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……寝床を探そう。
俺はやっと、路地から歩き出した。
夜目が利く分、暗いところを動き回るのは、人間より都合がよかった。幸い、野良猫や野良犬と遭遇することのないまま、メイン・ストリート、中流階級の住居が密集したあたりまで来ることができた。
大通りに人気はなかった。
暗闇のなかにガス灯がともり、いつの間にか立ちこめていた霧を白く照らしている。暗闇は見通せても、白く煙る景色は見通せない。人形の目も万能ではないようだった。
念のため、ガス灯の根元に身を隠しながら通りを進んだ。
ひたすら歩き続けた。
止まってはいけないと思った。
体を動かしていないと、きりきりと胸が締めつけられるような感覚に、意識が向いてしまいそうだった。
気づけば、俺は大きなアーチ橋の上にいた。橋の真ん中から下をのぞくと、大きな川が流れていた。オウル川の支流だ。かつては運河として名をはせたこの川も、蒸気機関車と鉄道のおかげで、ただの用水路のようになっている。費用もかかって積み荷の制限がある船より、レールがあれば何でも運べる蒸気機関車の方が、圧倒的に便利だ。十八世紀から続く工業的発展は、蒸気機関の開発と、鉄のレールでなされたといっても過言ではない。十九世紀も末期に近づいてなお、この国も、この街も、進化を続けていた。
そんな街に、俺は、何をしに来たんだろう。
俺は鉄柵に背中をあずけて、その場に座りこんだ。暗い空をあおぎ、右手をかかげる。ガス灯のほのかな明るさが、右手の影を、俺の顔に落とした。
パトリシアの言うとおりなら、魂の抜けた本体は、数週間で腐ってしまうらしい。そうなれば最後、ここにある魂も消えてしまう。俺の人生は、ちんけなブリキ人形で終わるのだろうか。それだけは嫌だ。……嫌だと思うだけで、現状が変われば、一番気楽なのに。
パトリシアは別れ際、俺の体があるかもしれない場所をあれこれと言っていた。
だからといって、俺の不安が消えるわけじゃない。俺には記憶がない。名前と、生まれ育った町と、ピジョン・シティのいくつかのこと。それ以外の記憶が、いまの俺にはないんだ。
だから、俺の使命が何かなんて、答えられるはずがなかった。
パトリシアはたぶん、俺が答えられないのを見越して、あんなことを聞いたに違いない。あの金髪人形に入っている魂は、相当にゆがんでいるらしい。俺があいつに何かしたか? 不当な嫌われ方をしているのに、怒鳴るなという方がどうかしている。
(……でも)
それなら、あの問いかけ——「あなたの使命はなんですか」——あれを聞かれたときに、嘘の答えを用意して、その場ででっち上げることもできたはずだ。ふざけた質問だと怒鳴ることだってできたはずだ。だけど俺は答えられず、怒鳴ることもできなかった。
人間に戻りたい。
そうは思うけれど、見捨てられたショックと、どこにあるとも知れない本体を探すという先の見えなさに、心は沈むばかりだった。
……このまま眠ってしまおう。
橋の上に転がるブリキ人形なんて、野良の動物だっておもちゃにしないはずだ。どれだけ歩いても疲れない体だというのに、しっかり眠気が来るというのも、おかしな話だった。
半ばあきらめたような心持ちで、俺は膝を抱え、鉄柵の側に寝転がった。
……どのくらい時間が経っただろう。
目を瞑ってから一時間も経っていないはずだ。
その間にも、仕事を終えたらしい労働者や、巡回する警官たちが橋の上を行き来していた。それ以外にも、スーツ姿の男が慌ただしく走っていたり、身なりの悪い男と若い女のペアが歩いていたり その誰も、橋の上に転がるブリキ人形に目を向けなかった。
最初は薄目を開けて、橋を渡るひとたちを見つめていたが、眠気に抗うつもりもなく、すっかり諦めの境地に達していたから、俺は再び目をつむった。
しばらくして人通りが途切れる。
そうして、まぶたの裏に夜の暗さがなじんできたころ。
——しくしく、しくしく
だれかのすすり泣きが聞こえてきた。子どもの泣き声だ。俺はほんの少し目を開けて、あたりを見回した。子どもらしき姿は見当たらない。橋の側にある建物にも目を向けるが、どの窓も開いていなかった。
声の方向はなんとなくわかる。この橋を引き返した先にある、アパートメントのかげだ。
……無視して寝よう。
とは思うけれど、静かな夜にあって、すすり泣きは止めどなく響き続けた。
ブリキ人形になっているのに、泣いている子どもをどうにかできるはずがない。
それでも、様子だけでも見ておこうか。
俺は重い腰を上げ、声のする方に足を向けた。
その声は、アパートメントとアパートメントの間から漏れていた。路地と呼ぶにはあまりに狭い。子どもなら簡単に通れるだろうが、大人は入ることすら難しいはずだ。そんな隙間には、底の深いゴミ箱が置かれていた。
最初、すすり泣きはゴミ箱の中から聞こえると思った。
しかし、ゴミ箱の裏に回りこんで、そうではないと知る。
ゴミ箱の後ろに、うさぎのぬいぐるみが座っていた。ブリキ人形の俺より二回りは大きい。元は白うさぎを模していたのだろうが、あちこちが泥と煤で汚れているせいで、すっかり黒く染まっていた。
そいつは後ろ脚を投げ出して座りこみ、器用に折り曲げた前脚で顔を覆っていた。
——しくしく、しくしく
すすり泣いていたのは、そのぬいぐるみだった。人間の子どもみたいに泣くぬいぐるみなんて聞いたことがない。そんなもの、常識的にありえない。でも、俺はすでに、常識的にありえない事態に巻きこまれている。
うさぎのぬいぐるみが顔を上げる。
赤く丸い目が、俺をとらえた。
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