表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ドールズ・ミッション  作者: 神田 伊都
第1章 不審死の真相、うさぎの事情
3/81

 どれくらいうずくまっていただろう。


 とにかく、誰かを見つけようと思った。このまま独りでいたら気が狂いそうだ。もしかしたら、もう狂ったあとかもしれないけど。……ひとまず、大通りに出るか。こんな路地じゃあ誰にも会えない。俺はブリキの体を起こし、歩き出した。

 赤煉瓦の壁に挟まれた路地は、やたらと広く見えた。視野が人間より低いせいだろう。

(迷路にでも迷いこんだみたいだ……)なんて、人間の体だったら、そんなこと、考えもしなかったはずだ。


 路地は薄暗く、外の光がほとんど届かない。そんな路地にいるのに、俺の視界はやけに晴れていた。地面はところどころひび割れていたし、風で飛ばされたゴミや何かも転がっていた。しかし、夜行性のような目のおかげで、それらにつまずくことはなかった。


 三十分、もしかしたらそれ以上歩いたかもしれない。


 どれだけ歩いても疲れない体に疑問を感じ始めたころ、ようやく路地の切れ目が見えてきた。放置されたゴミ袋のかげに身を隠し、俺はそっと、通りをのぞいた。

 砂利敷きの大通りには、たくさんのひとが行き交っていた。

 縁の広い帽子をした女性。

 群青色のヘルメットをかぶる警察官。

 貴族が来るのにあわせて道路掃除に飛び出す少年。

 辻馬車を呼び止める燕尾服の老紳士。


 通りを行く誰もが、俺よりはるかに高い位置で話していた。

 俺が初めて街に出てきたときと同じ景色が、人形の目にも映っている。 

 大通りを挟む赤煉瓦の家々。

 土地柄の気候と、工場群の煙のせいで、灰色に煙る空。

 間違いない。

 ここは、ピジョン・シティだ。


(……さて)


 こうして大通りに来たわけだけど、これからどうしよう。自分の体に問題があったり、わけのわからないことになっているなら、専門家に相談するのが一番だ。病気ならドクター・スノウ。紡績ならジェームズ。蒸気機関ならワットだ。


 じゃあ、「ブリキ人形になった」なんて、誰に相談すればいい?

 おもちゃ職人か? 錆び取りくらいならしてくれるだろうけど、いまの状況をどうにかしてくれるとは思えない。


 そもそも、ブリキ人形のまま人前に出たくなかった。見つかれば絶対に大騒ぎになる。好奇心旺盛なやつに捕まって、どこぞの記者に売られるのがオチだ。でも、だからといって、路地に隠れ続けるわけにもいかないし……


 そう思いつつ大通りを眺めていると、スクール帰りの男子連中が通りかかった。連中は品のない笑い声を上げながら、各々が買った食べ物を口にしている。彼らのうち、先頭のやつが、「すっぺえ!」と叫んで、食べかけのリンゴを投げ捨てた。


 放られたリンゴが目の前に転がってくる。

 食べかけの歯形がついている。

 何年もかけて実り、人手を要して狩られたはずのリンゴには、路上を転がったせいで、赤い表面には、無惨にも、黒々とした汚れがついていた。

 ……見つかったらどうしよう、なんて思いは、いまの暴挙でたちまち消えた。

 俺はブリキの拳をにぎりしめ、男子連中を叱りつけようと、踏み出した。

「おい、ちょっと待てクソガ、キ……」

 とつぜん、路地の出口に、大きな壁が現れた。勢いあまって、顔面をぶつけてしまう。もふっと、予想外の柔らかさに跳ね返され、思わずよろめいた。なんだコレ?

 不思議に思って顔をあげる。


 ——化け物がいた。


 そいつは全身をこげ茶色の体毛で覆っていた。丸い頭には二つの耳がついている。細い両目は吊り上がり、どう猛な光を宿している。——野良猫だ。俺より何倍も大きな図体をした野良猫が、目の前に立ちはだかった。胴も四肢もやせていて、俊敏そうで、十中八九飢えている。


 野良猫はリンゴに前脚をかけ、何度か転がして遊び……次の瞬間、がばっと口をあけ、赤い表面にかぶりついた。口元にも地面にも果汁が飛び散っている。そんなことお構いなしに、野良猫はリンゴを砕き続けた。


