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どれくらいうずくまっていただろう。
とにかく、誰かを見つけようと思った。このまま独りでいたら気が狂いそうだ。もしかしたら、もう狂ったあとかもしれないけど。……ひとまず、大通りに出るか。こんな路地じゃあ誰にも会えない。俺はブリキの体を起こし、歩き出した。
赤煉瓦の壁に挟まれた路地は、やたらと広く見えた。視野が人間より低いせいだろう。
(迷路にでも迷いこんだみたいだ……)なんて、人間の体だったら、そんなこと、考えもしなかったはずだ。
路地は薄暗く、外の光がほとんど届かない。そんな路地にいるのに、俺の視界はやけに晴れていた。地面はところどころひび割れていたし、風で飛ばされたゴミや何かも転がっていた。しかし、夜行性のような目のおかげで、それらにつまずくことはなかった。
三十分、もしかしたらそれ以上歩いたかもしれない。
どれだけ歩いても疲れない体に疑問を感じ始めたころ、ようやく路地の切れ目が見えてきた。放置されたゴミ袋のかげに身を隠し、俺はそっと、通りをのぞいた。
砂利敷きの大通りには、たくさんのひとが行き交っていた。
縁の広い帽子をした女性。
群青色のヘルメットをかぶる警察官。
貴族が来るのにあわせて道路掃除に飛び出す少年。
辻馬車を呼び止める燕尾服の老紳士。
通りを行く誰もが、俺よりはるかに高い位置で話していた。
俺が初めて街に出てきたときと同じ景色が、人形の目にも映っている。
大通りを挟む赤煉瓦の家々。
土地柄の気候と、工場群の煙のせいで、灰色に煙る空。
間違いない。
ここは、ピジョン・シティだ。
(……さて)
こうして大通りに来たわけだけど、これからどうしよう。自分の体に問題があったり、わけのわからないことになっているなら、専門家に相談するのが一番だ。病気ならドクター・スノウ。紡績ならジェームズ。蒸気機関ならワットだ。
じゃあ、「ブリキ人形になった」なんて、誰に相談すればいい?
おもちゃ職人か? 錆び取りくらいならしてくれるだろうけど、いまの状況をどうにかしてくれるとは思えない。
そもそも、ブリキ人形のまま人前に出たくなかった。見つかれば絶対に大騒ぎになる。好奇心旺盛なやつに捕まって、どこぞの記者に売られるのがオチだ。でも、だからといって、路地に隠れ続けるわけにもいかないし……
そう思いつつ大通りを眺めていると、スクール帰りの男子連中が通りかかった。連中は品のない笑い声を上げながら、各々が買った食べ物を口にしている。彼らのうち、先頭のやつが、「すっぺえ!」と叫んで、食べかけのリンゴを投げ捨てた。
放られたリンゴが目の前に転がってくる。
食べかけの歯形がついている。
何年もかけて実り、人手を要して狩られたはずのリンゴには、路上を転がったせいで、赤い表面には、無惨にも、黒々とした汚れがついていた。
……見つかったらどうしよう、なんて思いは、いまの暴挙でたちまち消えた。
俺はブリキの拳をにぎりしめ、男子連中を叱りつけようと、踏み出した。
「おい、ちょっと待てクソガ、キ……」
とつぜん、路地の出口に、大きな壁が現れた。勢いあまって、顔面をぶつけてしまう。もふっと、予想外の柔らかさに跳ね返され、思わずよろめいた。なんだコレ?
