第五九話 カエルの母性と父性は、ちょっと恐い
叔母さんが最寄りの駅に到着したのは、夜の七時近かった。
丁度日没の時間で、紫紺の帳が今まさに下りようとしている頃だった。
「澄香!」
駅まで迎えに行ったアタシに、叔母さんは開口一番名前を呼んで。
ギュウウウウウ。
思いっきりアタシの両頬を抓った。
「痛痛痛っ! 痛いって! 何すんだ!」
叔母さんの手を払いのけながら抗議すると、叔母さんは当然とばかりに両手を腰に当てながら踏ん反り返って言った。
「だって、抓りたかったんだもん!」
悪戯っぽい表情の奥に、微かな怒気が感じられた。
うむ。
ここは四十を過ぎて「もん」とか言うな、というツッコミは止しておこう。
「………おかえり」
「ただいま」
口角を上げて叔母さんは微笑むけれど、目が笑っていない。
叔父さん、一体叔母さんに何て言ったんだか…。
一抹の不安を覚えながら、アタシは叔母さんの荷物を一つ持った。
荷物と言っても、小さ目のスーツケースとボストンバッグだけだけど。
海外と日本を行き来し慣れているせいか、叔母さんは大きな荷物で移動するという事はない。まあマンションにも服なんかはあるから、必要ないっちゃあ必要ないんだけれどもさ。
「どうする? 一応夕飯の支度はしてあるけど。何か食べたい物があったら…」
叔母さんはアタシの言葉を最後まで言わせなかった。
「そうね。外で食べるより、うちでのんびりしたいわね。シャワーも浴びたいし。あと梅干し食べたい、味噌汁飲みたい。だし巻き食べたい」
なんだその庶民嗜好。せめて「寿司」とか言えんかね。
「向こうでだって日本食は食べれるじゃん」
今や日本食は世界的にメジャーなんだし。
田舎町ならともかく、叔母さんが住んでるのはシアトルだ。
ええと、シアトルって大都会だよね?
マイクロソフトがあるし、アマゾンあるし、スタバもあるし。
いやまあ、大企業が田舎に本社を構えないとは限らんけどさ。
「向こうでまともな日本食っていったら、高級店になるのよ。そういうんじゃなくて、澄香の作ったチープな庶民の味が食べたいの」
叔母さんはそう言って、飛行機と電車を乗り継いでの長旅とは思えないくらい完璧にセットされている髪を掻き上げた。
じゃあ自分で作ればいいじゃん、高給取りの叔母さんにならド高い食材だって買えるだろうし。
とはアタシは言わなかった。
何せ叔母さんの家事の腕前は、あの恵美すらも足下に及ばない程に壊滅的だ。
なんでも、圧力鍋でもないのに鍋を爆発させる事が出来るらしい。
食材の飛び散ったキッチンを見て、叔父さんは思ったらしい。
彼女に料理をさせてはダメだ!! と。
アタシに言わせりゃ、料理だけじゃなく掃除も洗濯もさせてはいけない。
耐久力に優れたダイ○ンの掃除機を一瞬で壊し、全自動洗濯機に泡を吹かせる事が出来るのだ。この柏木凪子という女性は。
「………言って置くけど、夕飯は素麺だから」
「じゃあ、具は錦糸卵とハムとキュウリね」
「冷やし中華か!」
とツッコむものの、その通りの具材を用意していたりもする。
冷やし中華の様な具材は叔母さんの実家のメニューで、叔母さんのところへ来て初めて料理をする様になったアタシは、そのため「叔母さんの家の味」は作れても「母親の味」は作れない。
「あ、あと揚げ出し豆腐食べたい」
「はいはい」
「焼きナスも」
「へえへえ」
二つとも想定内のメニューなので、アタシは唯々諾々と受け入れる。
「あとみたらし団子ね」
う。
それは想定外だ。
なんで団子? てか作れってか?
アタシは数瞬の躊躇の後、どうにか結論を出した。
「………コンビニで売ってるのでいい?」
「仕方がないわね、それでいいわ」
一体何処の女王様だ、とツッコミたかったけど。
女王様は、そもそもみたらし団子なんか食わないか。
と、思わずみたらし団子にかぶりつくアディーリアを思い浮かべて吹き出しそうになった。
タクシー乗り場に行くと、三台停まってた。
できれば初乗り運賃の安い小型車に乗りたいところだけれど、先頭に泊まっているのは大型の個人タクシーだ。
和をもって尊びとなす、をモットーとする日本人としては、前の二台を無視して三台目に乗るのは憚られる。
え? 用法が違う? まあいいじゃん。気にすんな!
