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ドールズ・ミッション  作者: 神田 伊都
第1章 不審死の真相、うさぎの事情
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 パトリシアについてやって来たのは、ピジョン・シティの住宅地だった。


 ピジョン・シティの住宅地は、いくつかの区画に分かれている。

 階級ごとに、ある程度住む地区が決まっているのだ。

 街の中央を走るオウル川(旧運河とも呼ばれている)の南側に、上流階級と中流階級の人間が住んでいる。オウル川の北側に中下流階級の家屋があり、さらに北東に進むと労働者階級の家々がある。ブリキ人形になった俺が目を覚ましたのは、中下流階級の住宅地にある路地だった。


 俺の記憶は、ピジョン・シティに来たあたりで途切れている。ただ、ピジョン・シティのすべてを忘れているわけではなさそうだ。例えば、街がどういう形をしていて、どこに何があるのか……大まかにだが、そういった情報は覚えていた。


 パトリシアの後について、路地を転々とする。


 やがてたどり着いたのは、パーク・ストリートB12番地、その通りに面した、赤煉瓦づくりの住居だった。三階建ての、縦に長い外観をしている。

 通りから人気が途絶えたのを見計らって、パトリシアは路地を出た。玄関前の段差を、見た目に似合わぬ身軽さで、ぴょんぴょんと上っていく。それから、玄関扉の下側にある、人形サイズの扉をノックした。


「ただいま帰りました」


 俺は段差を這うようにして、パトリシアを追った。木目の不揃いな廊下にはいくつかの扉と、二階に続く階段がある。パトリシアは迷わず、廊下の奥にある、扉の開いている部屋に向かった。


 広いリビング。灰色の絨毯が敷かれており、オーク調の本棚や、銀食器を並べた食器棚がある。壁の隅にはこじんまりとした暖炉も見つかった。部屋の中央には柔らかそうなソファがふたつ置かれ、それらに挟まれるようにして、木製のローテーブルがあった。よく見れば、テーブルの縁には動物を象ったような穴があいていた。


 調度品のひとつひとつは高価に違いない。しかし、部屋の様子は雑多というほかなかった。床一面に雑誌や新聞が散らばって、足の踏み場もない。人間の姿であれば、この部屋はかなり狭く感じたはずだ。家主の身分が高いのか低いのか、よくわからなかった。


 そんな雑多なリビングのソファに、水兵セーラー服を着た少女が座っていた。

 色白の丸い顔には、小さな鼻と、物憂げな黒い瞳がある。それらを覆うブラウンの髪は、肩にかかるほどの長さで、毛先がふんわりと巻いてあった。二十歳は超えていないだろうが、ロースクール通いというほど幼くは見えない。十代半ば、といったところだろうか。 

 少女はソファにもたれて、タブロイド紙を広げていた。

 パトリシアは雑誌の山に足をかけ、子犬か子猫が飛び跳ねるみたいに、ぴょんぴょんとローテーブルにのぼった。葡萄酒の瓶を抱えていたくらいだ。身体能力は高いらしい。

「レナさん、申し訳ありません」

「どうしたの?」

 レナと呼ばれた少女は、息を吐くような小さな声で聞き返した。

 パトリシアが答える。

「ダニー警部からいただいた葡萄酒をダメにしてしまいました」

「葡萄酒? 誕生日はまだだけど」

「先日の依頼主を覚えていますか。ダニー警部の紹介でいらした、あの方」

「ああ……」

 レナは思い出したようにうなって、

「木彫りの犬に入っていた男の人?」

「ええ。レナさんがせっかく人間に戻したのに、謝礼はしないとか、女のくせにとか、散々なことを言っていた、あの男性です。彼に代わって、ダニー警部が頭を下げてくださいました。それと一緒に、シティ警察の地下にあった五十年ものを渡してくださったのですが……その帰りに、中身をこぼしてしまって」

「そう、残念」

 レナはタブロイド紙に目を落としたまま、小首をかしげた。

「でも、葡萄酒の瓶にはコルクがはまっているはずでしょ。それをこぼすってどういうこと?」

「はい。貴重な葡萄酒は、やむを得ず、こちらの方を助けるのに使いました」


 そこでやっと、レナは顔を上げた。視線を床に這わせて、ローテーブルの側に立つ俺を見つける。

 すると彼女は、不機嫌そうに目を細めて、タブロイド紙に視線を戻した。

「いまは依頼を受ける気分じゃない。元の場所に戻してきて」

「かしこまりました」


 パトリシアはローテーブルから飛び降りて、俺の体を軽々と担ぎ上げた。


「おい、こら、下ろせ!」

「残念ですが、あなたに手を貸す理由がなくなりました。今回はご縁がなかったということで、出直してください」

「おまえが連れてきたんだろ!」

「レディに向かっておまえだなんて。教養以前に、人としての礼儀がなっておりません。スクールに通いなおして、頭の中身を取り換えてください。……ああ、いまのあなたの頭には取り換えるべき脳みそがありませんでしたね。失礼なことをいって申し訳ありません」


