水の底
夜の静けさの中、青木真理はふと目を覚ました。
気づけばぽたぽたと水滴が落ちる音だけが響いていた。
雨でも降ってきたのだろうか、とカーテンを開けるが雨は降っていないようだった。
何の前触れもなく、部屋の中に漂う冷たい空気が真理の体を包み込む。
深夜一時過ぎ、真理はしばらく眠れずに横になったままだった。
「……なんだか、変な感じ」
真理はベッドから起き上がり、足元のフローリングを踏みしめながらキッチンに向かった。
食器が散乱しているのを無視して、真理は無意識に水道の蛇口をひねった。
じゃーっという冷たい水が流れ出る音と共に、真理は意識を取り戻した。
「明日の朝洗おう……」
食後すぐに洗わなかったことを少し後悔しながら真理は食器を眺めていた。
すると、蛇口を少しひねってそのままだというのに、水道から出る水が急に勢いを増していった。
「なんで……」
少し恐怖を感じながらも、真理は蛇口を締めようと手を伸ばした。
その瞬間、水の流れが急に止まった。
「え?」
水道がおかしくなってしまったのかと思い、真理はそのまま手を伸ばして蛇口をひねってみた。
ぽた、ぽた、と水滴が落ちてきて、次第にさーっと細く水が出てきた。
その水の中に、薄暗い影が見えた。
最初は気のせいだと思ったが、次第にその影が形を成し、徐々に輪郭を持つようになった。
それはまるで、水の中から顔を覗かせているかのようだった。
思わず目をそらしたくなったが、真理はなぜか目が離せなかった。
水面から現れたのは、誰かの顔だった。
「な、なに、これ?」
その顔は人間のものとは思えなかった。
肌は青白く、目は黒く澄んでいたが、まるで底なしの暗闇のような深い黒。唇はほとんどなく、骨ばった顔立ちの中に浮かぶ薄い笑みが異様だった。
真理は恐怖に震えながらも、無意識のうちに後ずさりをしていた。
じわじわと近づいてくる顔から逃げるように後ずさりをしているうちに、真理は背中を冷たい壁に打ち付けた。
すると、顔は水面の中に沈み、すぐに姿を消した。
「なんだったの?」
混乱した真理は、もう一度蛇口をひねった。
しかし、水道から水が出ることはなかった。
ベッドに戻る途中、真理はふと足元を見た。
フローリングの床には薄く水が広がっており、徐々に広がりながら床を覆い尽くしていった。
急に足元が冷たくなり、真理は慌てて振り返ったが、そこには誰もいなかった。
真理は部屋の隅から何かからの視線を感じた。
それは、やはり水面に映った何かのような気がした。
振り向いてはいけない、という直感が真理の心を支配した。
それでも、目を背けることはできなかった。
「助けて……」
水の中から顔が再び現れる。今度はより近く、足元に近づいてきているように感じた。
「お願い、誰か助けて!」
その叫びもむなしく、真理の視界がぼやけていく。
ぽこぽこと音を立てて次々に水面に顔が浮かんでくる。
「やめて……」
真理は顔から逃げようとして必死に動こうとするが、思うように体が動かない。
「嫌だっ! 助けて!」
水が部屋中に広がり、その水面に映る無数の顔を見つめながら、真理は意識を失っていった。
そして、水面に浮かぶ彼女の顔が、最後にゆっくりと微笑んだ。