第八七話 カエルのゴーストは実在します その2
――何故です!? 妃殿下!
――存じておるか? 妾に妃殿下と呼びかけるのは、そなただけだと。夫である陛下ですら妾を皇女と呼ぶのだと。
――妾を恨むがよい。憎むがよい。そなたの国を滅ぼすのは他でもない妾なのだ。
――離して! 離してちょうだい! シセリゼス!
――その者ならば、王宮の隠し通路を熟知しておる。そのためにこの国に派遣されたのだからな。
――皇女聖下。私は…。
――そなたはそなたのなすべき事をした。そして妾は妾のなすべき事をするまで。
――私は…、私は!
――皇女たる妾が共に死するが、滅び行く国へのせめてもの手向けだ。
――妃殿下! 妃殿下! ああ! どうか生きてください! 王女殿下の御為に!
――願わくば、アディーリアを皇国の軛から自由にしてたもれ。
何故!?
何故!?
何故!? 何故!? 何故!? 何故!? 何故!? 何故!? 何故!? 何故!? 何故!? 何故!? 何故!? 何故!? 何故!? 何故!? 何故!? 何故!?
暗い地下道を走り抜けながら、その言葉ばかりが頭を巡った。
頭の中が混乱して、自分の前を走る神官服の背中すら、信じられなかった。
両腕の中の重みと温もりだけが、確かな事に思えた。
愛していたのに! 信じていたのに!
怒りよりも、憎しみよりも、ただただ、悲しかった。
それでも、逃げ延びた先での生活はとても穏やかなものだった。
王都から逃げ延びてきた神官と幼妻とその子供。
子供は実子ではなく、養女ということにした。
神官が、貧しい出の聖者を養子に迎える事は珍しいことではないからだ。
戦渦の遠い小さな村の人々は、とても親切にしてくれた。
「殿下。お人形遊びをしましょう。でもここにはお人形がないので、殿下がお人形です。殿下の一番のお気に入りのフィオリナを覚えておいでですね? 殿下は今日からフィオリナです」
「じゃあ、ジェイは? ジェイは、どのお人形になるの?」
「そうですね。ジェイディディアは、フィオリナの姉君セルリアンナになりましょう」
――陛下!? 生きておいでだったのですか!?
――探したぞ、ジェイディディア。アディーリアの保護、大義であった。
――戦死されたと…。
――そう。戦死した。クリシア国王は死んだのだ。クリシアと我が妻フランシーヌ皇女と共に。
――ではやはり、皇女聖下は…。
――あれらしい、見事な最後であった。
――ああ、そん、な…。
――さてと。そこな神官、返して貰おうではないか。我が掌中の玉を。そして貰い受けようぞ。そなたの身分を。
――迎えにきたよ、ジークリンデ。
――キリアス兄様!?。
――さあ帰ろう、我が婚約者殿。
――あなたが! あなたが、シセリゼスを!!
――一介の神官如きが私の、ラゼーラ家の大切な花嫁を誑かしたのだ、当然の報いだろう?
――そなたにはアディーリアが懐いておる。暫し同行を許そうぞ。
――妃殿下が! 妃殿下が望まれたのは!
――それを叶えてやれぬのは、心苦しい限りだが。私には私の目的がある。そのためならば、娘をも利用しよう。
――陛下!?
――詰まるところ、あれも私も、紛う事なき皇家の血筋だということだ。
――あなたは死ぬ! あなたは死ぬ!
――神懸かりか!? よかろう! その呪い、しかと受けて立とう!
――フィオリナ様は真実の奇跡を得て、あなたの軛から飛び立つでしょう!
――フィオリナ!? それが孫の名か!? 女児なのだな! ならば皇女に相応しい奇跡を用意しようぞ!!
――いいえ! あなたは死ぬ! あなたは死ぬのです! フィオリナ様の栄華を前に!
――いいや!! 私は生きる! 生きてみせる! 砂を食んででも、生きてみせようぞ!
――母様。
――セルリアンナ、可愛い子。あなたの髪と目は本当に綺麗。それはシセリゼスから譲り受けたものなのだから大事になさい。
――母様…。シセリゼスって、誰ですか?
