くなり、やがて新撰組は壬生から京都西本願寺に移ることとなった。
隊も初期の頃より、大きく膨れ上がり、慶応元年には200名を越す京都治安維持部隊にまでなっていた。
それでも会津支配下お預かりという非正規部隊ではあったが、世間一般では新撰組と言う名が徐々にだが確実に、血が流れる如く広まっていった。
「世間では血生臭い連中だと言われているようだが、近藤君の意見はどうかね」
随分と端正な顔をした男が、畳のいぐさを執拗に毟っている厳つい顔をした男にそう尋ねている。
端正な顔は、伊東甲子太郎と言い、つい最近入隊したばかりである。土方からはなぜだか煙たがられている。しかし、本人はそう気にしてはいないようだ。
厳つい顔は、本隊局長の近藤勇であった。彼自らが関東へ下った際に、この伊東(一派)の入隊を許したのである。
「ふむ。人斬り包丁が羽織を着ているとも言われているそうだな」
これを言ったのは近藤本人。
「長州や薩摩に対して、少し手厳しいのではと存ずるが——」
聞いた近藤は、目線を畳から伊東のすらりと真っ直ぐに伸びた高い鼻に移した。
「どういうことかな。彼らは不逞な輩。我らは幕府に歯向かう者どもを斬るために居るのだがな」
最近の伊東の言動は、どうもやんわりしている。その容姿さながらで、脆弱な姿勢を志士どもに対して見せる。と近藤はそう感じていた。土方に至っては、更に強くそれを感じていた。
「長州は、もはや虫の息も同然。蛤御門や下関にて散々打ち負かされ、そして今度は、それに追い討ちをかけるが如くの今回の征討です。聞けば近藤さんも芸州へ動向されるようだが?」
近藤は、愛刀「虎徹」をちらりと見た。
「今や長州は、日本の害だ。これを今のうちに蹴散らしておかねば、いずれ上様は彼奴等に殺されるに決まっている」
近藤は、芸州広島への動向を幕府より命じられた。先の蛤御門での戦の後、その処理処遇を決める大事な会合が広島で待っていた。
「今回は君にも動向して貰いたい、伊東君」
突如、近藤は伊東の同行を求めた。
これには腹のうちがあった。伊東は、近藤が直々に招き入れた隊士である。だが副長の土方は知らない。
鼻が利くこの副長は、伊東を間者と見た。
監察の山崎にこの男の素性を調べさせたが、これと言って目ぼしい情報は得られなかった。精々、志士たちに人気の北辰一刀流の伊東精一流剣術というだけであったが、これだけでは確かではない。
新撰組隊内にも北辰一刀流、神道無念流など敵側の剣術を持つ隊士は多い。この年の春に腹を切った総長山南敬介も、立派な北辰一刀流の使い手であった。
しかし土方には、土方なりの慎重さがある。
後の調べで、この伊東が水戸学を学んでいたことがわかったのだ。
水戸学といえば、勤王思想の固まりである。勤王と言えば、幕府を目の上のタンコブと見ており、そして隙有れば、倒幕運動でも開始しかねない思想を持ち合わせている。
京都守護職・会津藩お預かりである新撰組にとっては、矛盾した人物が入隊したと言えるわけだ。
「ありゃ、剣術って柄じゃあねえ。清河のような舌を持った詭弁野郎の臭いがするよ」
伊東が入隊し、初めて邂逅したのち、近藤にそう言ったのはこの土方である。
近藤は、自分が入隊を許したにも関わらず、古巣の仲間に疑われているこの伊東の扱いに少々困っていた。彼にとっては、慎重に何かをするなどという考えはあまりに縁遠いので、しばらく自分が伊東を見張ってみようと考えたのだ。
「今回の芸州行き、慶んで御同行致しますゆえ。では何卒」
伊東はそう言うと、美しい顔を和らげて瞳が上弦の月となり、その顔は奇異に青眩しかった。
近藤は腹の内までなど気にせず、伊東の賛同に同じく素直に笑みをこぼした。
隊士が一人、腹を切った。
介錯は三番隊組長、斉藤一。隊士の罪状は、局中法度最後に書かれた『私闘の許さず』からだった。
私闘の相手は、実は土方の嫌っている伊東甲子太郎と関係があった。というよりも、今回の発端はこの男と言ってもいいだろう。
切腹を申し付けられたのは、肥後藩脱藩の海藤道之助なる武士だった。
新撰組では、非常に珍しい熊本出の男である。訛りがきつく、隊内でも上手く言葉を交わせる者はそうはいなかったが、伊東道場の連中だけは違った。
聡明な伊東は、この海藤の訛りなど毛ほどとも思わず近づいた。伊東の盟友である篠原泰之進と、同隊士・服部武雄は海藤を島原などへ誘い、交友を保った。
海藤は、九州育ちの好い若者だった。
気さくな人柄は伊東一派以外からも親しまれていたが、腕はいまいち振るわず、篠原や服部らは、いつも稽古相手になってやったりした。
肥後脱藩という肩書きに親近感を寄せた伊東は、やがて二人で酒を飲み交わすという事にまでなった。
「肥後勤皇党の宮部君をご存知かね」
宮部鼎三のことである。先の池田屋にて既に自刃している。そう聞いたのは伊東。
「ええ。ばってん、ワシはよく知らんにゃ。宮部さんたら、長州側にくっ付いとって、しょっちゅう久坂(玄瑞)やら来島(又兵衛)やらと動いとったなあ。そん前には、吉田の松蔭と遊学したっちゅう話もあるんと聞きますよ」
道之助は気さくに答えた。
——この男は、宮部をよく知らない。また政情にも疎い。己が世の為に、腕を振るってやろうと若さゆえの至り、脱藩しただけの事だ。
伊東は、瞬時にそう判断した。そして、それは当たっていた。
実は伊東は、この時より密かに京都薩摩屋敷と連絡を取っていた。近々では薩摩藩士大久保正助と名乗る男にも会う予定であった。
池田屋の後の倒幕思想派達は、苦境に立たされていた。
長州は禁門の変後、藩内でクーデタが起こり、内戦状態に陥っていた。やがては来る長州征伐に、この藩は更なる地獄を見ることになると伊東は見通した。
そこで出た答えが、九州勢力。
強国薩摩を中心とする勤皇思想が西国全体で強く芽生えれば、この国は幕府などという古びた体制を一新させて、新時代を明けさせる事ができると確信していた。
それで目を付けたのはこの海藤道之助だったが、どうも佐幕寄りなのではと伊東は思った。
「君と同じ藩出身の宮部君が亡くなったのは残念だが、彼は帝拉致を企てた恐ろしき謀り者だ。あのような志士どもは死して当然。局内では彼の話を極力避けるように」
伊東は、話の結論の方向を上手く変えて、その場を終わらせることにした。
「分かっとるんばい。ありゃ、わしの藩の思想とおんなじもん持っとらしたが、帝を強引に連れ去ろうなんて考えは、朝敵以外なにものでもなか。わしは幕府のため、帝のため、徳川260年のため、剣を振るっていくんばい!」
なかなか覚悟を決めた男が来たものだな。伊東は密かにそう思った。
但し、世の中の動きよりも、平和な世の為だけに剣を振るおうとする夢見主義であることは間違いなかった。
これではいけない。その場その場で、浅はかに正義を何度も唱える愚の部分がある。
それでこの日の話は、終いとなった。




