第六二話 カエルの母性と父性は、ちょっと恐い その4
ゆっくりと瞼を開けると、そこはもう馴染みになってしまっている薄暗い空間だった。
遙か頭上に青い月。
そして目の前には、紫の髪をした絶世の美女。
「アディーリア」
アタシは、強烈な既視感を覚えながら美女の名前を呼んだ。
なんだろう。
クラクラする。
軽く酒が入っている様な酩酊感が、視線を惑わせる。
ええと。
なんでアタシ、アディーリアを見上げてんの?
いや、勿論、アディーリアは多分百七十近くあったから、今のアタシでも十分見上げる身長差があるんだけれどもさ。
それにしても、これはちょっと見上げすぎじゃね?
この前あった時は、もうちょっと目線が高かった様な…。
「ええと、アディーリア、ちょっと見ない間にデカくなった?」
アタシがそう言うと、アディーリアはコロコロと鈴の音の様に笑った。
「そんな訳ないでしょう。相変わらず妙なことを言う子ね」
何故だろう。
アタシは突然気がついた。
これは、目の前にいるこの美女は「アディーリアであってアディーリアではないアディーリア」じゃないって事に。
う、ややこしいな。
「えっと、本物?」
「どういう意味?」
器用に片眉を上げてそう訊いてくるアディーリアに、アタシは何と言うべきかと口ごもりながら言った。
「や、普通に、偽物じゃないなら本物なのかなって」
アタシの言葉を、アディーリアは顎を上げてフフンと鼻で笑う。
「偽物の私がいるとでもいうの? 私の偽物? そんなのがいるなら、呼んでらっしゃい。唯一無二の私をどこまで真似られているのか、見物というものよ」
優しげな顔立ちをして、なんて高慢な表情が似合うんだろう。
こうして見ると「アディーリアであってアディーリアでないアディーリア」は、確かに紛い物だ。
何がどう違うのかと聞かれてもハッキリとは答えられないけど、気品というか風格というか、迫力というか馬力というか…。
最後のは、何か違うような気もするけど。
けれどなんで、「本物」がいるわけ?
アディーリアはもういない。
だって。
アタシが、喰った。
あの時。
アタシが喰ったのだ。
生きるために。
「澄香」
アディーリアが、まるで当たり前の様にアタシの名を呼ぶ。
アタシは改めて、アディーリアを見上げる。
ああ、そうか。
これはあの時の記憶の再生だ。
なんでアタシの言葉に受け答えしちゃってるのかは不明だけれど、記憶なんて幾らでも捏造できる。
そう。
アタシが「この記憶」を、そうしたように。
アディーリアがゆっくりとアタシに向かって腕を差し出す。
ほっそりとした腕は、高飛車な言動からは想像も付かないくらい儚げで、悲しいくらい優しげだった。
「さあ、ソレを渡しなさい」
アディーリアが言った。
どこか諭す様な、どこか哀れむ様な、それでいて決然とした意志を込めて。
アタシはその言葉に反応して、腕の中のモノをギュッと固く抱きしめた。
そう。
アタシはずっと、抱きしめていた。
抱きしめていたのだ。
まるで縁の様に、ソレを。
抱きしめる力が強すぎたのか、或いはアタシの不安に反応してか、腕の中のモノが泣き出した。
火が点いた様な泣き声が、薄暗い空間を振るわせる。
ワンワンと鼓膜に反響して、その声の強さに圧倒される。
なのに、アディーリアの静かな声は不思議なくらいハッキリと聞こえた。
「ソレは今のあなたにとって『有害』でしかないわ」
小さな体から発せられる泣き声は、どこまでも力強く、どこまでも生命力に溢れていて。
だからアタシは、ひたすら体を固くすることしかできなかった。
アタシは知っている。
その先の事を。
アタシは何をどうするのか。
