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「自分の本体を探してきて」
レナが言ったのは、それだけだった。
どういう意味だとたずねても、不貞寝するようにソファに寝転がったレナは、うんともすんとも言わなかった。本体を探せと言われても、自分の名前以外の記憶がないのに、どこをどう探せというのだろう。
「大したヒントにはなりませんが」
レナに指示され、パトリシアはしぶしぶ、俺を連れ出した。
「もしご自分の体を見つけたら、すぐにそれだとわかります。鏡を見たことがなくても問題ありません。魂と長く寄り添った肉体は、一目見ただけで、元の体だと判別できます。ミスター・ハンバーがやるべきは、レナさんにいわれたとおり、ご自分の本体を探すこと。現状、それ以外にできることがありません」
「でも、どこにあるかもわからない体を探すって、無理じゃないか?」
「そうとも言いきれません」
金髪人形は人目につかないよう、物かげから物かげに移動し、路地に入った。
「最近この街では、とある現象が流行っています。ご存じですか?」
首を振ると、パトリシアは続けた。
「何の前触れもなく、人が死ぬのです。家族思いの男の子、カフェでお茶を飲んでいた少女、昨日まで元気だった炭鉱夫。年齢、性別、職業を問いません。老衰でもなければ心臓麻痺でもない。現代医学が頭を悩ませる際たる現象——それは、不審死と呼ばれています」
細い風がひとつ吹く。
パトリシアは金髪を整えるように、長い髪を後ろになでつけた。
「謎が謎を呼ぶ不審死ですが、その実態は至ってシンプル。人間の肉体から魂が抜け出てしまっている……それだけの話です」
パトリシアが言うには、人間はその身に魂を宿しているからこそ生きていける、とのことだ。心臓が動いたり、脳が働いたり……それだけでは〝ひととして生きている〟とは言えないらしい。
俺はたずねる。
「じゃあ、人間の体から抜け出た魂は、どうなるんだ?」
「ひょっとしてジョークでおっしゃってます? ご自分の姿をよくご覧ください」
パトリシアは振り向かないまま答えた。
「本体から抜け出た魂は、無意識に新しい入れ物を探します。それは、人形であったり、ぬいぐるみであったり、様々です。わたくしがこれまで行き会った例を思い返しても、人型や、動物を象ったものに、魂が入りこむことばかりでした。その他の無機物に入りこんだ事例は確認していません」
つまり、俺がブリキ人形になっているのは、俺の本体から魂が抜け出て、ブリキ人形に入ってしまったからということだ。……なんとも突飛な話に聞こえる。しかし、いま俺が見ているもの、感じているものこそ現実だ。受け入れるしかない。
「魂が抜ける際、記憶が抜け落ちてしまう場合がありますが、あなたはその典型例です。本体に戻れば、なにもかも思い出せるので、焦る必要はありません」
ラバー・ストリート(労働者階級の長屋が建ち並んだ通り)までやってきたあたりで、パトリシアは路地の出口から顔を出した。通りの人波が途切れたのを見て、ガス灯やゴミ袋のかげに隠れながら、反対側の路地に飛びこむ。
揺れる金髪を追って、俺も路地に飛びこんだ。
新しい路地を抜けた先は、さらに小さな通りになっていた。アパートメントの裏側と用水路に挟まれた、ひどく狭い道だ。途中、用水路をまたぐように架けられた橋を渡ると、地面がむき出しになった小道に至る。道の先は緩やかな上り坂になっていて、芝生の丘の頂上まで続いていた。
パトリシアに続いて、坂道をのぼる。
「さて、魂の抜けた本体は、ありていにいえば死んでいます。仮死状態という方が正しいかもしれません。心臓は止まり、呼吸もしていない。そんな状態が続けば、当然、生身の肉体は腐る一方です。——他人からすれば、ただの死体です。死体が見つかれば、たいていなら親族によって埋葬されます。それ以外の場合、(身元不明や警察医の検死前など)、何かしら事情があれば、遺体安置所で保管されます」
丘の頂上にたどり着く。
のっぺりとした灰色の空の下、芝生の丘一面に、白い墓石が並んでいた。寒々しい景色のなか、ひとつ、春風が吹いた。ブリキの体に温度は感じない。ただ風が吹いたという事実だけが、俺の全身を震わせた。
パトリシアは揺れる金髪を押さえた。
「仮死状態の本体が正常でいられるのは、二、三週間が限界です。いくら魂が人形に入っているといっても、本来の受け皿である肉体が腐敗すれば、その魂も消えてしまいます」
「……つまり」
俺はひとつ、唾を呑んだ。
「本体が腐る前に、墓場なり遺体安置所なりから、それを見つけ出せってことだな」
「ご理解いただけたようで、何よりです」
そういって、パトリシアは墓石の間を歩き出した。
それから、俺は墓石の名前を当たっていった。
どの墓石にも、埋葬された人の名前と年齢、死んだ月日が彫ってある。その中に「フィンリー・ハンバー」の名前があれば、そこに俺の本体が埋まっているはずだ。それさえ見つかれば、ブリキの体ともおさらばできる。
それにしても、墓石の数が多い。今日中にすべてを当たるのは無理だろう。
俺は墓石から顔を上げて、街の方に振り向いた。
灰色の空の下に、ピジョン・シティの街並みが広がっている。東に目を向ければ、乱立する工場群と、わずかな霧にかすむ港が見えた。西の方を見れば、階級ごとに区分けされた生活区と、そこに経ち並ぶ赤煉瓦の家々が見渡せた。街の中央には大きな鉄道駅があり、そこから伸びるいくつものレールも見つかった。
ピジョン・シティは、首都 《ワルツン》や港湾都市 《リヴァグラード》よりもずっと小さい。とはいえ、田舎の町とは比べ物にならないほど大きく、大都市と形容してしかるべきだ。
こんな大きな街の中、俺の本体を見つけ出すなんて、できるのだろうか。
ふいにやってきた不安をまぎらわさせようと、俺はパトリシアに声をかけた。
「俺の本体を見つけたとして、どうやってそれに魂を戻すんだ?」
返事がない。振り向くと、パトリシアは金髪を揺らしながら、墓石をひとつひとつ回っていた。俺の声が聞こえなかったわけがない。徹底して嫌われているらしい。レナに指示されなければ、俺に手を貸すことはなかったはずだ。
……まあ、本体が見つかるなら、嫌われようとなんだろうと、どうだっていい。
どうせ、人間に戻るまでの付き合いなんだ。
俺も黙って、墓石巡りを再開した。