噂の悪辣令嬢と婚約した王子の恥ずかしい話
王家の第一子として生まれた自分が、思うままに生きることは難しいだろうと漠然と知ったのは、五歳のころ、初めて厳格な家庭教師の前に座らされた日だった。幼い手で重たい歴史書をめくり、退屈な歴史を暗記させられる日々。遊びたい盛りの私には苦痛でしかなかったが、周囲の大人たちは口をそろえて「殿下は王国の未来でいらっしゃる」と讃えた。それは私を王国の象徴として飾り立てる言葉であり、同時に、私の意志や感情を無視して、王族としての役割を全うせよという圧力でもあった。自由な空想にふける時間も、無邪気に駆け回ることも許されず、私はただ、期待される「王子」の型に自分を押し込めることしかできなかった。
好きで王子として生まれたわけではない。そんな不満から、私はたびたび家庭教師の授業から逃げ回るようになった。そのたびに父や母に厳しく叱責されたが、私はそんな父や母にすら不満を抱いていたのである。
それは、春のやわらかな陽光が王宮の庭園を照らす穏やかな日、私が十歳の誕生日を迎える少し前のことだった。いつものように侍従たちと剣の稽古に励んでいたときことである。額に汗を光らせ、木剣を構えようとしたそのとき、私付きの侍従長が、神妙な面持ちで近づいてきた。
「殿下、国王陛下がお呼びでございます」
その声は、いつもよりも一段と低く、張り詰めていた。私は胸騒ぎを覚えながら、急いで謁見用の礼服に着替え、王の執務室へと向かった。
執務室の重厚な扉が開かれ、私は書類の束に囲まれる父の姿を認めた。父はいつになく穏やかな表情で私を迎え入れる。だが、その優しげな眼差しが、逆に恐ろしいとさえ感じた。私は緊張で喉が渇くのを感じながら、父王に頭を下げる。窓の外から聞こえる鳥のさえずりが、どこか遠い世界の音のように感じられた。
父は私の顔を上げさせると、まっすぐ私の目を見つめ、ゆっくりと、そしてはっきりと告げる。
「レオンハルト。この度、お前の婚約が決まった。相手は公爵令嬢フリージア・アルマンド嬢だ」
突然告げられた言葉に、私の頭が真っ白になる。私のそばに控える侍従も小さく息を呑んだ。父の言葉をゆっくり咀嚼して、とうとう政治的な婚姻の道具となることを、ついに宣告されたのだと理解した。理解した瞬間、全身から血の気が引くのを感じた。
アルマンド公爵家は公爵になってまだ歴史の浅い家だ。その爵位は、わずか一代前の先代が、諸外国と貿易網を確立し、王国に有利な形で貿易交渉を成功させた功績によって与えられたものである。近隣諸国との貿易を担い、さらに領地のなかにある巨大な鉱山で金が産出されるなど、その富は王家のそれを遥かに凌駕すると言われ、王国の富の半分近くはアルマンド公爵家にあるのではないかと噂されるほどだった。
ここ数年の不作と飢饉で税収の落ちていた王家にとって、アルマンド公爵家からの資金援助は生命線なのだろう。父の穏やかな眼差しは、私の婚約を祝福する意図があったのかもしれない。しかし私にとっては、地獄に突き落とされたような気分だった。私は王家に売られたのだと幼心に感じて、ままならない自分の身とこの世を憎んだ。
しかも、婚約相手に指名されたフリージアという娘は、莫大な資産を持つ家に生まれたひとり娘ということもあり、両親からとくに甘やかされ、同じ十歳の身空だというのに、平民の年収ほどのお金を一回の買い物に使い、気に入らないことがあれば使用人に当たり散らし、気に入ったものがあれば他人のものでも奪い取ると言われる強欲な娘だと言う。噂の出所は、高位貴族の子どもたちである。彼らはみな、フリージアの傲慢な振る舞いをまざまざと見てきたように語った。彼女の噂はまるで、醜い悪魔の肖像画を描くように、私の心の中に刻み込まれていった。
一体神はどれほどの試練を私に与えようとするのか。なぜ、第一王子として生まれただけで、このような辱めを受けることになるのか。愛も情もない政略結婚の道具にされ、その相手は世間から「悪女」と蔑まれるような娘だ。私は、この凄惨な運命に憤りを感じ、今すぐ何もかも捨ててどこか遠くへ逃げ出したくなった。しかし、当然そんな勇気もなく、行き場のない怒りを抱えたまま自室に戻る。
