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時計塔の下


 駅舎前の広場には、寂れた炭鉱都市に似つかわしくない、大きな時計塔がある。


 この町の炭鉱は数年前、毒ガスの噴出により閉山した。以来、他に目立った産業もなく、炭鉱に頼りきりだった田舎町は、衰退の一途をたどっている。

 唯一、栄えていた頃に建てられた時計塔ばかりが、時を止めたように美々(びび)しく(そび)えていた。


 その下に陣取った靴磨きの少年は、商売道具の点検を終えて、深く息を吐いた。

 毎日酷使してガタのきている猪毛のブラシや、穴のあいた布巾は、少年の命綱だ。


 ——いったい、いつまで保つものやら。


 いくら丁寧に管理していても限界はある。少年の胸には底知れない不安が去来した。

 人口は減る一方で、客も最近ではなかなか訪れない。

 孤児の少年を雇ってくれるような店もなく、唯一働ける場所だった炭鉱は閉じてしまっている。


 鬱々と考え込む少年に、影が落ちた。

 ハッとなり振り向くと、質の良いフロックコートに身を包んだ紳士が立っていた。


「靴磨きですか? 今ならお安く承りますよ!」


 慣れた調子で営業をかけると、男は無言で頷いた。


「さっ、こっちに座ってください」


 作りの粗末な、しかし丁寧に磨き上げられた木製の椅子に男を座らせ、少年はその下に屈み込んだ。


「出張ですか? ここら辺では見かけない良い靴ですね」

「ああ、ロンドンから来たんだ。まったく、こんなみすぼらしい田舎などさっさと出て行きたいところだが」


 見下しきった様子でフンと鼻を鳴らす男に、少年は愛想笑いを浮かべてへつらう。

 暴言を吐かれることなど日常茶飯事だ。いちいち気にしていたらやっていられない。

 愚痴を吐く男を適当におだてながら靴を磨き、きゅっと布巾を一周させると少年は立ち上がった。


「さ、これでお終いですよ。お代はこちらに」


 代金を受け取り、大事に懐へしまい込む。

 足早に立去る男を見送っていると、フロックコートのポケットから、小さな紙切れが落ちた。

 少年はとっさに拾い上げ、声をかけようとしたが、紙切れに刻まれた文字を目にして息を飲み込んだ。


 明日出発する汽車の切符。ロンドン・ブリッジ行きだ。


 これを使えば、都会に行ける。この閉塞した何もない町から出て行ける。

 少年はどんなに貧しくとも、盗みだけはしたことがなかった。それは亡くなる前の母の言葉があったからだ。


『人に恥じる生き方をするくらいなら、死んだ方がましだ』


 それが彼女の口癖だった。


 この切符を返すべきだ。それはわかっている。それでも少年の喉からは、男を呼び止める言葉は出てこなかった。


 同じところをグルグル回る時計の針みたいに、この時計塔の下で生きていくのか。この先もずっと?

 少年が葛藤している内に、男は姿を消してしまう。


 ——あの人がもう一度ここへ来たら、落し物はないかと尋ねて来たら、その時は返そう。


 そう決めて、少年は切符を鞄へ入れた。






 ——結局来なかったな。


 ギリギリまで待って、それでも男は現れなかった。

 意を決して少年は駅舎へと入る。


 今まで足を踏み入れたことのなかったその場所は、少年が想像していたよりも普通の建物だった。現実の、輸送のために作られたもの。プラットフォームには屋根も無く、風雨にさらされた無骨なレールばかりが横たわっている。

 忙しくに立ち働いている職員が、小汚い身なりの少年を胡乱げに見やった。


 唐突に、少年は冷や水を浴びせられた気分になった。

 ここは、過酷な現実から夢の世界へ連れ出してくれる、魔法の何かではない。


 立ち尽くす少年の耳に、切符売り場の話し声が飛び込んできた。


「そうそう、帰りの切符も買っておきたいんだよ。そう、その日付でね」


 ——帰りの切符。


 そんなものは持っていない。つまり、汽車に乗れば、何があろうと元の日常に戻ることはできない。


 恐れが背筋を這い上る。


 遠くから汽笛の音が迫って来た。考える時間は残されていない。


 どこかへ行けば、何かが変わる。都会へ行けば、きらびやかな世界へ入れる。働く場所なんて、劣悪な環境の紡績工場でもなんでもいい。それでもそこで頑張って、きっと今とは違う人間になって。そんな夢想が、ゆっくりと色を失っていく。


 人の葛藤など知らぬげに低い音を立てて、汽車はプラットフォームに滑り込んできた。

 汽車のドアから人が吐き出され、新たに人が飲み込まれても、少年の足には根が生えたままだった。

 

 これに乗れば、何かが変わる。それが良いものでも悪いものでも、変わる前には戻れない。


 ドアの前で少年は、強く切符を握りしめた。


 時計塔の鐘が鳴る。針がカタリと音を立てて、先へ進んだ。

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