――いやあね。あなたのお父様じゃないの。
――母様…。私の黒髪は、母様の父君譲りで、私の蒼い瞳は、父様の母君譲りだと皆が言います。
――いいえ、あなたの髪と目はシセリゼスから受け継いだものよ。
――ああ、母様。父様なんですね。父様が、母様の心を壊してしまったのですね。
夕暮れ時になると、幼い王女殿下は私に必ずお訊ねになった。
「母上は、どんな方?」
「妃殿下は、素晴らしいお方でした。それはそれは美しく、腕っ節が強く、全てにおいて思いっきりの良いお方でした」
「じゃあ、父上は、どんな方?」
「妃殿下を、この上なく深く愛しておいででした」
そして必ず、私は王女殿下にこう申し上げるのです。
「お二人とも、闇の双性神の御許で安らかにお眠りになっておられます」
気がつけばアタシはしゃがみ込んで、まるで水鏡のように足下に映し出されたジェイディディアと、ジェイディディアの細い腕に抱かれる幼いアディーリアの姿をボンヤリと眺めていた。
辺りは暗闇で、二人の映像がテレビ画面のように、明かりを投げかけていた。
走馬燈の様に駆け巡った断片的な記憶に悪酔いしたみたいな最悪な気分だったけど、窓辺に座ってオレンジ色の夕日を受ける二人の姿に、僅かながら心が和む。
二人は微笑み合い、時折囁くように耳元に口を寄せ語り合う。
親子と言うには年が近すぎ、姉妹と言うには年が離れすぎる、全く似たところのない二人は、けれどもアディーリアの信頼しきった表情と、ジェイディディアの慈愛溢れる微笑みに、家族と呼ぶに相応しい何かがあった。
例えそれが、仮初めの、僅かな間の儚い関係だったとしても。
アタシは、そんな二人の姿から目を離さずに言った。
「結局さ、アンタはドコにいたワケ?」
その問いに、もう若作りしていない変態中年が、疲れ切った声で答える。
「………ニレニア王女の中だ」
そりゃまた。
全くの予想外だ。
てっきり、クリシア国王の中にいるモンだと思ってたのに。
アタシのカンも、チビアディーのカンも、全く当てにならりゃしない。
てか、チビアディーも結局のトコロアタシだから、二重の意味でアタシのカンが当てにならないってだけの話なんだけど。
「夢の中でニレニア王女には会わなかったけど、まさかアンタ、アタシ達から逃げてたってか?」
「それは違う。余はニレニアの中にいただけだ。全く自由は利かなんだ」
へ~、ふ~ん。
アタシ達は自分の意志で動けて、このド変態が動けなかった理由は、きっとジェイディディアの中にあるんだろう。
それを知りたいような気もするけれど、夢が解けた今、それを問うても意味がない。
先程の断片的な記憶の中に、このド変態は出てこなかった。
けれど、ジェイディディアは知っているのかもしれない。
「で? どんな気分だった? 自分が陥れた人間の中にいるのって」
アタシは首をのけぞらして、男に訊いた。
「………気づいておったか」
ド変態の苦虫を噛み潰したような表情に、けれどもちっとも気分は晴れない。
実は殆ど当てずっぽうだったけど。
そこら辺は、ド変態には勿論内緒だ。
たださ、アタシはアタシなりに考えたワケよ。
クリシア滅亡のきっかけは、クリシア王族のゴーシェ王族への侮辱だ。
けどさ、クリシア王族だってバカじゃない。
格が上たって、国力じゃあ断然劣る小国が、ゴーシェを怒らせて得なことはないってコトくらい、十分承知しているハズだ。
けどさ、まだ幼い王女だったら?
十四、五歳っていったら、反抗期まっただ中だ。
世界は自分を中心に回っていないと気づき初めて、自我の拠り所を求めている真っ最中だ。
そこにつけ込まれたとしたら?
このド変態が、アディーリアの未来の夫の座を条件に、神教と取引をしたとしたら?
「………幼さを差し引いても愚かな王女であったよ、ニレニアは。自分が何をしているのか、全く理解していなかった」
その声に、皮肉な響きはなかった。
寧ろ、自嘲するかのような声音だった。
「王女サマに何て言って唆した?」
「大公家の正妃となるに相応しい血筋と家格を持つ者であることを重々自覚するように、だな。多感な少女の自尊心をくすぐるのは、面白い程容易かった」
「ふうん。思惑通りになって、良かったね」
皮肉たっぷりにそう言ってやると、男は苦渋を顔中に浮かび上がらせる。
「ニレニアは、成人すらしていない子供だった。所詮は子供の戯言だと、ニレニアの蟄居と、婚約の取り消し、多少の賠償金と、公式の場での謝罪。落とし処は、そんなところになるはずだった」
「けど、ゴーシェはクリシアを滅ぼした」
「余にとっても神教にとっても、予想外であった」
神教も見誤ったってコトだろうか? ゴーシェのクリシアへの鬱屈の深さってヤツを。
でもそれって、本当に?