私は部屋に閉じこもり、手当たり次第に物に怒りをぶつけてしまった。重厚な家具に傷がつき、繊細な細工が施された花瓶は床に散らばり、音を立てて砕け散る。侍従たちが心配して部屋を覗きに来たが、私は「入るな!」と叫び、その場からすぐに追い出す。
彼らはただ、静かに扉の外に立ち尽くし、私の怒りが鎮まるのを待っていた。私がどんなに暴れても、誰ひとり私に同情する者はいない。何より自分の運命を呪うばかりで、八つ当たりしかできない自分の無力が憎らしい。私は最悪の気分で、フリージアとの初対面の日を迎えることになったのである。
アルマンド公爵家のタウンハウスは、王都でも一際目を引く壮麗な建物だった。私は馬車に揺られながら、窓の外に広がる豪奢な邸宅をぼんやり眺める。邸宅の門扉は黒い鉄でできており、そこにはアルマンド家の紋章が彫り込まれていた。広い庭園には、手入れの行き届いた薔薇のアーチがいくつも連なり、噴水からは水が勢いよく吹き上がっていた。アルマンド公爵家の財力をこれでもかと見せつけるその嫌味な邸に、私は、胸に沸き起こる不快感を必死に抑え込んだ。
馬車がゆっくりと邸の正面に停まり、侍従に扉を開けてもらうのを待って私はわざとゆっくり馬車を降りる。少しでも王族として威風堂々とした姿を見せつけてやろうという小さなプライドだ。今の私には、これくらいしか対抗する術を持たななかった。
邸に入ると公爵夫妻が恭しく出迎えてくれる。公爵は立派なひげをたくわえ、人の良さそうな笑みを浮かべていたが、その様子がかえって私に不信感を与える。公爵夫人も、物腰がやわらかで公爵の半歩後ろに控える奥ゆかしい人物だった。夫妻の穏やかな表情の裏を読み取ろうと思ったが、勉学から逃げ回っている私にそんな高度なことができるわけもなく、私は自分の無知を恥じる。公爵夫妻がこのたびの縁に喜びの言葉を述べるのを、話半分で聞きながら、もしフリージアが噂通りの傲慢な令嬢であれば、未来の王妃にふさわしくないとしてこの婚約を何年かかろうと破棄してやると心の中で決意する。
邸のサロンに通されると、そこには、高価な美術品や絵画が並んでいた。現在王都で最も人気な芸術家たちの作品である。しかし、私の目を奪ったのは、緊張した面持ちで立つひとりの令嬢だった。彼女は、噂に聞く強欲でわがままな娘とはまるで印象が違い、可憐で清楚な佇まいである。艶やかな栗色の髪が背中に美しく流れ、薄い碧のドレスに身を包んだ彼女は、まるで絵画から抜け出てきたかのように美しい。高い宝石やドレスを買い漁ってると聞いていたのに、高価な宝飾品は何も身につけておらず、ドレスも常識的なデイドレスである。フリージアと呼ばれた娘は、私と目が合うとぱっと顔を紅潮させ、恥ずかしそうにうつむく。
「フリージア、殿下にごあいさつなさい」
公爵夫人にうながされ、彼女はゆっくりと前へ進み出た。彼女は私から少し離れた場所に立ち止まると、静かに、そしてゆっくりとカーテシーを披露する。その動作は、少女らしいかわいらしさもあったが、今まで目にした同い年の令嬢よりもはるかに見事な所作だった。一朝一夕で身につけたとは思えない、流れるように美しいその優雅なカーテシ―に、私は一瞬息を呑んだ。
「フリージア・アルマンドと申します。お会いできて光栄です、レオンハルト殿下」
彼女が私に向ける視線は、決して不躾なものではなく、その瞳は不安と期待を同時に宿しているようだった。その声は、噂に聞くような傲慢さや高慢さは微塵も感じられず、鈴の音のように澄んで、柔らかい。悔しいが、認めざるを得ない。私は目の前の少女に見とれていたのである。
「……殿下」
背後から侍従に耳打ちをされ、はっと我に返った。あまりにも彼女の姿が噂と違いすぎて、私は言葉に詰まっていたのだ。
「失礼しました。レオンハルト・フォン・エルスターと申します。フリージア嬢に、直接お会いするのを楽しみにしていました」
努めて優雅にあいさつを返すと、忘れかけていた猜疑心が再び蘇ってきた。彼女はきっと、私の前だからと猫を被っているのだろう。王家の人間である私を前に、その悪辣な本性を隠して振る舞っているに違いない。騙されてなるものか、必ずその本性を白日のもとに晒してやると情熱を燃やしながら、私は彼女と対峙した。
