水面下の声域
水面下の声域 △▽△▽△▽△▽∽◆◇◇◇
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たった今密林を抜けた。あのくっきりと縁取られた、おびただしい様相の山林から、抜けた。なぜだろうか、辺りは静まり返り、なにかを待っているようである。長いように思えた挑戦は、どうやら二日で終わりを迎えようとしている ――――
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落石、陥没、液状化。山道看板に書かれた警告に嫌な恐怖心を掻き立てられながら、一歩一歩、静かに歩を進めた。周辺集落などは見当たらない、密林地帯の深部である。過去の貯水工事の痕跡であったに違いない。踏み固められた足元からは、何やら黒い水道管のようなものが見えた。強固な岩石の断片が砕け、砂利のようになってコケを育む。輝かしい黄緑に葉を染める白樺が散在し、辺りの風貌を柔らかな泡の表面のようにかすめる。そよ風が吹き、重く大きい熱波が、高いナラの木々に吹きつけ、全体をを砂のような乾きにさらした。木肌は荒く、多くはシカの食害によるもののように思えた。道はこちらで正しいのだろうか。この道は本当に祖父の住む小屋へとつながっているのだろうか…。◆◆◆◆
彩人には葛藤があった。彩人には母がいない。自分の命を捨てでも祖父に会いに行く覚悟を決めたのは、もう先日のことである。
「記録的な猛暑日となる中、浚渫郡で今日、予期しない道路陥没による貯水工事失敗があり、山間部付近の高速道路は現在一時閉鎖中です。」
ラジオから聞こえる音声に耳を疑った。父の車で高校へと向かっている途中であった。
「田舎の人ってのは、大変じゃかねぇ。陥没、陥没、大変な騒ぎでけねぇ。」
「……、うん。」
なぜかそっけなく返していた。父さんには分かるはずがない。この「浚渫郡」が、幼いころの父さんの命を救った、母さんの爺さんが住む場所だってことを。
まだ五歳の時、母さんが話してくれた。
「彩君、私とお父ちゃん、別れることになったん。いつも喧嘩ばかりで、辛かったわよねぇ。本当にごめんね。」
「でもね、安心して。私と父ちゃんは、遠くでつながりがあるからさ。」
母さんの言う意味が分からなかった。二人の関係について聞いたのは初めてだったのかもしれない。
「実は爺ちゃんは幼稚園の頃の彩君のお父ちゃんの先生やったんよ。でね、当時のお父ちゃん、ひどい喘息持ちで、ある日突然倒れてしまってん。」
「えっ。」
「あんまり友達がいない子やったから、見つかるのには時間がかったんよ。その姿を最初に目撃したのが、当時の園長先生で、すぐに救急車を呼んだんやけど、重症やのに来るまで結構待たされてたんよ。その間も病院に着くまでも、自分のお医者さんだった経験を生かして、ずっとそばで、父ちゃんの手当てをしとったんよ。」
「嘘、それって本当…。」
大きな衝撃と痺れが自分を襲ったあの感覚は、今でも鮮明に覚えている。なぜもっと早く伝えてくれなかったのだろうと、何故かはわからない大きな焦りがあったことも記憶している。
「爺ちゃん、後から知らされたらしいんやけど、あの時の手当てが、結構大事やったらしいんやと。」
「母ちゃんの爺ちゃん、すごいね。彩人、そういう人になりたい。」
「ありがとう。そんなこと言ってくれたら、爺ちゃん相当嬉しいやろうね。最近奥さんをなくしたから、今はちょっと怒りっぽくて、あんまり外出て来んけど、もし大きくなって、会いに行きかったら、行ってみてや。浚渫郡っていうところの崖の上にひっそりと住んどるわ。」
「うん。教えてくれてありがとう。」
これが母さんとの最後の会話になるなんて思ってもいなかった。三日後の朝、前夜のひどい喧嘩で泣きながら家を後にして去った、あの日の翌日。会社帰りの畔道で、この世を去った――――
車は長い国道を抜け、高校につながる県道へと入った。父が無言で車を運転する中、ラジオは絶え間なく何かを伝えるが、もう周りの音は聞こえなかった。この大きく、何ともいえない強い思いには、抗えなかった。今までずっとこのことが頭から離れなかったといってもいい。名も知らない曾祖父に、今すぐにでも会いに行きたかった。車は大きな曲がり道を下り、降りてすぐの信号に差し掛かろうとしていた。
