19
病院の二階から四階が、入院用の病室群になっていた。
二階から三階にかけては人の気配が満ちていた。
「腹が痛い」
「薬をくれ」
「はいはい、あとでね」
と、口々にうめく患者たちを、夜勤の看護婦がいなしている。
鼻が利いたなら、あたり一面に、消毒液やシーツのにおいが漂っていただろう。
しかし、四階に上がった途端、雰囲気が一変した。
人の気配がしない。
オイル・ランプの数も、他の階と違って、極端に少なかった。
薄暗い廊下を、レナは左に折れた。
俺はバッグから小さく顔をのぞかせた。人間より夜目が利くから、通り過ぎる病室のひとつが目に映る。ベッドが四つ置かれ、シーツが敷かれている。ベッドのほとんどは空っぽだった。
しかし、うちひとつに、誰かが横たえられていた。ここからでは、男か女かもわからない。ただ、そのひとの顔には真白な布がかけられていた。その側で、ふたりの老夫婦が、声もなく涙を流していた。
この四階は、きっと、そういうところなのだ。人の気配も、消毒液のかおりも、ガス灯の明かりも——すべて、色濃い死のせいで霞んでいる。
レナの足が止まる。
四階の廊下のつきあたり。
入り口の側にあるプレートに『10号室』と書いてある。
レナは静かに扉を開けた。
埋まっているベッドはひとつだけだった。ベッドの側にはイスがあり、男性がひとり、座っていた。座ったまま上半身を折って、ベッドに倒れこんでいる。
そんなベッドの上には、ひとりの女の子が横たわっていた。それなりに上等そうな服を着ているが、あちこちが薄く汚れている。小さな両手は胸の前で組まれ、顔には白い布がかけてあった。
レナは、眠っている男性の対面——ベッドを挟んだ反対側に立った。
「リリア」
うさぎのぬいぐるみに語りかける。
「いま目の前にあるのが、あなたが受け止めるべき真実よ」
レナの手のなかで、リリアは静かに息をのんだ。
俺とパトリシアは、鞄の縁から顔を出して、ベッドに倒れこむ男性……リリアのお父さんを見つめた。彼は、横たわる娘にしがみつくようにして眠っていた。眉根は苦しそうにゆがみ、眠っていてなお、涙を流していた。
レナが言った。
「あなたが家出した後、お父さんはすぐにあなたを探しに出たんだと思う。そして、路地で横たわるあなたを見つけた。心臓は動いていない。息もしていない。どんなに呼びかけても目を覚まさない。……肝を冷やしたでしょうね。側にあったうさぎのぬいぐるみに、愛娘の魂が入っているなんて、想像もしなかったでしょう」
そしてリリアのお父さんは、娘を抱えて、この病院に飛びこんだ。
ぬいぐるみになったリリアが目を覚ましたとき、側に自分の体がなかったのは、すでに父親が病院に運んだ後だったからだ。
「それに、」レナはすんすんと鼻を鳴らした。「香水のかおりがする。さっきまで女の人がいたんでしょう。C102番地の前を通ったとき、家に明かりが点いたけど」
リリアが継いだ。
「キャサリン……」
「たぶんね。あなたのことが心配だったのか、お父さんの側にいただけなのか、それはわからない。でも、なんの関心もなく、他人の子どもの側にいたわけじゃないと思う」
「じゃあ、どうして」
リリアは問い詰めるようにレナを見上げた。
「どうしてキャサリンは、わたしにアランの面倒を見るように言ったの? まるでわたしのことを遠ざけるみたいに、アランを預けてきて……」
「……わたくし、楽観的なことは、あまり言いたくないのですが、」
パトリシアが言う。
「キャサリンさんなりに、あなたのことを気にかけていたのではないでしょうか。同じ家に住んでいるとはいえ、大事な赤ん坊を他人の連れ子に預けるなんて、恐ろしいとは思いませんか? 何をされるか、わかったものではありませんから。……それでも、キャサリンさんはあなたに赤ん坊を預けた。それはもしかしたら、期待もあったのだと思います。赤ん坊を通して、リリアさんが、キャサリンさんのことを、認めてくれることを」
リリアがのどを震わせる。
パトリシアは羨むように目を細めて、眠る男性を見つめた。
「リリアさん。あなた、ほんとうに愛されていますのね」
リリアは何度もうなずいた。
しゃっくりが混じっても、声が震えても。
何度も、何度もうなずいた。
うさぎのぬいぐるみは、涙なく、泣き続けた。