しかし、私の予想とは裏腹に、彼女はいつ会っても折り目正しく、ささいな話題にも耳を傾け、私の肩書や容姿より私自身を知ろうとしているように見えた。一番驚いたのは、私が勉学が苦手だとふとこぼしたときのことである。
「お恥ずかしいのですが、わたくしも以前は、お勉強が好きではありませんでした。……でも、わたくしのなかで心の変化がありまして、お勉強が少しずつ楽しくなっていきました」
「その楽しさ、ぜひ聞いてみたいですね」
そのときの私はこの令嬢の本性を暴こうとかそんな意識はまったくなく、楽しげな表情を浮かべたその理由を純粋に知りたいと考えていた。フリージアは顔を少し赤くして、やや興奮気味に続ける。
「たとえば、そこに飾ってあるのは父が支援している芸術家の作品なのですが、歴史を学べば、この作品がとある神話の一場面を描いていることがわかります。経済を学べば、この作品の対価がわかり、将来どれほどの価値になるかがわかります。そして、その芸術家に敬意を払うことができます。政治を学べば、すべての人がこの方の作品を手にできないこともわかります。でも、もし、お勉強をしていなければ、わたくしにとってこれはただの『そこに飾ってある絵画』で終わりです」
フリージアの言葉は、まるで稲妻のように私の心を打った。これまで「何かを知る」ために勉学をしようと思ったことがなかった私は、その日から意識を改め、彼女の言葉の意味を理解するためにまじめに授業に取り組むことにした。家庭教師や両親は泣いて喜んでいたが、何よりも、彼女がうれしそうにしてくれることが私にとってのやりがいになっていたのである。
こうして彼女との逢瀬を重ねるごとに、はじめに抱いていた猜疑心は少しずつ薄れ、もっとフリージアのことが知りたい、その笑顔を見たいと思うようになっていた。月にいちどの彼女との茶会が私の唯一の楽しみになっていた。
その日も定例の茶会で、私は楽しみすぎるがあまり、予定の刻限よりも早く公爵邸に到着してしまった。フリージアはまだ家庭教師の授業が終わっていないとのことで、それまで公爵が私の相手をしてくれることになった。公爵とは初めて公爵邸を訪れて以降、会話を交わすことはほとんどなく、私はやや緊張の面持ちで公爵と対面する。
「殿下、娘はお眼鏡に叶いそうですか?」
公爵は人のいい笑みを浮かべ、言葉を選びながら続ける。
「私は、王家に忠誠を誓った身。婚約などなくとも喜んで王家のために身命を賭す所存です。どうか正直におっしゃってください」
公爵の真意がつかめず、私は戸惑う。しかし、私がこの婚約に不満を漏らせば、彼は即刻この婚約を白紙にするつもりだということは理解できた。私は見つからないように机の下で服をつかみ、素直な気持ちを吐露する。
「……正直、驚いています。私は真実を確かめようとせず、周囲の評価に惑わされて目を曇らせていました。しかし、人の噂などあてにならない……むしろ、人の噂ほどあてにならないものはないと実感しています。一人の王族として、まだまだ未熟だと痛感いたしました」
私の言葉に、公爵はうれしそうにほほ笑む。
「殿下はとても聡明でいらっしゃる。王国の未来は明るいですね」
公爵の明るい声に、私は前のめりで言った。
「私はこの婚約を前向きにとらえています。フリージア嬢の気持ちは尊重したいですが……私自身は、彼女に伴侶になってほしいと考えています」
「ありがとうございます。殿下のそのお言葉に、どれほど安心したことか。……娘かわいさに今まで我儘放題に育ててしまい、恥ずかしい限りです」
「そんなことはありません!」
私は思わず声を上げる。フリージアのこれまでの悪評がすべて嘘だったわけではないかもしれないが、少なくとも現在の彼女は将来の王妃にふさわしい令嬢として育っていることは間違いない。
「実は、娘は半年ほど前、命が危ぶまれるほどの熱病を患いました。意識を取り戻したのは奇跡だと医者に言われましたよ。そして不思議なことに、目を覚ました娘は、まるで憑き物が落ちたように穏やかになりましてね。それまでまったく興味を示さなかった勉学にもまじめに取り組むようになり、使用人たちを含めて人当たりもよくなったんです」
公爵の話に、私は生まれて初めて神に感謝した。フリージアを生かしてくれたこと、彼女と出会わせてくれたことにである。
「そんなことが……。今は体調は問題ないのですか?」
