15
クマのぬいぐるみは、それきりしゃべらなくなった。
黒々とした瞳の前に、俺はひざまずいた。
「お前がどういう人生を送ったのか、それはわかった」
こいつは、ひとつの理念でもって行動してきた。
無目的に、あるいは都会のきらびやかさに憧れて、この街にやってきたわけじゃない。誰かを守るために来た。自分が困っていたとき、助けてくれた友人がいた。その人のように、誰かを守ろうとした。
その意思には確かな形があって、ある意味では美しく輝いていたと思う。
少しだけ、こいつがうらやましかった。
俺には、そういう、何かひとつのことを為そうという思いはなかったから。
たくさんの言い訳を抱えて都会に出てきた、哀れな若者のひとりだから。
でも……だけど……
「お前のことも、やっぱり認められない」
人殺しは悪だ。
家畜を殺すのとはわけが違う。
どんな理念があろうと、どんな正義を掲げていようと、誰かの命に手をかけるのは間違っている。
このクマのぬいぐるみは、ローガン・レクターを英雄だと称した。
だけど俺は、どんなに肯定的に考えてみても、ローガンを英雄だと思えなかった。
俺はギディを許せない。
実家の畑泥棒を許せない。
街行く子どもが食べかけのリンゴを捨てるのを許せない。
人としてすべきではないことを、俺は許せない。
それによって悲しむ人がいるのを、知っているから。
クマのぬいぐるみは、断ち切りバサミとともに、丘の上まで運ばれた。
レナは一度家に帰り、ランタンを手に墓場へと引き返した。開けたところに陣取り、芝生を少しだけ避け、むき出しになった土の上に、ぬいぐるみを横たえる。そして、ぬいぐるみの毛先にランタンの火を移した。
ぱちぱちと寂しそうな音を立てて、小さな炎が広がっていく。
「南部の田舎町では——」パトリシアが言う。「——ガイ・フォークス・デイという、手作りの人形を焼くお祭りがあるそうです」
パトリシアは風に揺れる炎を見つめて、
「いろんな理由があるそうですが、健康祈願とか、悪魔祓いとか、そういう目的のために行われるお祭りです。作った人形に病気や悪魔をつかせて、燃やして、将来を健康に、幸福に過ごせるようにという、おまじないなんだとか」
炎は大きくなり、ぬいぐるみの全身を包みこんだ。
暗い夜の闇のなか、その炎だけが、煌々と燃え上がっている。
その様子を、俺たちはじっと見つめていた。
「そういえば、」
俺はレナにたずねた。
「どうして、一緒にこいつを探そうとしたんだ? 生身で会って、ターゲットにならないとも限らなかったのに」
レナは燃えるぬいぐるみを見つめて、
「正式な検死が済んだ時点で、この人の本体は解剖されてぼろぼろだった。それがなくても、大量の睡眠薬で体がダメになっているはずなのに、このぬいぐるみは動きつづけた。不審死になった魂は、肉体がダメになったら消えてしまう——そのルールの例外を、確かめたかった」
「例外って?」
レナは、立ち上るかすかな煙に沿って、暗い空を見上げる。
「結局、人間って、意志の強さで、どうにでもなっちゃうんだなって。肉体がぼろぼろでも、薬漬けになってても、意志を……魂を強く持っていれば、数週間の命の期限なんて、関係なくなっちゃうんだって」
そう言う彼女の瞳には、ぬいぐるみを包む温かな炎が揺れていた。
火が消えるのを待つことなく、俺とパトリシアはレナの肩に乗った。
レナが丘を下るにつれ、墓場が遠ざかっていく。
途中、俺は肩越しに振り向いた。丘の頂上に目を向けると、蛍火のようにかすかな光が見えた。その光はしりすぼみに小さくなり、いま、ふうっと夜空に溶けていった。
俺は言った。
「俺が本体に戻れなかった理由、なんとなくわかったよ。……それに、思い出した。俺がこれまで、どういうふうに生きてきたか。どういうふうに考えていたか」
レナは俺を横目に見て、
「聞かせてもらっていい?」
「ああ、もちろん」
帰りの道すがら、俺はとつとつと口を開いた。
おどけるでも隠すでもなく、ありのままを話して聞かせた。
自分の身の上を話すなんて、誰にでもできることだと思う。子どもだったら、わけなくできてしまうだろう。だけどそれは、大人に近づくたびに難しくなってしまう。失敗した自分や、考え違いをした自分……そういった、忘れてしまいたい出来事が、心に枷をしてしまうのだと、そう思った。
パーク・ストリートは霧に包まれている。
夜の暗闇と霧の白さが重なって、一寸先さえ見えなくしている。
この街に朝があったことさえ忘れそうになるくらい、夜は深い。
でも、しばらくすれば、新しい朝がやって来る。
のぼる朝日は夜闇も霧も消し飛ばし、街中を明るく照らし出す。
人形の目でなくとも、俺はそれを、美しいと思うだろう。
———————第4章 了———————