ううん。この時だって、アタシ自身知っていた。
結局のトコロ、アタシはソレを手放すのだと。
ああ。
お母さんの声が、耳の奥でこだまする。
澄香、アンタ、今度お姉さんになるのよ。
再び瞼を開けると、アタシは暗闇の中に立っていた。
上も下も右も左も分からない、自分の手足すら定かじゃない暗闇で、唯一つの光源である薄い膜に対峙していた。
薄い膜の中には、お腹を守る様に丸くなっているアディーリア。
こちらを見返す金の瞳は、不安げに揺れている。
なるほど、これは確かに紛い物だ。
本物のアディーリアなら、こんな目はしないだろう。
アディーリアであってアディーリアではないアディーリア。
アンタはアタシとアディーリアとで作ったモノだ。
腹の中のモノの入れ物として。
「自分の有害な記憶」を「他者の有害な記憶」で包み込んで、意識の奥底に沈めた。
二重三重に封印したソレは、九年かかって生まれるまでに育った。
或いは、九年かかって封印が綻びたのか。
叔母さんが言ったように、アタシ自身がそうと望んでいるのか、アタシには分かない。
生きていく上で「有害な記憶」。
そんな風に言うべきじゃない。
そうと分かっていても、それでもあの時のアタシは、それを抱えたままでは生きていけなかったのだろう。
そして同時に。
ソレを捨ててまで生きたいと願った、自分本位さに。
絶望しながら、アタシは生きることを選んだのだ。
――亡くなった家族の分までしっかりと生きなさい。きっとご両親が何より願っている事よ。
両親の分まで。
家族の分まで。
そんな事を言われずとも、そんな綺麗な理由を付けなくても。
アタシは生きることを選んだ。
寧ろ生きるために、捨てたのだ。
いや。
捨てきれなかった。
だから封印した。
その未練がましさに。
更にアタシは失望した。
他の誰にでもなく、アタシ自身に。
絶望しながら失望しながら、それでも自分を選ぶアタシ自身に、アタシは強い不信を抱く。
アタシはアタシを信じられない。
人間不信。
誰かに何度かそう言われたけれど、確かにそうかもしれないと今は思う。
多分アタシは、誰より何よりアタシ自身が信用できないのだ。
それでも、ソレを取り戻したなら、或いは少しは信じられる様になるのだろうか?
「アディー」
アタシは名前を呼んで、膜にソッと手を触れた。
膜の中のアディーリアが、それに応える様に手を伸ばす。
ふと思う。
腹の中のモノを受け取ったら、このアディーリアはどうなるのだろう?
役割を終えて消えるのだろうか?
そうなると、アディーリアの「有害な記憶」も抱え込む事になるんだろう。
前にチラチラと過ぎったアディーリアの記憶に、そこはかとない、どころじゃない不安を覚える。
アディーリアの性格は、ただ悪いだけじゃない。そりゃ優しいところもあるけれど。それ以前に、ぶっちゃけ言って歪んでいる。
蝶よ花よと育てられながら、人の手本であれと育てられながら、どこをどうすればあんな性格になるのか。
そりゃもうドエラい記憶が潜んでいるのに違いない。
………大丈夫か? アタシ。
この期に及んで怖じ気づく。
いや、勿論、受け取るよ。自分のモノは。受け取るけどさ。
「あ、ちょっと待っ」
まだ心の準備がっ。
と言おうとしたけど、間に合わなかった。
膜越しに指と指が触れた瞬間。
ニマリ。
と、アディーリアであってアディーリアじゃないアディーリアが嗤った。
えええええええええええええええええええええ!?
何その嗤い方!
こういう時は、もっとこう違う笑い方するモンじゃねえの!!
晴れやかだったりさ、穏やかだったりさ、包み込む様だったりさ、するもんじゃねえの!?
