♯5「おっとすっとこどっこい。たった一つの猪木を捨てて、生まれ変わったふらちな悪行三昧」
その五
神奈川県Y市郊外の、とある小さなみすぼらしい駅の階段に、カツンカツンと疲弊感を漂わせる足音が響き渡っている。その足音の持ち主は、人っ子一人いない駅の構内をよほどかったるそうに降りてくる。どうやら仕事帰りのOLのようだ。
日ごろから欠かさない丁寧なスキンケアは、彼女の若さ溢れる張りのある肌を象徴してはいるが、どうやらこんな時間帯になってしまえばしまうほど、その労力の無意味さを主張してしまっている。
しかし、彼女の豊満かつ引き締まった滑らかなボディは、彼女を優しく包むブランド物の上下をこれでもか、というぐらい酷使している。なにせ、そんな纏い物の間から湧き出でる妙齢の女性からのみ漂う熟れた果実にも似た体臭は、どんな獰猛な雄牛をも一撃であの世へと送り込んでしまうのではないか、という危険性を示唆しているのだ。
「あんもうっ! 課長がいきなり残業押し付けるもんだから、とうとう終電で帰ってくるハメになっちゃったわ。せっかく今夜はワールドBカップの日本対ソヴィエトの試合を肴に一杯やろうと楽しみにしてたのになぁ」
彼女はそんな愚痴をつぶやきながら、駅の東側出口を抜け、昼間に散々強い日差しを浴びせられたアスファルトの歩道に片足を下ろす。もう、駅前の売店の陳列棚は、シャッターでかたく閉ざされている。
「あたりまえよね、こんな時間だもん」
彼女はそうつぶやきながら、静まり返った駅前商店街の方向に足を向け、すたすたと歩みを進める。すると、
ぶっ――。
という音とともに彼女はハッとし、顔を赤らめ、辺りをキョロキョロと見回す。
「ホントやだもう、くっさー。出物腫れ物ところ構わずね。こんな密閉空間でもないところなのに、自分の鼻先にまで臭って来るわ。昨日休みだったからって調子に乗ってお芋を沢山食べたせいね。最近スーパーで焼き芋なんか売ってるから悪いのよ、もうっ! さっきまで電車の中で我慢してたからね、つい……。これで電車の中だったら、乗客はみんな窒息死寸前よ。ヘタすれば、あらぬテロリストの容疑を受けて囚人の仲間入りになっちゃったかもね……なあんて、わたしったらバカね、てへっ」
と、彼女は自分の頭を軽く小突きながら、
「それにしても、今の誰にも聞こえてなかったわよね……」
などと一人ボケ一人ツッコミを行っていた、その瞬間である。
「お、お、おおお、おねえさん……」
彼女の後ろから声を掛けて来る者があった。
彼女は心臓が飛び出るかと思うほど驚愕し、思わず歩みを止めてしまった。彼女は恥ずかしさと恐怖が一体になりパニックを起こしそうになったが、やがて興味本位が先に立ち、恐る恐る後ろを振り返ると、
「お、おねえさん、クリームを、かかか、か、買ってくださいませんか……?」
なんと可愛らしい白黒ネコの着ぐるみを着た小学生ぐらいの男の子が立っていた。
「いやーん、かわいい!」
彼女は、思わず胸がきゅんとなって、途端にその男の子を抱きしめてしまった。
「むぎゅ! お、お、おねえさん、く、苦しいです……」
彼女の凹凸の利いた肢体の表面が、少年の鼻先から口元辺りを席巻する。彼女の香水と汗の入り混じった体臭が少年の心身を覆いつくす。
その時である。
「ヘイ! そこのチャンネェ(※訳:ねえちゃん)。うちの息子にナニスルデスカー?」
そこへ割って入ったのは、はげつる頭にカイゼル髭が特徴的な、なんとも怪しげな感じの中年のおっさんである。彼は、黒革の上下に、真夜中にもかかわらずサングラスといういでたちである。
「あ、あなたは……?」
「ボクちゃんは、この着ぐるみネコ少年の父親よ。たった今、あなたはウチの可愛い息子に色仕掛けしちゃったわね、しちゃったわよ、いいえ、いいえ、しちゃったのよ。とぼけてもムダよ。今のアナタが犯したふらちな場面の一部始終を、この高性能デジタルビデオカメラに収めたんだからね。ついでに言えば、アナタの毒ガステロリズムの場面までもね」
怪しい男は不敵な笑みを浮かべながら、妙にオカマっぽい口調で言い放った。
「な、な、な、なんですってぇーっ!?」
彼女は顔を真っ赤にして驚いている。
そして怪しい男は、カメラを何度も何度もいやらしい目で覗き込みながら、
「これをユーチュー○なんかの動画サイトに掲載されたくなかったら」
と彼女に問いかけた。彼女もそれに呼応するかのように、
「なかったら……?」
「ボクちゃんの可愛い息子が持っている特殊なクリームを、一個い、い、いいいい、一千万円で買いなさい」
「なんですってぇーっ!?」
彼女は突飛な声を張り上げた。すると、
「こらーっ! そこで何やっている! 抵抗するとタイホしゅるぞ!」
と、紺色の上下を着た制服警官らしき影がこちらに向かってくる。
「おまわりさーん! 助けてください! わたし変な人にからまれてまーす!」
女性は真夜中にもかかわらず、形振り構わない大声を上げて助けを呼んだ。
「ち、まずいわ! 向島君、ここは一旦退散よ」
「は、はひっ!」
そう言葉を発すると、黒革の上下を着たカイゼル髭の怪しい男と、ネコの着ぐるみを着た少年は、一目散にその場から消え去ったのであった。
これは後日談だが、ここ数日間でこのような事件が数十件ほど起きていることが分かった。しかし、実際には金銭的な被害があるわけでもなく、すべてが未遂で終わっているので、新聞やテレビ等のマスコミ云々に大きく取り上げられることはなかったという。
だが、確実にこのような妙ちくりんな噂はあらぬ噂を呼び、都市伝説の類いへと発展してゆくのは世の習いとでもいうべきだろう。
そして、
「あのヘンテコな犯人は、毒ガスを持っている可能性もあるかも」
などと、話の尾ひれが付いて回っているのは、多分あの女性の謀略的な入れ知恵によるものと誰が知ろう。
――ナショナル・アホ・グラフィック刊『驚愕! 俺の七不思議――あなたも知らない世界のバカの塀編』より抜粋。
つづく?