第八八話 カエルのゴーストは実在します その3
「我が名は、ナイアルド=クルスト・ロルド・イスマイル・アウラ・エナ・エラハルド・ハジェク・イス・イスマイル」
「我が名は、宮本澄香」
二人の合わせた掌から、光が溢れ出す。
「古の盟約と」
「我が名の下に」
光は大きくふくれあがり、
「「今ここに、契約を結ぶ!!」
世界を真っ白に染め上げた――!
なんて感じの、ファンタジーな展開はなく。
「じゃあ、これに必要事項を書いて」
アタシは白紙の紙を一枚、ド変態に手渡した。
「………何だこれは?」
「何って、今から書類作るんだよ。それが契約書になるんじゃん」
「書類!? 事務仕事なのか!?」
「当たり前じゃん。契約なんだもん。書類じゃなくてどうすんの?」
アタシが言ったことは、至極まっとうな事だと万人が認めるはずだ。
それが例え夢の中の出来事だとしても。
「いや、確かにそうだが…。何かもっとこう、神秘的なアレとか摩訶不思議なソレとか…」
ま、ド変態の気持ちも分からないでもないけどさ。
けれど、その何て事無い紙だって、十分ファンタジーなシロモノなのだ。
そもそも、その紙が一体どこから出てきたのか?
アタシには分からない。
気がつけばジャージのポケットの中にあったのだ。
四つ折りになっていたそれは、広げると折り目一つ付いていない真っ新な紙になった。
こういう場合、ナゼだとかドコからとか決して口にしてはいけないということを、アタシは経験上知っている。
そう、特に夢見がちな世界観の持ち主の前では。
夢の中の出来事を、一々精霊だとか神サマだとかに責任を押しつけちゃあ、近代科学にもまれた無意識の立つ瀬がなくなるってモンである。
だからアタシとしては。
「なんと薄い紙だ。それに純白とでも言うべきこの白さはどうだ? これが精霊の…」
ドスッ!!
「ぐっ」
「黙って書けっ」
不適切な話題を阻止するための努力は惜しまないのである。
「な、何故蹴る…?」
「殴る方がよかった?」
「そうではなく」
「ああ、そっか。そういうことね。ごめ~ん。アタシはアディーリアじゃないから、思いっきり人殴るとか蹴るとか、そういうことできないから。それくらいの強さで、勘弁して」
「そうではなくっ」
なんて多少の紆余曲折の後、ド変態は無事契約書を書き終え、次いでアタシも必要事項を書き込んでいく。
アディーリアの時は、子供だったこともあって、自分の方から条件を出すとかいう知恵はなかった。
まあ、いろいろといっぱいいっぱいだったってコトもあるんだろうけど。
だから無条件にアディーリアの魂を丸ごと受け取ってしまった。
けれど二十歳を超えた今では、流石に多少の知恵はある。
「できた。アタシからの条件はこの通りだから、読んだらサインして」
「何々? 『尚、魂を受け取るにあたって、受託者は委託者の個人的な記憶は引き継がないものとする』?」
ド変態と契約する覚悟はできた。
けれど、ド変態の後悔にまみれたドロッドロの記憶まで、受け継ぐ気はない。
更に言えば、チビド変態を脳内に住まわせる気もサラサラない。
なので、何とか回避する策はないかと考えた結果が、この条項である。
これでどうにかなるはずだ。多分。
アタシがその旨を説明すると、ド変態は意外と素直に頷いた。
「それは、別に構わん。余としても、余とアディーリアの甘酸っぱい思い出を他者に知られたくはない」
そんな思い出、もっといらんからっ!
「しかし、この書き方だと、ますます事務処理くさくなるな…」
「別にイイじゃん。ビジネスライクにいこうよ。アンタとアタシの間にキヅナとやらはないんだからさ」
「それはそうだが。アディーリアとの契約の時もこうだったのか?」
「まさか。アディーリアがそんなに簡単にいくかよ。契約書は五十枚以上あったし」
ま、その大半が、ケロタンの性格設定に関することだったんだけど。
――ねえ、なんでこの白いのは、バイなワケ?
――その方がおもしろ、リズには常識に囚われない広い視野を持って欲しいのよ。
――今、おもしろそう、って言いかけたよね? おもしろそうって!!
――いやあね。この子ったら、バカなこと言って。オホホホホホホホホ。
そんなやりとりが五体分!
