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暗い路地で目を覚ましたら、俺はブリキ人形になっていた。
雑貨屋にひとつは置いてあるような、ありきたりな見た目のブリキ人形だ。縁の黒い丸帽をかぶり、濃紺のベストを羽織り、黒のスラックスをはいている。体じゅう傷だらけで、傷口からは中身の鉄板がのぞいている。長く空気にさらされたみたいに、どの傷口も赤黒く錆びている。使い古され捨てられたような、そんな格好をしていた。
(なんだよ、これ。何が起こってるんだ)
人間がブリキ人形になるなんて、そんなことあるか? ……夢だよな、これ。というか、夢じゃなきゃおかしいよな。そうだ、きっとそうだ。適当に頬でもつねれば、こんな気味の悪い夢も覚めるはず……
頬をつねろうと、小さな腕を曲げる。
錆びた指先が触れたのは、かちこちの頬だった。擦り切れた金属をなでるようなざらついた感じがある。つねれない。だから今度は、思いきり頬を殴ってみた。——こちんっ、と軽い音が鳴った。触れた感じはあるのに、これっぽっちも痛みがなかった……
「どうなってんだ、おい」
つーっと、背筋に汗が伝う気がした。しかし、それは「そんな気がした」というだけで、実際に汗が流れたわけではない。金属の体に汗が流れるはずもなかった。
あわてて記憶をさかのぼる。しかし、こうなる前のことを、まったくといっていいほど思い出せなかった。まさか、記憶喪失? ブリキ人形なうえ、記憶まで失くしているとか、絶望的すぎるだろう。
……いや待て、落ち着け。なにも記憶喪失と決まったわけじゃない。おかしな状況に置かれて、パニックになっているだけだ。ゆっくり、落ち着いて、自分のことを思い返せばいい。そうしているうちに、何があったか思い出せるはずだ。
大きく息をつく。
……よし、ひとつひとつ、思い返してみよう。
俺はフィン。フィンリー・ハンバー。
瑛国北部、《スコップラップ地方》の片田舎の生まれで、大家族の長男だ。祖父母、両親、兄貴、妹二人に、弟二人。それからペットのジョン。それが俺の家族だ。
俺の家族は古くから農業を営んでいた。大きな農地も持っている。実家にいたころは、畑を耕したり畜舎の掃除をしたり、あれこれと手伝いに駆り出されたっけな。実家の仕事は大変だったけど、まあ、やりがいを持ってやっていた。
よし、だんだん思い出してきた。
いまこの瑛国は、世界的な工業化のさなかにあった。
田舎に住んでいても、瑛国南部《イナグア地方》の発展具合は聞こえていた。大規模な都市開発が進み、鉄道や蒸気機関車がいくつも作られている。道路はきれいに舗装され、あまたのガス灯が立ち並び、街中を明るく照らしている。夢にあふれた噂が、後を絶たなかった。
だから俺は、十六歳の誕生日に、家を出る決意をした。弟たちはすごく悲しんでいた。でも、俺にだってやりたいことはある。泣いてすがる妹たちを振りきって、俺はイナグア北東部の都市、《ピジョン・シティ》にやって来た。
……なんだ、しっかり覚えているじゃないか。
なにが記憶喪失だ。あらぬ不安で怯えていた自分が恥ずかしい。
さあ、もうひと踏ん張り思い出してみよう。
そんなピジョン・シティにやって来た俺は!
……
俺は……
俺は、その……
何を、していたんだ?
たまらずふらついて、赤煉瓦の壁に寄りかかる。
ピジョン・シティに来たあたりで、俺の記憶は不自然に途切れていた。いくら頭をひねっても、結果は同じ……人間だったころの出来事を、それ以上、何ひとつ思い出せなかった。
わけがわからなくて、いらついて、右手を壁に打ちつけた。——がちゃん、と嫌な音がして、弾かれたように腕を引いた。痛みはない。壊れてもいない。しかし、右手の甲には新しい傷が出来て、銀色の鉄板がのぞいていた。
(夢であってくれ)
そうは思うけれど、ブリキの体に感じるものは、何もかもがリアリティに満ちていた。焦り。苛立ち。打ちつけた右手に伝う、ジンジンと痺れるような違和感。そのすべてが現実となって、全身を震わせてくる。
悪夢だ。
そう思った。