第六一話 カエルの母性と父性は、ちょっと恐い その3
叔母さんは予定通り火曜日にニューヨークへと飛び立った。
結局説教らしい説教もせず、普通に墓参りに帰国しただけと思えなくもなかった。
――澄香の事は澄香から直接聞きたいわ。
という一言がなければ。
アタシは、ゴメンと素直に謝った。
アタシが素直になるなんて事は、我ながら言うのも何だけどそうそうある事じゃない。
けれど、本当の事を言えない分素直になるくらいのことは、しとかなきゃいけないんだと思う。
本当の事。
それって本当に「本当の事」なのか。
結局のトコロ、全てはアタシの夢にしか過ぎないかも知れないのだ。
リズも、アディーリアも、セルリアンナさん達、ムダメンどもも。
いや、ムダメンどもは夢でも一向に構わないんだけれどさ。
ううん、それだけじゃない。
今だって、夢かもしれない。
叔母さんも、恵美も、アタシ自身も。
アタシは、事故に遭ったあの日から、長い長い夢を見ているだけかも知れない。
「現実」と「夢」を混同する事はないけれど、全てが「夢」ならそんな認識も意味のない事だ。
この「世界」が夢ではない保証は、この世の何処にも存在しない。
なんて何処かのエライ人が言ってたような言ってなかった様な…。
「スミ」
不意に、恵美に名前を呼ばれて顔を上げる。
「何?」
「目開けて寝てんの?」
「寝てないよ」
「手止まってるよ? ひょっとして、その本に何か恨みでもあんの?」
恵美に言われて、アタシは自分の持ってる本を見た。
Noam Chomsky『On Nature and Language』。
「って洋書じゃんっ。恨む以前に読めねえわっ」
「だろうね」
「だろうね、じゃねえわっ。ボケんのもいい加減にしさらせやっ」
効きの悪いエアコンのせいでイラつきやすくなってるのだろうか。恵美の意味不明の言動なんか今更なのに、思わず一・八倍(当社比)くらいの激しさでツッコんでしまう。
ツッコミが激しくなるとエセ関西弁になるのは何故だろう。
やっぱりツッコミの本場は関西だからだろうか?
「スミ、調子いいな。ツッコミのキレが違う」
いやそんな、白い歯を見せてニッカリと笑われても。
昼食に食べた焼きそばの青のりが付いていても、アンタは相も変わらず美人だぜ。
とでも言えばいいのか?
アタシはイロイロ考えたけど、ジットリと滲んでくる汗に思考を放棄した。
エアコンの利きが悪いにしても、今日は蒸し暑すぎる。
台風が近づいてきているせいだろう。
曇った空はどんよりと重かった。
「アンタの祖父さん、なんなのも~」
アタシと恵美は、恵美の祖父母の家に来ている。
言語学者だったという恵美の祖父さんの蔵書を整理するためだ。
それにしても「蔵書」と言うだけあって、その量も種類も半端ない。
言語学関係の本が一番多いけど、他にも哲学書やら精神分析学やら認知心理学やら、ともかく学者らしい専門書がいっぱいだ。
小説も沢山ある。
文学からSFや時代小説と、ジャンルは様々だ。
無節操っぽいけど、何せ本が好きなのだろうという事はよく分かる。
けれど、コレはないだろう。
「一体何を目指してたワケ?」
と思わず口に出してしまったのは、ピンク色の表紙にセーラー服姿の女の子が逆さづりになってウインクしてる文庫本を手に取った時だった。
所謂少女小説で、他に何冊もある。殆どが一昔前の代物で、何故か題名はシロウトのアタシですら文法的にどうなのと問いたくなるくらいの意味不明さだ。
この意味不明さが、研究対象なんだろうか?
学者の思考というのは、凡人でしかないアタシによく分からない。
この蔵書の意味不明さが、学者だからなのか恵美の血筋だからなのかは、判断に困るトコだけれど。
なんて事を考えながら、せっせと本をジャンル分けしていると、
「恵美子も澄香ちゃんも、そろそろ休憩したら?」
そう言いながら、恵美のお祖母さんが顔を出してきた。
なんとまあ普段から着物を着ているというお祖母さんは、このクソ暑いのに汗一つかかず、その佇まいはどこまでも涼やかだ。
若い頃はさぞかし美人だっただろうとありありと分かる顔立ちは、今でも十分綺麗である。
なるほど、恵美の父親譲りの美貌はこのお祖母さんがルーツなのか。
彼女と初めて会った瞬間、そう思った。
そして、今思う。
上品なお祖母さんが上品に微笑みながら、スイカ半玉が乗った皿を両手に一つずつ持って楚々と歩いてくる様は、浮世離れはしてないがどこか人間離れしている。
なるほど、恵美の素っ頓狂さのルーツは、ココか!
「なんでアンタの祖母ちゃん、一人にスイカ半玉持ってきてんの? 二人で半玉でも多くね?」
「あ~、スミは小食だから。祖母ちゃん! スミそんなに喰えねえってさ!」
「あらあら。じゃあ、私と半分こする?」
お祖母さんは上品に笑ってそう言うけれど。
う~ん。
それでも四分の一玉だ。
いや、頑張れば、なんとかなるか?
てか、一体何のチャレンジだよっ。
大食いか? 大食い大会なのか?
そういやあ昨日の夕食も凄かったな。
山菜料理やら川魚やら風情ある料理が所狭しと並んだ食卓は、何かの集会か? と思う程大量だった。
――ごめんなさいね、年のせいか余り沢山作れなくて。若い人には足りないかもしれないわね。
申し訳なさそうにそう言ったお祖母さんに、やっぱりアタシは思ったね。
そうか! 恵美の胃袋も、お祖母さんがルーツなのか!