「はい、定期的に医師に見せておりますが、健康については太鼓判をいただいております」
彼女は、病を乗り越えることで、精神的に大きく成長したのだろう。私は、今まで彼女に対して抱いていた猜疑心や不満を、恥ずかしく感じた。彼女はたしかに悪女だったのかもしれない。しかし、自己を振り返って猛省し変わろうと努力している。苦難を乗り越え、美しく咲き誇ろうとしている一輪の花のようだった。それに比べて私は不満を抱えて愚痴をこぼすだけの矮小な人間だった。彼女のためにも立派な人間になりたいと、改めて誓ったのである。
そうしてフリージアとの時間が増えていくにしたがって、私は彼女の微妙な表情の変化に気づくようになった。最初は、体調に問題があるのかと思ったが、それとなく尋ねてもフリージアは「寝不足で……」と誤魔化してしまうし、公爵夫妻にこっそり確認しても、たまに気分がふさぎがちになることがあるということしかわからない。
彼女が「寝不足だ」と言う日には必ず、ふとした瞬間に哀愁を帯びた表情をしていることが多かった。そんなときは話をしていても彼女はどこかうわの空で、視線も下がりがちになる。
数か月の間、かかさず交流の機会を持ってきて、私は彼女を「フリージア」と呼び、くだけた口調で話していたが、フリージアは頑として私にそういった気安さを見せることはなかった。実は内心ではこの婚約を憂えていて、だからこその態度かもしれないと考えた私は、あまりにも馬鹿正直に彼女にぶつけてしまう。
「フリージアはもしかして、この婚約に何か心配なことでもあるの?」
言ってから、しまった、と思ったが、いちど吐いた言葉を取り消すことはできない。フリージアは驚いたように顔を上げて、小さく首を振る。
「とんでもないことですわ。王家より賜った栄誉にそのような……」
彼女の言葉に嘘はないと感じたが、やはり表情はぱっとしない。
「何か気になることがあるなら、何でも言ってほしい。僕は君の婚約者なのだから」
私の言葉に、彼女は少し考えてから、絞り出すように言った。
「……もしも、この先、殿下に真に想う方ができたときは、わたくしに一番に教えてくださいますか?」
さみしそうな顔でそう言う彼女に、私は胸がしめつけられる。なぜ、彼女はそんなことを言うのだろう。私は間髪入れずに答える。
「そんなことはありえない。僕の婚約者は、フリージアだけだよ」
私の言葉に、彼女はうつむいて何も言わなかった。私にいつか他の想い人ができることを確信しているようなその態度に、私は胸に引っかかりを覚える。彼女が何を恐れているのか、今はまだ理解できなかった。
きっと私の気持ちがうまく伝わっていないに違いない――そう考えた私は、フリージアに自分の気持ちをわかってもらおうと、贈り物を次から次へと公爵家に届ける。彼女が喜びそうな花や宝石、王家御用達の菓子、有名店のドレス、女性に人気な香水など、考えうる贈り物を届けることにした。私がどれほど彼女を大切に思っているか、この贈り物が雄弁に語ってくれるだろうと信じていた。
しかし、フリージアから返ってくるのは、いつも決まったお礼の文句だけである。「殿下のご厚意、痛み入ります」「ありがとうございます」……。彼女が贈り物を喜んでいる様子が、文面からは全く伝わってこない。私は不思議に思い、王家から派遣した侍女に、こっそりフリージアの様子を尋ねることにした。
侍女からは、私に対する呆れがにじむ報告書が返ってきた。
「フリージア様は、殿下からの贈り物を受け取っては、いつか国庫を圧迫した悪女として糾弾されないか怯えていらっしゃいます。とくに宝石やドレスなど高価な品々を贈られるたびに、ご自分の罪が積み重なっていくような表情をなさいます。贈り物を強要していると噂されることを気にしていらっしゃるようです。唯一、花だけはうれしそうにしていらっしゃいます」
私は侍女の報告に愕然とし、自分の愚かさを恥じた。気持ちを伝えようとした行動が、フリージアを苦しめていたなんて。彼女は、王家の財政が苦しいことを知っている。だからこそ、私から贈られる高価な贈り物が、王家の財政を圧迫する元凶になると心を痛めているのだ。もちろん決められた予算のなかで用意はしていたが、フリージアにそれを言っても優しい彼女はますます萎縮してしまうだろう。