アタシの戸惑いと不安を余所に、指先からパアアアアアアアアアアアアアアアアアアッと光が広がって、周囲の闇が払われてゆく。
視界がホワイトアウトして、どこからともなく楽しげな声が聞こえてきた。
寿限無。
寿限無。
五劫の擦り切れ。
海砂利水魚の。
水行末。
雲来末。
風来末。
食う寝る処に住む処。
やぶら小路の藪柑子。
パイポパイポ パイポのシューリンガン。
シューリンガンのグーリンダイ。
グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの。
長久命の長助。
よ!
「ほ~ら、次は澄香だぞ!」
「また~。十八回目だよ? お父さん、『耐久八時間寿限無』とか、止めようよ~」
「はっはっはっはっは~。澄香! そう、まだたったの十八回だからな。可愛い愛娘のお願いでも、お父さんは聞かないぞ~」
「お母さんも、何とか言ってよ~」
「大丈夫よ、澄香、八時間もお父さんの集中力が持つわけないでしょう。第一、このドライブも八時間もは掛からないわ。あと一時間もしない内に、着くしね」
「そんなの分かってるよ。分かってるけどさ! でももう、エンドレス寿限無はイヤ~~~~~~!!」
「エンドレス寿限無! 澄香はウマいこと言うな!!」
「これだったら、『哀愁カエルの歌』の方がマシじゃボケ~~!!」
「ボケとは何だ! 酷いな澄香は! 澄香が退屈しない様にお父さん、イロイロ頑張ってんのに!」
「お父さんが楽しいだけじゃん!」
「はっはっは。何を言うか、お父さんが楽しむだけなら、変身ヒーロー歌謡大会だぞ?」
「それはもっとイヤ~~~!!」
「澄香も、もうすぐお姉さんになるんだから、大人になりなさい。諦めは大人への第一歩よ」
「お母さん!」
「ね、澄香。お父さんは、病気なの。心のね」
「澄香! そうだぞう! お父さんはビョーキだ! だから澄香が寿限無を唱えるか、お父さんの変身ヒーローリサイタルを聞くか。さあ! どっち!?」
「ぎゃ~~! どっちもイヤじゃ~~ボケ~ッ!」
「あなた! 澄香! 危ない!!」
ガシャンッ!!
終わりはあっけないくらい突然で、全てはビックリするくらい簡単に失われた。
ごめんなさい。
お母さんが安定期に入ったからって、何処かに連れて行ってなんて言わなければ。
ごめんなさい。
誕生日だからって、遊園地に行きたいなんて言わなければ。
ごめんなさい。
お母さんに、後部座席に一緒に乗ってって言わなければ。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
それでも生きたいと願って。
ごめんなさい。
そしてアタシは目を覚ます。
「ディー!?」
敏感に気配を察してアタシの名前を呼ぶのは、紫の髪と目をした、どこからどう見ても文句なしの美少女だ。
睫毛はバッサバサで、目は二重くっきりで、鼻は小ぶりながらもスッとしてて、唇はプルンプルンなラズベリーピンク。
その人間離れした余りの美少女っぷりは、モンゴロイドの遺伝子を一塩基たりとも受け継いでいないのは明らかだ。
「リズ。リズナターシュ」
アタシは吸盤のついた白い手を伸ばし、紫の巻き毛に指を絡める。
「ハアイ、元気だった? 泣いてなかった? 誰かに泣かされたなら、言いなさい。このアタシが、恥ずかし過ぎて生きていけない目に遭わせてやるから」
「ディーッ」
幼さの残る腕が、白い体を抱きしめる。
ふふん、思う存分抱きしめなさい。
内臓が出る心配なんかないからね。
アタシは細い腕で抱きしめ返す。
ああ、可愛いリズ。
大切な大切な、アタシのリズ。
アタシの、生まれなかった妹。
一度も抱きしめられなかった妹。
リズと妹を、重ねたことは一度たりともないけれど。
アタシとアディーリアを結びつけたのは、間違いなく、同じ魂への同じ思い。