早世してしまったお父さんはどうだったか知らないが、ともかく恵美はこのお祖母さんの遺伝子をとても良く受け継いでいる。
味付けは、関西風なのか全体的に薄味で、出汁が利いていて美味しかった。
それでも量が半端なく、アタシは胃袋からの悲鳴を無視して食い続けなければならなかった。
出されたモノは食べる。
母親からそう躾けられていたからだ。
けれど最後にデザートと称する大量の草餅が出てきた時には、ゴメンナサイと謝った。
「あの、できれば八分の一でお願いします」
アタシはアタシの胃袋のために、決然とした口調でそう言った。
相変わらずアタシは、夢の世界に行けてない。
昨日で丸々一週間が経った。
何時もなら、行けるときゃ行けるし行けないときは行けない、なんて呑気に構えてんだけど、今回ばかりはそうもいかない。
もしかしたらアタシ自身の問題のせいで行けないのかも、とか一度思っちゃったりしたもんだから、その考えが頭にこびり付いて気持ちは焦れる一方だ。
ココまで来ると流石に寝付きも悪くなる。
ま、昨日は旅の疲れで早々に寝ちゃったけど。
夢も見なかった。
いや、人間は眠る度に何かしら夢を見てるって言うから、単に覚えてないだけなんだろうけどさ。
「台風は今夜遅くに通り過ぎるらしいぜ」
騒がしく鳴る風鈴の向こうに曇天を眺めながら、アタシと恵美はスイカを食った。
「台風の前ってさ、妙にハイになんねえ?」
恵美がスイカの種をほじくりながら、ボソリとそんな事を言った。
「ああ、そりゃ、プラスイオンが増えるかららしいよ。ホントかウソかは知らないけど」
意外な話だけれど、恵美はスイカの種をあらかじめ取っておくタイプである。
豪快に種を吹き出すか、いっそのこと種ごと食べてしまうタイプだと思ったのに。
アタシがそう言うと、恵美は至極真面目な顔して言った。
「何言ってんのっ。種喰ったら、へそからスイカの芽が出るじゃんっ」
本気か?
と思って恵美の顔をマジマジと見ていると、その向こうで恵美のお祖母さんがニマニマと笑っている。
一体どういう教育をすれば、二十歳を過ぎてもこんな事を真剣に言える人間に育つのか? 是非ともお祖母さんにご教授願いたい!
アタシは内心でわくわくしながら、リズに一体どんなトンデモ知識を仕込もうかと考えた。
でももう十二歳だからな~、流石にもう無理かな~。
第一リズは賢いからな~、やっぱり無理かな~。
いやまてよ、精霊関連のことなら、何とかなるんじゃね?
アヌハーン神教は、精霊の研究はしていない。
何故なら精霊は研究対象ではなく、祈りの対象だからだ。
人間には神も精霊も理解できない、何故なら彼らは人間より遙かに高度な存在だから。寧ろ「知る事が出来る」って考えそのものが傲慢なのだと。
それって明らかに思考停止じゃね?
と思うけど、神というものを世界を説明するシステムとして成立させるには、「神の名の下に」思考停止させるのが一番手っ取り早いに違いない。
上手いことやってんな~、アヌハーン神教。
それでも精霊を含めた魔術の研究が後を絶たないのは、人間の知りたいという欲望に際限がないからか。
けど「精霊に関するトンデモ知識」って何? って話だよ。
そもそも「精霊に関するトンデモじゃない知識」なんてモノがあるのかよ。
こうなるともう、リズの子供に期待をかけるしかないか~。
ふとそんな事が頭に浮かんで、奇妙な気持ちになる。
アタシは今まで、リズの事は考えていたけど、リズの将来について具体的に考えたことはなかった。
そりゃ、成人して、どっかの王侯貴族と政略結婚して、子供を産むんだろうな~、なんて漠然と考えてはいたけれど。
アタシがリズを見守るのは、リズが成人するまでで。
だからこそ、そこには具体的なイメージは何もなかった。
アヌハーン神教の思惑通り、リズと皇統の血筋の聖者とが結婚したとして、その子供が聖者である確率ってどのくらいだろう?
紫の髪と瞳が劣性遺伝だと考えるなら、二人の間の子供はほぼ百パーセント聖者だ。
アタシはサーッと血の気が引いていく様な気がした。
これから先、何世代も、リズの血筋は神教に利用され続けるのだ。
アディーリアが、その親が、そうだった様に。
この先、アヌハーン神教がある限り。
勿論そんな事は分かってたけど、突如その事が実感として差し迫ってくる。
アタシがリズの赤ちゃんを抱くことはないだろう。
けれど、その赤ちゃんの誕生にはアタシも関与することになるのだ。
赤ちゃん、というイメージがアタシの頭の中でスパークする。
抱くはずのない赤ん坊を抱いているイメージが思い浮かぶ。
そのイメージの中のアタシは、何故か十二頃のアタシだった。
その瞬間、訳の分からない焦燥感が迫り上がってきて、
「いかん! 悠長にスイカ食ってる場合じゃねえ!!」
思わず勢いよく立ち上がりかけた。
「あ! スミ!! 危ないっ!!」
ガンッ。
恵美の叫びを聞くと同時に後頭部に物凄い衝撃を感じたアタシは、そのまま念願適って夢の世界の住人となった。
後から知った事だけど、その時アタシの後ろ頭に巨大な金だらいが襲いかかってきたらしい。
てか投げたって正直に言え!!
雨漏り受けに金だらいって、テメエらは昭和か!!