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ドールズ・ミッション  作者: 神田 伊都
第1章 不審死の真相、うさぎの事情
20/81

19

 病院の二階から四階が、入院用の病室群になっていた。

 二階から三階にかけては人の気配が満ちていた。

「腹が痛い」

「薬をくれ」

「はいはい、あとでね」

 と、口々にうめく患者たちを、夜勤の看護婦がいなしている。

 鼻が利いたなら、あたり一面に、消毒液やシーツのにおいが漂っていただろう。


 しかし、四階に上がった途端、雰囲気が一変した。

 人の気配がしない。

 オイル・ランプの数も、他の階と違って、極端に少なかった。

 薄暗い廊下を、レナは左に折れた。

 俺はバッグから小さく顔をのぞかせた。人間より夜目が利くから、通り過ぎる病室のひとつが目に映る。ベッドが四つ置かれ、シーツが敷かれている。ベッドのほとんどは空っぽだった。

 しかし、うちひとつに、誰かが横たえられていた。ここからでは、男か女かもわからない。ただ、そのひとの顔には真白な布がかけられていた。その側で、ふたりの老夫婦が、声もなく涙を流していた。

 この四階は、きっと、そういうところなのだ。人の気配も、消毒液のかおりも、ガス灯の明かりも——すべて、色濃い死のせいで霞んでいる。


 レナの足が止まる。

 四階の廊下のつきあたり。

 入り口の側にあるプレートに『10号室』と書いてある。

 レナは静かに扉を開けた。

 埋まっているベッドはひとつだけだった。ベッドの側にはイスがあり、男性がひとり、座っていた。座ったまま上半身を折って、ベッドに倒れこんでいる。

 そんなベッドの上には、ひとりの女の子が横たわっていた。それなりに上等そうな服を着ているが、あちこちが薄く汚れている。小さな両手は胸の前で組まれ、顔には白い布がかけてあった。

 レナは、眠っている男性の対面——ベッドを挟んだ反対側に立った。

「リリア」

 うさぎのぬいぐるみに語りかける。

「いま目の前にあるのが、あなたが受け止めるべき真実よ」

 レナの手のなかで、リリアは静かに息をのんだ。

 俺とパトリシアは、鞄の縁から顔を出して、ベッドに倒れこむ男性……リリアのお父さんを見つめた。彼は、横たわる娘にしがみつくようにして眠っていた。眉根は苦しそうにゆがみ、眠っていてなお、涙を流していた。

 レナが言った。

「あなたが家出した後、お父さんはすぐにあなたを探しに出たんだと思う。そして、路地で横たわるあなたを見つけた。心臓は動いていない。息もしていない。どんなに呼びかけても目を覚まさない。……肝を冷やしたでしょうね。側にあったうさぎのぬいぐるみに、愛娘の魂が入っているなんて、想像もしなかったでしょう」

 そしてリリアのお父さんは、娘を抱えて、この病院に飛びこんだ。

 ぬいぐるみになったリリアが目を覚ましたとき、側に自分の体がなかったのは、すでに父親が病院に運んだ後だったからだ。

「それに、」レナはすんすんと鼻を鳴らした。「香水のかおりがする。さっきまで女の人がいたんでしょう。C102番地の前を通ったとき、家に明かりが点いたけど」

 リリアが継いだ。

「キャサリン……」

「たぶんね。あなたのことが心配だったのか、お父さんの側にいただけなのか、それはわからない。でも、なんの関心もなく、他人の子どもの側にいたわけじゃないと思う」

「じゃあ、どうして」

 リリアは問い詰めるようにレナを見上げた。

「どうしてキャサリンは、わたしにアランの面倒を見るように言ったの? まるでわたしのことを遠ざけるみたいに、アランを預けてきて……」

「……わたくし、楽観的なことは、あまり言いたくないのですが、」

 パトリシアが言う。

「キャサリンさんなりに、あなたのことを気にかけていたのではないでしょうか。同じ家に住んでいるとはいえ、大事な赤ん坊を他人の連れ子に預けるなんて、恐ろしいとは思いませんか? 何をされるか、わかったものではありませんから。……それでも、キャサリンさんはあなたに赤ん坊を預けた。それはもしかしたら、期待もあったのだと思います。赤ん坊を通して、リリアさんが、キャサリンさんのことを、認めてくれることを」

 リリアがのどを震わせる。

 パトリシアは羨むように目を細めて、眠る男性を見つめた。

「リリアさん。あなた、ほんとうに愛されていますのね」

 リリアは何度もうなずいた。

 しゃっくりが混じっても、声が震えても。

 何度も、何度もうなずいた。

 うさぎのぬいぐるみは、涙なく、泣き続けた。


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