 怪獣も同然の姿に、言葉を失う。あんなのに襲われたらひとたまりもない。幸い、野良猫はいま、リンゴに夢中になっている。いまのうちに逃げて……


 ——くしゃ


 ……足元で、ばかみたいに軽い音が鳴った。おそるおそる視線を下げる。さっきまで隠れていたゴミ袋を踏んでいた。


 顔を上げる。


 野良猫はリンゴから口を離し、じっと、俺のほうを見つめていた。呆けたように開いた口からは、果汁のような、よだれのような粘液を垂らしている。

 逆光が路地をかげらせる。

 野良猫の両目が、きらりと光る。

 俺は静かに、ゴミ袋から足を離した。


「なあ、おい……落ち着けって」


 にゃー。


「いやだって? 冗談きついぜ。いまの俺を食っても、鉄の味しかしないぞ?」


 野良猫が一歩前に出る。俺は一歩後ろに下がる。野良猫がさらに前に出る。俺もさらに後ろに下がる。ぴたっと、野良猫が立ち止まる。続いて俺も立ち止ま——


 いや、俺は止まるなっ!


 野良猫が尻尾を逆立て、跳ぶように駆け出した。

 つかみかかろうと伸びてくる前脚をかわし、俺は路地に切り返す。体が小さいのを利用して、ゴミ袋のかげに飛びこんだり、落ちている鉄くずを転がしたりして、なんとか逃げる時間を稼ごうとする。


 しかし、化け物じみた野良猫の前に、転がしたそれらはアスレチック程度の役割しかなさなかった。あっという間に追いつかれ、背後からタックルをかまされた。

 ブリキの体が軽い音を立てて転がる。

 痛みはない。

 疲れもない。

 転がった勢いで起き上がり、俺はまた走り出した。


 野良猫の知能なんてものは、赤ん坊と大差ない。

 ——実家の愛犬・ジョンを思い出した。拾われて間もない頃、ジョンは遊び相手がいないとき、決まって自分の尻尾を追いかけ回していた。


 本能に忠実なうちは、ちょろちょろ動くものを追いかける。腹のふくれた野良猫ならなおさらだ。叫びながら逃げ回るブリキ人形なんて、最高の獲物おもちゃだろう。


 また死角から攻撃されてはたまらない。

 やられる前に避けようと、俺は肩越しに振り向いた。

 なんと、野良猫は走るのをやめ、ゆったりとした歩調で歩いていた。


(あきらめたのか?)


 と思った途端に、ごちんっ、と硬い壁に頭をぶつけた。尻もちをついて見上げる。赤煉瓦の壁が、はるか頭上まで伸びていた。

 ——行き止まりだった。


 野良猫が勝ち誇った様子で近づいてくる。

 赤煉瓦の壁を背にして、俺は腰を抜かした。ネズミたちはきっと、いつもこんな気分を味わっていたに違いない。もし次にネズミを見かけたら、優しくしてやろう。次なんてものがあればいいけど。


 野良猫が大きく地面を蹴り、またたくまに眼前に鋭い前脚が伸びてくる。

 俺はとっさに目を閉じた。


 ——そのとき、


 突然、全身に水がぶちまけられた。温度もにおいもないが、何かが体に当たる感覚はある。その感覚に、俺は目を見開いた。


 猫の背後に、一体の金髪人形ビスクドールが立っていた。目を惹くほどの金髪の下には、色白の顔と淡いブルーの瞳がある。白いフリルのドレスからは、なめらかな手足が伸びている。そいつは白い手袋をした両腕で、大きな瓶を抱えていた。


 金髪人形は大きく一歩踏みこんで、野良猫めがけて、大きな瓶を振り回した。

 瓶から飛び出した赤黒い液体が、野良猫の全身にぶちまけられる。


 野良猫は甲高い悲鳴を上げ、金髪人形の脇を走り抜けた。細い肢体が路地の暗がりに溶けていき、やがて、その足音も消えていった。


 ……助かった、のか?


 金髪人形が空になった瓶を転がした。

「プレゼントを台なしにしてしまいました。貴重な葡萄酒でしたのに」

 ため息交じりにそういって、そいつは俺の前に歩み出た。

 紅色の靴をきれいにそろえ、ドレスの裾を持ちあげる。

 そして、優雅におじぎをしてみせた。

「ごきげんよう」と。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