最悪、クリシア滅んでもいいとかって思ってたんじゃねえの?
アタシの神教への不信感は、今回の出来事でますます深くなる。
「………真実アディーリアを愛するようになって、余は己の罪深さを思い知った」
なるほど。
だから、あの姿だったのか。
アディーリアの故国を滅ぼした罪悪感。
あの少年姿は、まだそんなものを持たなかった頃のもの。
けれどどんなに後悔したところで、アンタのしたことは消えたりはしない。
そう責めるのは簡単だけど。
「余もまた、ニレニアと同じだ。愚かな子供であった。聖者というだけで優秀な兄を差し置いて太子となったと、そう噂されることに耐えられぬ程弱かった」
「だったら頑張れば良かったじゃん。兄ちゃんに負けないくらいにさ」
「どれほど努力したところで、死んだ者には勝てん。その死すら、余のせいだと言われれば、努力するのも馬鹿らしい。ならばいっそ、聖者であることだけが取り柄なら、聖者であることを最大限に利用してやろうと…。それもまた、浅はかな考えであったがな」
「アンタの個人的な事情とか、マジでどうでもいいし」
ホンット、マジでどうでもいい。
アタシは、アンタの事情とやらを受け入れる事も拒否することもしない。
マジ放置の方向で。
独り事情を抱えて死にやがれっ。
て、もう死んでんだったか。
ケッ。
「アンタはさ、知ってたんだよね? ヴィセリウス大神官が」
アディーリアの実の父親だったって事を。
「無論、知っていた」
「その事をアディーリアには」
「言えるわけがなかろう」
そりゃそうだ。
自分のしでかしたことも言わなきゃなんなくなるもんね。
断片的な記憶をつなぎ合わせると、例のモザイク顔のヴィセリウス神官を殺したのは、アディーリアの父親クリシア国王だ。
実行犯はジェイディディアの婚約者だっていう「キリアス兄様」みたいだけれど。
国王は、殺したヴィセリウス神官と取って代わり、皇女兼聖者の後見人として大神官にまで上り詰めた。
その大神官も、リズの神人認定を前に死んでしまった。
ヴィセリウス大神官は、クリシア国王は、一体何がしたかったんだろう。
記憶の中で、ジェイディディアにアディーリアを利用するって言ってたけど。
自分の国を滅ぼした神教の中で、最高位に上り詰める事?
そんなことのために、アディーリアから父親を奪ったんだろうか?
それで一体何を得たって言うんだろうか?
「………アディーリアはさ、アンタの事が、本当に好きだったんだよ」
それが、お膳立てされたロマンスだったとしても。
そしてそのことに、気がついていても。
「知っておる」
なんだそりゃ、即答かよっ!
腹が立ったので、アタシは男のスネに思いっきり拳を打ち付けてやった。
トスッと音は小さかったけど、
「!!!!」
痛みは、声も出ない程だったらしい。
所謂弁慶の泣き所ってヤツだ、そりゃ痛いだろうよっ。
ザマーミヤガレ! バーカバーカバーカ!!
「の、罵りが声に出ておるぞ…」
「当たり前じゃん! 声に出してんだからよっ」
アタシは憤然と立ち上がって、男の足を思いっきり踏みつける。
「くっ!!」
そして屈み込んだ背中にエルボーを食らわせた。
のたうち回る男にむかって、もう一度心の中でザマーミロと罵りを浴びせかける。
アディーリアの痛みはこんなもんじゃない。
ジェイディディアの痛みはこんなもんじゃない。
ニレニアはまだ十四歳で、自殺だか他殺だか分かんないけど、さぞかし怖かったのに違いない。
男もまた神教に利用されたんだと。
クリシア国王もまた犠牲者なんだと。
理性では分かっていても。
アタシがここで怒ったって何も変わらないんだと分かっていても。
暫く経って、男が漸く痛みから復活する頃合いを見計らい。
思いっきり大きく息を吸い、そしてゆっくりと息を吐く。
「さて、契約してやろうじゃないの」
アタシはそう言って、男に向かって手を差し伸べた。
この悲しすぎる夢から脱出するために。