不思議に思って顔をあげる。
——化け物がいた。
そいつは全身をこげ茶色の体毛で覆っていた。丸い頭には二つの耳がついている。細い両目は吊り上がり、どう猛な光を宿している。——野良猫だ。俺より何倍も大きな図体をした野良猫が、目の前に立ちはだかった。胴も四肢もやせていて、俊敏そうで、十中八九飢えている。
野良猫はリンゴに前脚をかけ、何度か転がして遊び……次の瞬間、がばっと口をあけ、赤い表面にかぶりついた。口元にも地面にも果汁が飛び散っている。そんなことお構いなしに、野良猫はリンゴを砕き続けた。
怪獣も同然の姿に、言葉を失う。あんなのに襲われたらひとたまりもない。幸い、野良猫はいま、リンゴに夢中になっている。いまのうちに逃げて……
——くしゃ
……足元で、ばかみたいに軽い音が鳴った。おそるおそる視線を下げる。さっきまで隠れていたゴミ袋を踏んでいた。
顔を上げる。
野良猫はリンゴから口を離し、じっと、俺のほうを見つめていた。呆けたように開いた口からは、果汁のような、よだれのような粘液を垂らしている。
逆光が路地をかげらせる。
野良猫の両目が、きらりと光る。
俺は静かに、ゴミ袋から足を離した。
「なあ、おい……落ち着けって」
にゃー。
「いやだって? 冗談きついぜ。いまの俺を食っても、鉄の味しかしないぞ?」
野良猫が一歩前に出る。俺は一歩後ろに下がる。野良猫がさらに前に出る。俺もさらに後ろに下がる。ぴたっと、野良猫が立ち止まる。続いて俺も立ち止ま——
いや、俺は止まるなっ!
野良猫が尻尾を逆立て、跳ぶように駆け出した。
つかみかかろうと伸びてくる前脚をかわし、俺は路地に切り返す。体が小さいのを利用して、ゴミ袋のかげに飛びこんだり、落ちている鉄くずを転がしたりして、なんとか逃げる時間を稼ごうとする。
しかし、化け物じみた野良猫の前に、転がしたそれらはアスレチック程度の役割しかなさなかった。あっという間に追いつかれ、背後からタックルをかまされた。
ブリキの体が軽い音を立てて転がる。
痛みはない。
疲れもない。
転がった勢いで起き上がり、俺はまた走り出した。
野良猫の知能なんてものは、赤ん坊と大差ない。
——実家の愛犬・ジョンを思い出した。拾われて間もない頃、ジョンは遊び相手がいないとき、決まって自分の尻尾を追いかけ回していた。
本能に忠実なうちは、ちょろちょろ動くものを追いかける。腹のふくれた野良猫ならなおさらだ。叫びながら逃げ回るブリキ人形なんて、最高の獲物だろう。
また死角から攻撃されてはたまらない。
やられる前に避けようと、俺は肩越しに振り向いた。
なんと、野良猫は走るのをやめ、ゆったりとした歩調で歩いていた。
(あきらめたのか?)
と思った途端に、ごちんっ、と硬い壁に頭をぶつけた。尻もちをついて見上げる。赤煉瓦の壁が、はるか頭上まで伸びていた。
——行き止まりだった。
野良猫が勝ち誇った様子で近づいてくる。
赤煉瓦の壁を背にして、俺は腰を抜かした。ネズミたちはきっと、いつもこんな気分を味わっていたに違いない。もし次にネズミを見かけたら、優しくしてやろう。次なんてものがあればいいけど。
野良猫が大きく地面を蹴り、またたくまに眼前に鋭い前脚が伸びてくる。
俺はとっさに目を閉じた。
——そのとき、
突然、全身に水がぶちまけられた。温度もにおいもないが、何かが体に当たる感覚はある。その感覚に、俺は目を見開いた。
猫の背後に、一体の金髪人形が立っていた。目を惹くほどの金髪の下には、色白の顔と淡いブルーの瞳がある。白いフリルのドレスからは、なめらかな手足が伸びている。そいつは白い手袋をした両腕で、大きな瓶を抱えていた。
金髪人形は大きく一歩踏みこんで、野良猫めがけて、大きな瓶を振り回した。
瓶から飛び出した赤黒い液体が、野良猫の全身にぶちまけられる。
野良猫は甲高い悲鳴を上げ、金髪人形の脇を走り抜けた。細い肢体が路地の暗がりに溶けていき、やがて、その足音も消えていった。
……助かった、のか?
金髪人形が空になった瓶を転がした。
「プレゼントを台なしにしてしまいました。貴重な葡萄酒でしたのに」
ため息交じりにそういって、そいつは俺の前に歩み出た。
紅色の靴をきれいにそろえ、ドレスの裾を持ちあげる。
そして、優雅におじぎをしてみせた。
「ごきげんよう」と。