 そう言う間にも、パトリシアは廊下の方へと足を進めていた。


「待てって! 助けてくれるんじゃないのか⁉」

「案内するとは言いましたが、助けるとはいっていません。いいから、さあ、もう出ますよ。レナさんがダメといえば、ダメなのです」


 取りつく島もない。

 あの路地に戻されたら、野良猫か悪ガキのおもちゃになる未来しかない。人間の体に戻れないまま、こんな錆びたブリキ人形で一生を終えることになってしまう。


 これ以上の機会に恵まれることなんて、金輪際ないかもしれない。俺と似たような人形がいる。それに、あのレナとか呼ばれた少女は、この状況をどうにかできるらしいのだ。俺が助かるのは、いましかない。


 俺は精いっぱいもがき、なんとかパトリシアの腕から逃れ、急いで雑誌の山をのぼった。ローテーブルからレナを見上げる。レナはタブロイド紙に目を落としたまま、こちらに見向きもしない。構わず、俺はブリキの頭を下げた。


「頼む、助けてくれ! 路地裏で、気づいたら、こんな体になっていたんだ」

 知らず、息があがった。

「自分の名前と生まれ故郷以外、ほとんど記憶がない。こんなわけのわからない状況のまま死ぬのだけはごめんだ。あんた以外、頼る当てがないんだ!」


 小さく頭を上げる。見えるのはタブロイド紙の一面。相次ぐ不審事件に触れつつ、貴族や市議会制度への不満を連ねた三流記事。俺は、その向こうにある、レナの目を見ようとつとめた。


「あんた、何か知ってるんだろう? 何でもいい、教えてくれ! 俺は、人間の体に戻りたいんだ!」


 必死の叫びが、雑多なリビングに響く。

 そのあと、虚しい沈黙が、静かにリビングを満たしていった。

 ぐいっと、パトリシアに肩を引っ張られる。

「しつこいですよ。いい加減にあきらめなさい」

「あきらめられるか! 俺の人生がかかってるんだぞ!」

 途端に、パトリシアの視線が冷めた。

「人生。なるほど、人生ですか。大きく出ましたね。あなたのように、自分の人生をことさら大きく考えている男性が、わたくしは大嫌いなんです」

 パトリシアが再び俺の体を担ぎ上げた。抵抗する間もなく、彼女はローテーブルを飛び降りて、真っすぐリビングを出ていった。

 たまらず叫んだ。


「いやだ! 助けてくれ! こんな……こんな人生で、終わりたくねえ!」


 その声は、やはり、虚しく空気を揺らしただけだった。俺の声はタブロイド紙でさえぎられ、ソファに座る少女のもとには届かなかったようだ。為す術もないまま、薄暗い廊下に連れ出される。あまりの虚しさに顔も上げられない。傷口に塩水が染みるように、胸の奥がじんと痛んだ。ブリキの瞳じゃあ、涙ひとつ流せなかった。

 ついに、パトリシアが人形用の玄関扉に手をかけた。


「——名前」


 リビングの方から、小さな声が響いて聞こえた。

 誰に向けた言葉だ——考えるまでもない——俺は叫んだ。

「フィン! フィンリー・ハンバー!」

 それから、何度か息を継ぐほどの間があいて、

「……パティ、気が変わった。その人の本体捜しに付き合ってあげて。いまからじゃあ、墓地に行くのが精いっぱいだと思うけど」

「レナさん⁉」

 パトリシアは俺を担いだままリビングに舞い戻った。

「こんな人間の依頼なんて、受ける必要ありません! 依頼を受けて、傷つくのはレナさんです。それは、レナさんが一番ご存じのはずでしょう!」

「それでも、」

 レナはタブロイド紙を畳んで、ローテーブルに置いた。


「それが、わたしの役目だから」


 パトリシアは続く言葉を探すように、口をぱくぱくと動かして、それから、深く息をついた。

「レナさんは、ほんとうに優しいですね」

 優しすぎます、と。

 パトリシアは、やっと、俺を床に下ろしてくれた。


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