侍女の報告を読んで反省した私は、侍従とも相談して、花や彼女が好きそうな図書の贈り物に留めることにした。とくに花は、毎回手渡しで贈るほうがよいと言われたので、茶会のたびに手渡すと彼女は本当にうれしそうな顔をしてくれた。直接渡せないときは必ず直筆の手紙を添えて、フリージアに会えないさみしさを言葉にするよう努めた。
私が贈った花をフリージアは毎日愛おしそうに眺めていると侍女から教えられると、こちらまでうれしくなりその様子を想像するだけで不思議と心が満たされる。しかし、彼女は私に対してやはり一線を引いたままであり、本当の心の内を私自身も推し量ることは困難であった。
歳月は流れ、私たちは十六歳になった。十六になった貴族は、秋から王立の学院に入学することになっている。私は学院入学前に立太子し、王位継承者としての教育を本格的に受けることになった。フリージアもまた、王太子妃教育を受け始めていたが、私たちはこれまでの慣習にならい、二人そろって学院に入学することになった。
学院に入学する日、私はフリージアを迎えに公爵家を訪れた。しかし、彼女の顔色は悪く、何かあったのかと尋ねても、「問題ありません」と答えるだけである。これまでもたびたび見せていた、哀愁を帯びた、そして何かに怯えているようなフリージアに、私は不安を覚える。彼女の憂いをすべて払いたいのに、一体何が原因なのかわからない。
一緒の馬車に乗り込み、私は言葉の限り、彼女の不安を聞き出そうとするが、フリージアは何でもないと言うだけである。それでもなお食い下がると、彼女は絞り出すように言った。
「殿下、昔お願いしたことを覚えていらっしゃいますか?」
私は首を傾げた。何か約束を交わしていただろうか?
「殿下に真に想う方ができたときは、わたくしに一番に教えてくださいませ」
フリージアは青白い顔で無理して笑顔をつくっている。あのとききちんと否定したはずなのに、フリージアはやはり私が別の人間を選ぶと考えているようだ。――今度こそしっかり自分の気持ちを伝えなくては。そう決意して口を開きかけたところで馬車が学院に到着し、私はフリージアの自分の想いを伝えることができなかったのである。
学院に入学してからの生活は、目まぐるしく過ぎていった。私は学院の自治組織の会長となり、来る日も来る日も会議と調整に追われている。そのうえ、王太子としての公務も重なり、ほっと息つく暇もない。フリージアも王太子妃教育で忙しくなり、私たちはほとんど会話らしい会話ができなくなってしまった。
同じクラスではあるが、フリージアは他の令嬢たちとの人脈作りに忙しく、私も将来の側近候補を絞り込むため、多くの貴族子息と交流しなければならない。近くにいるのに、なかなか一緒にいられない。そんな日々が続いた。
学院に入学して半年が経ち、春の時節に新しい女生徒が入学することになった。その生徒の名はマーガレット・ブラックウェル。ブラックウェル伯爵の落とし胤だという。平民の母とともに市井で暮らしていたのを伯爵が見つけ出し、養女としたらしい。マーガレットの入学は、学院に波紋を広げた。
めずらしい時期に入学した彼女は、すぐに生徒たちの注目の的となった。半分平民の血が混じった貴族令嬢を入学させること自体、異例も異例である。ふつうの貴族ならば家の醜聞になると徹底的に隠し通すか、遠縁の親戚を引き取ったとごまかすものである。ところが、ブラックウェル伯爵は「真実の愛」に盲目になり、しかも自分の身分を捨てて愛した女性と一緒になることはせず、現在のブラックウェル伯爵夫人が亡くなったのをいいことにマーガレットを堂々と自分の娘として発表したのだ。以前より仕事もサボりがちで、ミスの多い伯爵には王家も辟易していたが、今回の件でブラックウェル伯爵は他家からも白い目で見られるようになった。
そういった色んな事情を抱えたマーガレットが入学することは、教師の間でも賛否両論あったらしい。入学前の学力試験も平凡な結果な彼女を受け入れるメリットがあるのかという意見が強かったようだが、結局、ブラックウェル伯爵から多額の寄付金を受け取った王家は、マーガレットの入学を認めることにしたのである。父からマーガレットに目を配るよう言われたときは、フリージアに万が一誤解をされたくないときっぱり断った。入学式の日のフリージアの様子を見ていて、しかもほとんど婚約者としての時間が取れないのに、訳のわからない令嬢の世話などできるはずがない。