「ごめん、父さん。俺は行かねばならん場所がある。」
「…はあっ、お前何ドア開けて、、」
「学校には連絡しなくていい。」
「阿呆ちゃうか、待てぇい。おい、、」
まだ車は止まっていなかったが、一瞬ブレーキが踏まれたのを感じ、即座にドアを開けて路上に飛び降りた。途端、
シャッ、という何かを切り裂くような音がして、右足に一瞬の衝撃が走った。信号が切り替わっても、ずっと父さんはこちらへ叫び続けていたが、後続車がいたのでその場で止まるわけにもいかなかった。父さんを見送ることもなく、その場から立ち去ろうとした。しかし足が動かなかった。しゃがんで右足を強く押さえた。あの時車の速度を低く見積もって、下手に着地したから、足をひどく挫いてしまった。刹那、ブオオンッ、という激しいエンジン音がして後ろを振り返ると、オートバイクが急ブレーキをかけて迫ってきていた。
「危ねぇえぞ、おい。」
「すっ、すいません。」
もう右足のことは考えず、引きずりながら路肩へ退き、ガードレールの外を沿って、「浚渫郡まで30㎞」の看板表示まで走ることにした。時速80㎞区間で、帰省ラッシュに差し掛かる人たちの車が多いようであったから、急いで走った。途中で右くるぶしを強く圧迫したので、激痛は少し治まった。ビュウビュウと通り過ぎる車を横目にする恐怖で、懸命に走りぬけることができた。あの緑の看板だろうか。かすかに視認できるものがかすかに見えた。気づけばあの車たちはジャンクションを介して別方面へと進んでいった。辺りの景色が開け、そこには目を疑うほど大きな水田が広がり、近くの澄んだ小川は幾度にもわたって蛇行し、農業用水路として張り巡らされている。ここでこの高速道路沿いを抜ける必要があるようだ。気づけば低くなっていたガードレールも、看板手前200m付近で途絶え、まもなく浚渫郡へと続くトンネルに差し掛かろうとしていた。錆びれたトンネル外壁の近くを伝っていくと、そこには工事点検用の小さい階段があった。上には小さい看板があり、そのうちの一つは浚渫郡への方向を示していた。階段を伝い、トンネルの最上部にあたると思われる、かなり高い崖を、落ちないように這いながら、必死に上がった。コケが付着し、滑りやすい箇所を避けながら、ようやく、山道につながっていくと思われる、林業用山道に出た。時折聞こえた車の走行音は、もはや姿を消していた。◇◇◇◇
◆◆◆◆
地面を、びっしりとコケが埋め尽くしている。見たこともないくらいに大きな岩をも、飲み込んで。日が差す中を走り抜け、気づけば夕日は落ちていた。少しばかり見晴らしの良い場所へと向かいたい、その一心でまた足を動かした。木々は揺らぎ、ざわめき、時に自分を不快にさせた。熱風は少し落ち着き、束の間の落ち着きをもたらしたが、自分自身の精神は落ち着かなかった。歩けば土壌はやわらかく、もろくなっていくようであった。この辺りであきらめて、少しばかりの仮眠を取ることにした。勿論車からは何も持ってこなっかったから、今夜は地面に横になるしかなかったが、それよりも右足が心配であった。落ち着いていたはずの足首は、ひどく腫れていた。それなのにずっと痛みを感じないでいた。人口四、五十の小さな村であるから、病院などあるはずがなく、最寄りでさえもあまりにも遠い。しかも疲労困憊であった。あまり深く考えず、コケの少ない柔らかな草地へと横たわった。
キョッ、キョッ、甲高い鳥の鳴き声が聞こえ、目を覚ました。まだ真夜中であった。周囲を見渡すと、バサバサと何かが音を立てている。警戒して周囲を見渡したが、夜行性のヨタカの仕業であった。どうやら四時間ほどしか眠れていないようである。しかしこんなところで寝ているのも気味が悪い。腕の土を払い、立ち上がって少しずつ歩を進めた。やはり右足の痛みを感じることはなかった。不気味に思いながらも、頭の中には爺さんのことしかなかった。爺さんのことを考えると、今まで抱えてきた様々な不安が押し寄せた。途端、崖をめがけて一心不乱に駆け出した。徐々に足が軽くなるのを感じた。何故か分からず恐怖であった。砂利道をもろともせず駆け抜け、コケの密集にも抗い、巨大な岩の塊の難所さえも乗り越えていくと、上空には厚い雲から顔を出す星空が窺えた。とうとう密林地帯最北部を抜けようとしている。