何時終わるとも知れない作業に、アタシは何度気が遠くなりかけたことか。
いや、現実に気が遠くなりまくってたワケなんだけれどもさ。
「だから、アタシとしては、今回は簡潔に済ませたいワケよ」
アタシが溜め息混じりにそう言うと、ド変態は意外そうな顔で言った。
「五十枚…。アディーリアにしては少ないな」
「は?」
「アディーリアは余と婚姻を結ぶ折に、千飛んで六十八枚の誓約書を…」
そう言ってド変態は遠くへ眼差しを送る。
「ああ」
その時の記憶は、アタシも持っている。
そしてその時のアディーリアの心情も知っている。
「アレはさあ、アディーリアとしてはさあ、別に事細かな誓約が欲しかったワケじゃなく、誓約書を出す度にアンタがトホホな顔するのが、楽しかっただけなんだよね」
「なんとっ! 余は、一枚また一枚と誓約書を差し出される度に、余のことが信用ならぬのか、アディーリアはひょっとして我が罪を知っておるのではないかと…」
なるほど。イロイロと煩悶したワケね。
でも、それくらい煩悶してもいいと思う。
アンタのやらかしたことを思えばさっ。
ド変態にはド変態の事情がある。
けれどアタシはどうしたってアディーリアの方に肩入れしてしまう。
記憶を引き受けるってのは、そういうコトだ。
記憶には、必ず感情がつきまとう。知識との決定的な違いはソコだ。
千人いれば千人の事情と理由と正義がある。
記憶を受け継いだら、問答無用でそれらを背負い込むことになってしまう。
「アタシはさ、アディーリアのでいっぱいいっぱいなんだよね。アンタのまで引き受けたら、精神が破綻しちゃうよ」
「それは困る。そなたには、今後も存分に働いて貰わねばならぬからな」
「そういうこと。じゃ、納得したところでサインして」
「うむ」
ド変態は、末尾に長い長いサインをした。
その契約書を受け取って、もう一度文面に目を通す。
ド変態の願いは、最初に言っていたものではなかった。
――アディーリアに再び相見えること。そして、決して二度と離れぬよう共にあること。
以前男は確かにそう言ったと思う。
けれど、今目の前の契約書に書かれている事は…。
「……アンタの願い、確かに引き受けた」
男のサインの下に、日本語でアタシの名前を書き込んだ。
その瞬間、契約書が僅かに光り、
「ほい、写し」
「……便利なものだな、というべきなのか?」
「いいんじゃないの? 夢だし」
アタシとド変態は一枚ずつ契約書を持った。
「んじゃあ、いきますか」
「うむ。短い間であったが、世話になったな」
「バーカ。これからの方が世話しまくりなんだよっ」
「そうであったな」
ド変態は苦笑に、アタシはケッと悪態をつく。
それがアタシとド変態の、最後の会話になった。
アタシは手元の契約書をクシャクシャッと丸めると、ポイッと口の中に放り込む。
ド変態も同じ様に口に入れる。
ムシャムシャムシャ。
アタシ達は無言で、ひたすら紙を咀嚼する。
何とも間抜けなやり方だけど、決まりだから仕方がない。
誰が決めた決まりだとかって訊かないで欲しい。
アタシだって知らないし。
分かっているのは、これを飲み込めば契約成立ってコトだけだ。
ムシャムシャムシャ、ゴックン。
アタシとド変態が、殆ど同時に飲み込んだ瞬間。
パシュッ。
ド変態の姿は弾けるように霧散した。
途端に鈍痛が後頭部を襲う。
キンッと耳鳴りがして視界が霞む。
と同時に脳裏に閃いたのは、優しげな、と言えば聞こえは良いが、ぶっちゃけ言えば気の弱そうな男の顔。
黒い髪と蒼い瞳をした、明らかにうだつの上がらないであろうオヤジ顔。
その顔が、泣いたり、笑ったり、泣いたり、ベソかいたり、困ったり、泣いたり、焦ったり、慌てたり、ベソかいたり。
いや、オッサン! いくら何でも、泣きすぎだろうっ!
しかも、いい年して、ベソって! ベソって!!
アタシは痛みを振り払うように、渾身のツッコミを心の中で叫んだ。
――クスクスクス。
ふと、誰かが笑ったような気がした。
クスクスクス。
笑い声に洗われるかのように、痛みが引いていく。
元に戻った視界が捉えたのは、一人の少女。
紺色の髪とオレンジ色の瞳をした、小柄な少女。
鏡の中で見た顔が、そこにあった。
「ジェイディディア…」
アタシがそう呟くと、少女はゆるゆると首を振った。
「私は、ジェイディディアであってジェイディディアじゃないわ」
「………」
ブルータス、お前もか。
アタシは思わずそう漏らしそうになったけど、辛うじて留まった。
いや一応、初対面だし?