父にはそう伝えたが、マーガレットは私たちのクラスに所属することになってしまった。めんどうが増えたことに苛立ちを覚えながらフリージアのほうに目線を向けると、彼女は血の気を失った真っ白な顔で目を見開き、瞬きも忘れてマーガレットを見つめているではないか。今にも儚くなってしまいそうなフリージアの様子に、今すぐ声をかけてフリージアを抱きしめたくなったが、なんとかその激情を抑え込む。しかし、どうにも嫌な予感がして、私は汗ばむ手を握りしめた。
嫌な予感はすぐに的中した。マーガレットは一般的にかわいらしいとされる見た目と、もともと市井で暮らしていたこともあり、ふつうの貴族令嬢よりも潑溂としていて、すぐに貴族子息たちの人気者になった。彼女は、社交界のルールや貴族社会のしきたりを全く知らず、その無邪気な振る舞いで、貴族の子息たちを次々と手玉に取っていく。他の貴族令嬢たちは彼女のそのふるまいに眉をひそめていたが、マーガレットに夢中になった貴族子息たちは醜い嫉妬だと避難し、水面下でマーガレットとその取り巻きと貴族令嬢たちの対立が深まっていたのである。
それでも、マーガレットに直接物申す令嬢たちがいなかったのは、フリージアがそれとなくたしなめていたからだ。
「まだ貴族社会に慣れていないだけですわ。これからきっと貴族らしい振る舞いを身につけていくはずなので、静かに見守りましょう」
フリージアはそう言って、マーガレットをかばっていたのである。公爵令嬢で、しかも王太子の婚約者であるフリージアが言うならと、令嬢たちは渋々その言葉に従っていた。しかし、数か月経ってもマーガレットの態度は変わらず、とうとう側近候補の子息を使って私に接近してきた。
「マーガレット嬢はとても可憐でしょう?」
何の断りもなく、忙しく書類仕事をする私の目の前にやってきた側近候補の子息が、鼻高々にマーガレットを紹介する。マーガレットは、なぜか体をくねらせて私に視線を送っており、まるで蛇のようだと嫌悪を覚えた。
「……そうか?」
可憐というより怪訝だったので、「どこかだ」と言わんばかりに答えたのに、なぜか蛇女はますます体をくねらせ、身を乗り出してくる。
「まあ殿下、可憐だなんて照れてしまいますわ」
話の通じないマーガレットに、私は言いようのない恐怖を覚えた。護衛たちが視界を遮るように立ちふさがり、その場は事なきを得たが、これが地獄のはじまりだったのである。
マーガレットはそれから、私が学院のどこに行っても現れ、声をかけてくるようになった。昼食時には私の席に勝手に座り、教室でも私の隣に座ろうとする。自治会の仕事で執務室にいるときですら、彼女は「お茶をお持ちしました」と言ってやってくる。さすがにそんな得体のしれないものを飲むわけにいかなかったので目の前で突き返したのに、マーガレットは私に話しかけられたとなぜか喜ぶ。頭がおかしくなりそうだった。
この女の行動は、王太子である私に対する不敬罪にあたりかねる。しかし、学院の中では身分の上下に関係なく生徒同士が交流を図ってよいことになっており、無視をすることも、不敬罪として捕らえることもできない。
ただでさえフリージアと教室以外で会うことが叶わないというのに、非常識でいつもくねくねと奇妙な動きを繰り返す女の相手をしなければならなくなり、私のストレスは爆発寸前だった。護衛や侍従が守ってくれていなければ、何をしていたかわからない。マーガレット・ブラックウェルだけは私のなかで明確に敵で排除すべき存在となり、そんな彼女に傾倒する人間も、側近候補から外した。
誰がどう見ても、私がマーガレットを邪険に扱っていることは明白だったにも関わらず、私にとっては屈辱的な噂が立った。「王太子殿下がとうとう真実の愛を見つけた」というものである。名前こそ出さなかったが、マーガレットが私の真実の愛の相手で、フリージアと婚約破棄をするのだと、みなが囁いており、その報告を聞いた私は、ひと目を気にせず叫んだほどだ。
噂のもとを断ってもきっといたちごっこになる。どうにかしてマーガレット・ブラックウェルを排除し、二度と私とフリージアの目の前に現れないようにしなくては。王太子の公務よりも重要な案件が舞い込み、私の睡眠時間はますますなくなった。