「待ってて、爺さん。今すぐ向かうから。」
全ての想いを一心に、全力で走り抜けた。そして、たった今密林をを抜けた。あのくっきりと縁取られた、おびただしい様相の山林から、抜けた。ああ、これである。あそこに見えるものに違いない。上を見上げると、ここを進んだ先に微かに崖のような薄暗い灰色の岩肌が見えた。そのはるか下、深い黒い森に包まれた部分の中心から、安らかな水の音が聞こえた。静かに波紋が広がっていくような音、どうやら湖があるようである。辺りに人の気配は、ない。トンネルの上の峠を越えてから、まだ誰とも話していなかった。急いで崖の麓へと歩を進めると、少しずつ、星の光が落ち着いていった。かつての漆黒の夜空は、もう群青に近い。一歩一歩を踏みしめて、遂に崖の荒い岩肌へと手をかけることができた。肩をしならせて、喰いつくも、なかなかに手ごわい。汗をかき、手が震え、鼓動が速まっている。全身の脈動を、指先に感じた。登らなければならない。少しずつ、そしてまた少しずつ、這っていった先には、灯りがあった。最後の力で這い上がり、新境地に降り立った。前方は暗い森に覆われていた。
ズタッ、ズタッ、と何やら足音が聞こえた。前を見ると、遠くの小屋からこちらへと近づいてくる人影があった。次第に足音はタッ、タッ、と変わり、少しずつ早くなっていく。こちらに近づいている。暗闇から小柄な男性らしき人が出てきた。暗く、顔がはっきりと見えない。相手はこちらを認識しただろうか。それでもなお、足音はこちらへと近づいてくる。タタッ、タタッ、タタッ、……
勇気を出して第一声をあげた。
「あの、すみません、この先は崖で非常に危険です。立ち止まってください。」
「分かっとるけぇ。そこをはよどかんかぁ、おい、」
この一言で確信した。咄嗟に前方の人の肩を掴み、強く抱きしめた。
「爺ちゃん。やっと会えたね。」
途端、右足に激痛が走った。恐ろしいくらいに引きつりながら。前からかかる彼の重みが全てを物語っていた。
「……、まさか君、彩の息子、、」
「そうです。息子の彩人です。だっ、だから。だからです。」
言葉が出てこない。今まで会ったこともないこの自分のことを、信じてくれるだろうか。
「ようわかっとるけぇ。母さん、死んじゃったってな。」
やわらかく、温かい手が重なった。爺さんの眼は、涙でいっぱいだった。
「そしてその母さんも、昨日、亡くなったんやな。」
突然、置かれた温かい手は振り落とされ、爺さんは崖の下をめがけて飛び降りようとした。
「ちょっ、待ってください、、爺さんっ、、、」
必死に爺さんの腕を掴んだ。絶対に行かせてはいけない。もう、絶対に。
「なんでそんなに足を引っ張るけぇ、、」
爺さんを強引に引き寄せ、奥の砂地に引きずり込んだ。
「聞いてください。もう、これは嫌です。いちばん、いちばん悲しいのは、僕なんですから。」
途端、自分も目が涙でいっぱいになった。ずっとこらえてきた感情が、もう抑えようもなかった。
「俺の奥さんなぁ、彩に申し訳ないとかゆうて、昨日の真夜中に、この崖から真下に落ちてったんよ。」
「爺さん、それだからって。爺さんが死んでいい理由にはならないよ。」
「爺さんは僕にとっての希望なんだからさ。」
「……、、っっ。ええよ。そういうのは、、っ。」
今までの静けさは、やがて互いの啜り泣く声に染まり、泣きながら話した爺さんの手が自分の右足に触れた。それは力強く、温かく、そっと添えられた。今までの激痛は、またいつの日かの幻覚のように、消えていた。
「……、爺ちゃん、本当にありがとう。」
見上げれば、上空は淡い橙色に染まっていった。そよ風が吹き、強く抱きしめ合った二人の背中をそっと撫でた。遮るもののない地平線の彼方から、太陽が顔を出している。キセキレイが甲高く鳴き、朝を告げた。
その光景はまさに、高潔な生命への讃美歌のようであった。
最後までご覧いただき、ありがとうございました。
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