アタシだって、ちゃんと空気が読める人間だし?
「じゃあ」
誰?
と訊ねる声は、少女の声に遮られた。
「私はルディナリア」
小柄な少女の姿が、黄緑色の髪とピンクの瞳をした美少女に変わる。
「私は、サリナ」
次いで、黒髪の巨乳少女に。
「私はオルタシア」
そして、恰幅のいい三十代後半の大人の女性に。
「私は……」
名前を名乗る度に、クルクルと姿が変わる。
一体幾つの姿になりかわったのか、数えるのも嫌になって暫くして。
「そして、私はジェイディディア」
最後に再び、小柄な少女の姿になった。
いや、正確に言えば、少女はもう少女ではなかった。
幾らか年を経た、大人の女性になっていた。
相変わらず頼りないくらい華奢だけど、それだけじゃない大人の落ち着きがあった。
女性はニッコリと晴れやかな笑みを浮かべると。
「ありがとう、あの人の、シセリゼスの顔を取り戻してくれて。存在の消されたあの人を、壊れた私は、取り戻すことができなかった」
ええと。
「それってどういう…?」
「あの人の顔を思い出そうとすると、陛下の顔になるの」
「だから、クリシア国王の顔を認識できないようにした?」
アタシの問いかけに、ジェイディディアは頷いた。
「あなたには、いろいろと迷惑だったわね」
そりゃまあ、確かに。
お陰でド変態なんかと契約しなきゃなんないハメになったし?
けれども、愁傷な顔で謝られると、責め難い。
というか、ジェイディディア達は、何も悪くないのだ。
「あ、いや、別に。お陰でイロイロと分かった事もあったし」
シドロモドロに答えるアタシに、ジェイディディアは軟らかく微笑んで言った。
「ありがとう」
ジェイディディアの姿がじわりと滲む。
あ、まだ訊きたいことがっ。
そう思って、反射的に手を伸ばす。
けれどもその手が届く前に、ジェイディディアの姿はサアァッと風に吹かれる砂のようにように消えていった。
ピシリッ。
物音に顔を上げると、暗闇に亀裂が入っていた。
ああ。
夢が消えるのだ。
あの、優しくも悲しい夢が。
ピシリ、ピシリと亀裂が入る。
アタシは、ジェイディディアの顔を思い浮かべた。
それから、魔女っ子美少女ルディナリアや、乳のデカいサリナ、熱血闘茶戦士オルタシアさん。
次々と目の前に現れた、沢山の人々の顔を思い浮かべた。
あの中に、妃殿下の顔はなかったな。
そんな事を思いながら。
暗闇に無数に走った亀裂を見つめた。
そして直ぐに、目を逸らした。
いや。
待て。
待て待て待て待て待てっ。
アタシは再び顔を上げ、やっぱり直ぐに視線を逸らす。
亀裂に。
異変が生じていた。
いや、異変っていうか。
怪異って言うか。
亀裂の向こうに、あるはずのもの。
それはあの懐かしい、何もない空間であるハズだ。
てか、そうじゃなくちゃいけないと思う。
なのに亀裂の向こうに見えるのは。
正確に言えば、亀裂の向こうから覗いているのは。
いやマジで。
覗いていますっ。
思いっきり、覗き込んでいますっ!
小山程もありそうな、ドデカいカエルが!!
「ゲコ―――――――――――ッ!!」
カエルは一声鳴くと、待ちかねたとばかりに亀裂に指をかける。
そして。
ミシリ。
ミシリッ。
ミシミシミシミシミシ――――――――ッ!!
なんと、カエルが亀裂にその巨体ねじ込んできたではないかっ。
「ぎゃ~~!! 破んなっ!! 他人様の夢をっ!!」
「ケロケロケロケロケロッ!!」
まるで何事か文句でも言っているかのようにカエルが鳴いた。
かと思うと、とんでもなく長い舌が飛んできた。
「うわああっ! 何すんだっ!!」
アタシは咄嗟に避けた。
避けきれたアタシを誰か褒めてほしいっ。
「喰う気か!? また喰う気なのか!?」
「オゲゲゲゲ―――――!!」
「ぎゃあああああああああっ!!」
カエルの雄叫びを背に、アタシは猛然とダッシュした。
誤字修正いたしました。
ご協力ありがとうございました。