そしてその噂とともに、マーガレットに傾倒する貴族子息たちが、これまでは令嬢たちに振りまいていた悪口を、フリージアに集中的にささやくようになったのである。フリージアを「悪辣令嬢」に仕立て上げるという浅はかな考えによるものだった。
「アルマンド公爵家は、王家の金を食い潰している」
「フリージア・アルマンドは、わがままで強欲な悪女だ。殿下は、あの女に苦しめられている」
「愛のない結婚を殿下に強制して、王家を乗っ取ろうとしているに違いない」
この噂をばらまいた人間は潰す。私は王家の影も使って、フリージアの悪評を広めた人間を徹底的に調べ上げた。
マーガレットも私の「真実の愛の相手」として振る舞い始めた。フリージアを見つけると、「ごめんなさい」や「わたしが悪いんだわ」と絡み、まるでフリージアにいじめられているかのような態度を取り始める。彼女の取り巻きの子息たちも、フリージアを傲慢で高飛車だと罵った。――侍女からこの報告を聞いたとき、私は最速でマーガレット・ブラックウェルほかこの女に傾倒してフリージアを貶めた人間を排除するための作戦を立てることにした。
私は自治会のメンバーにも相談することにした。自治会のメンバーは私の側近として問題ない人間を配置しており、何より彼らもフリージアを時期王太子妃として尊重していたので、私の作戦に二つ返事でうなずいてくれた。むしろ、「動きが遅いのでは?」と諫言してきたほどだ。フリージアのおかげで優秀な忠臣に恵まれ、私は心から安堵を覚える。
私たちは作戦の下準備として、自治会主催の夜会を開くこと、そしてその夜会のなかで私の「真実の愛の相手」を発表することを宣言した。
学院の大広間に集められた生徒たちはざわついていたが、基本的にまともな貴族子女たちばかりなので、私の意図を理解したのか、哀れみの目をマーガレット一行に向けている。しかし当のマーガレットは、目を燦々と輝かせ、周囲の貴族子息たちに「おめでとう」と見当違いな祝福を受けていた。
フリージアは何かをあきらめたように静かに目を閉じて、私の言葉を聞いていた。彼女は白い顔のまま、胸の前で固く両手を握りしめている。私は、彼女との約束を守れそうにないことをひとり心のなかで謝罪した。
夜会の前日、私は婚約者としてフリージアにドレスを贈った。私の瞳の色を模した紫色のドレスである。自分の色のドレスを贈るということは、婚約者をそれだけ想っているということだ。手紙には、自治会の仕事があり入場のエスコートが難しいこと、私の気持ちは婚約を結んだときから変わらないことを書く。きっとフリージアには私の真意は本当の意味で届いていないだろう。
夜会当日、フリージアは私が贈ったドレスをまとい、ひとりで入場した。彼女はいつもどおり背筋を伸ばして凛としており、その姿は会場にいるすべての生徒たちの視線を釘付けにしている。その姿を見て、マーガレットとその取り巻きたちはにやにやと醜い笑みを浮かべていた。彼らの頭は、とうとうまともになることはなかったのである。
私はその様子を舞台の袖から眺めていた。フリージアの輝くばかりの美しさにうっかり見とれてしまったが、自治会のメンバーにたしなめられ、表情を引き締める。開会のファンファーレとともに舞台の幕が上がると、私は舞台中央に立ち開会のスピーチを述べる。
壇上からは、会場にいるすべての人間がよく見渡せた。フリージアと彼女を慕う令嬢たち、そのフリージアを親しみを込めて見つめる者たち、そして、ありもしない未来を思い浮かべて醜くにやつく者たち。王国の膿を取り除く幸運に、私は自分の女神フリージアに感謝する。
「最後に、今噂になっている私の『真実の愛の相手』を発表する」
その言葉に、生徒たちの視線がいっせいに私に集まった。ぴんと張り詰めた空気が漂う。
「私の『真実の愛の相手』は――フリージア・アルマンド公爵令嬢だ」
私の宣言に、生徒たちから割れんばかりの拍手が巻き起こった。フリージアは驚きで目を見開き、まっすぐ私を見つめている。私はフリージアに視線を返し、小さくうなずいた。壇上を下り、そのままフリージアのもとに歩みを進める。生徒たちがさっと身を引いて道をつくってくれたので、まるで花道のようであった。
フリージアの前に立ち、彼女の手を取ると、指先が雪のように冷たい。こんなに不安にさせていたのかと、自分の不甲斐なさに私は胸が痛んだ。
「こんなのおかしい!」
これから本番というところで、空気の読めない女の声が邪魔をする。マーガレットは下品にもドレスをたくしあげ、大股で私たちに近づいてくる。目は血走り、顔も真っ赤になっていた。良家の子女たちはその様子を見て、怯えたように悲鳴を上げる。
「お前、何をした!この、悪役令嬢が!」
マーガレットがフリージアに手を伸ばそうとしたが、当然その手が届くことなく護衛がマーガレットを取り押さえる。私も自分の背にフリージアを隠し、床に突っ伏すマーガレットに冷たい視線を送る。
おかしいおかしいとわめくマーガレットを、私は汚いものを見るような目を向けて短く制す。
「その臭い口を今すぐ閉じろ」
「どうしてそんなひどいことを言うんですか!?レオ様はわたしを愛してるでしょ?真実の愛の相手はわたしでしょ?こんな性悪女が真実の愛の相手?そんなのおかしいです!」
キイキイとあり得ない虚言を並べ立て、私のことを愛称で呼ぶこの女に吐き気を催したが、軽く鼻をつまんで返す。
「フリージアと婚約を結んだときから、私の『真実の愛の相手』はフリージアただひとりだ」
「フリージア、悪役令嬢のくせに!なんでわたしがお前なんかに!お前さえいなければ、わたしがレオ様に愛された!お前さえいなければ、わたしは幸せになれた!お前さえいなければ……!」
フリージアが小さく息を呑んだのがわかる。心優しい彼女は、今このときも、こんな醜女に同情しているに違いない。
「やっと気づいたか?」
「……は?」
「お前がフリージアに勝ることはない、未来永劫な」
私の言葉に、マーガレットがようやく静かになる。
「……フリージアがいなければ、私は今でも愚かなまま、周囲の人間に惑わされてお前のような性根の腐った女を『真実の愛の相手』と呼んでいただろう。フリージアがいなければ、私は愚かな王太子として名を残していた――いや、廃嫡されていたかもしれない。フリージアがいたから、私は正しい王太子であろうと思えた。フリージアがいたからこそ、正しい道を選べたのだ」
「殿下……」
フリージアが私の服を軽くつかむ。私にすがるようなその行動が、愛おしく、喜びで胸が震える。
「マーガレット・ブラックウェル。私がお前を愛することはない。――連れて行け」
護衛たちに引きずられるように退場させられるマーガレットを見送り、私はあの悪女の取り巻きたちを睨みつける。彼らも蜘蛛の子を散らすように会場をあとにした。未来の王太子妃に暴行未遂を行ったマーガレットをはじめ、その評判を貶めた彼らも後日しかるべき罰を受けてもらうことになっている。
私はフリージアに向き直り、膝を折って頭を下げた。
「フリージア、すまない」
そう言って謝ると、フリージアは驚いたように目を見開く。
「殿下、そのようなこと、おやめくださいませ!」
「私は、君に不名誉な噂が立っていたことを知りながら、今の今まで助けることができなかった。あまつさえ、今日の夜会をフリージアひとりで入場させてしまった……」
「そんなこと……。どうか、お顔を上げてくださいませ」
顔を上げると、フリージアの瞳に涙が溜まっている。慌てて立ち上がりその涙を拭おうとしたが、フリージアの頬を濡らしてしまった。
「それともうひとつ、謝らなければ」
フリージアに自分のハンカチを差し出し、私はほほ笑む。
「真に想う相手ができたら、一番に教えてほしいと言われたけれど……君に一番に教えることはできなかった」
私を見上げるフリージアの瞳から、再び一筋の涙が流れる。シャンデリアの光を反射したそれは、きらきらと輝いて美しかった。
「フリージア、本当にすまない。僕は肝心なことを君に伝えていなかった。言わなくても伝わっていると勝手に思い込んでいたんだ。……僕は、フリージアを愛している」
フリージアの手をそっと握ると、彼女も優しく握り返して、花のようにほほ笑む。
「わたくしの真に想う相手は、レオンハルト様です」
はじめてフリージアに名を呼ばれた私が思わず泣き出してしまい、しばらく侍従たちにそのことでからかわれたことは、真実の愛の相手には絶対に言えない秘密である。