運転手さんに叔母さんの荷物をトランクに積んで貰って、アタシ達は帰路についた。
「疲れた?」
「う~ん。流石に九時間エコノミーってのはキツイわね。機内食は不味いし、機内食は不味いし、機内食は不味いし」
三回も繰り返すくらい不味かったのか。
或いは三回出て三回とも不味かったのか。
いや、九時間で三回も機内食が出る事はないよね。
どちらにしろ相当不味かったのだろう。
尤も、グルメな叔母さんの口に合う機内食なんか、ファーストクラスでもなきゃ出ないとは思うけど。料理の腕は壊滅的だけど、口は肥えてるからな~。
アタシは隣に座る叔母さんをチラリと見やった。
皺一つ無い黒いパンツスーツに、足下は十センチはあるだろう磨き上げられた黒いヒール。
膝の上で組まれた指は手入れが行き届いて、仕事に支障がない程度のネイルが施されている。
相変わらず身だしなみに隙がない。
それでも、渡米してから叔母さんは変わったと思う。
なんていうか。
派手になった。
ぶっちゃけ言えば、化粧が濃くなった。
童顔の日本人は、化粧をきっちりしとかないと幼く見られて不利なんだって言ってたけど。
アイラインくっきり、アイシャドウもバッチリ、口紅は赤く、眉毛が怖い。
平たく言えば、日系三世って感じだ。
別に、平たくもないか?
要するに、ナチュラルメイクが主流の日本では、ちょっと浮いている。
ああ、そうやってアメリカナイズされていくのね、とかなんとか感慨ぶってみる。
まあ、そんな事はどうでもいいんだけれど。
その方がやりやすいなら、そうすればいいわけだし。
いやそれもホント、どうでもいいんだけどさ。
………白状しよう。
木曜日にメールで帰国を告げられてから、アタシは散々考えた。
様々な言い訳を。
けれど、全然全く良い案が思い浮かばなかった。
だから実は、内心で冷や冷やしてる。
単なる夏バテだとか。
睡眠不足だったんだとか。
叔父さんに言った言い訳が、通じるワケもない。
というか、通じなかったからわざわざ帰国してきたんだろうしさ。
でもさ~。
帰国する程のことでもないと思うんだよね。
心配してくれてるのは分かってるし本当にありがたいんだけど、あんまり迷惑かけたくないっていうかさ、ある意味無視してくれてもいいくらいなんだけど。
叔母さんには。
本当に感謝してる。
――新しいお父さんも新しいお母さんも、アタシはいらない。
我ながら可愛くない口調でそう言ったアタシに、艶やかなフレンチネイルの指先を顎に当てながら、叔母さんは言った。
――じゃあ母親不適格者な私のとこに来る? 一切合切家事してくれるのなら、来てもいいわよ? 言っておくけど、後から「お母さんになって」なんて言われてもなれないからね?
そう語る唇はピンクベージュで、まだあの頃の叔母さんはナチュラル路線だった。
数ヶ月前に離婚したばかりだった叔母さんは、自分は結婚して家庭を持って良い様な人間ではないとも言った。
――子供は可愛いし、愛しいとも思うのよ? なのに、何故かしらね。
そう言った叔母さんが寂しそうに微笑んだのを覚えている。
「母性本能」なんてのは単なる神話だとは思うけど、叔母さんには叔母さんの負い目みたいなものがあるんだろう。
多分そのせいで、叔母さんはゆかりちゃんと会おうとしない。
母性を求められても、応えられないのが辛いのかも知れない。
ま、カエルにだって、オスだけが育児してメスは産みっぱなしって種類もいる。
そもそもカエルは育児しないんじゃないのって話だけど、そうじゃない種類も沢山いる。メスだけがしたり、オスだけがしたり、両方でしたりと、バリエーションは様々だ。
因みに、『種の起源』の著者の名前を冠するそのカエルは、オスが卵を鳴嚢の中で孵化させた上に、子ガエルになるまで育てるんだとか。孵化したオタマジャクシは、鳴脳の中で父親の皮膚から栄養を摂取するらしい。
母親が子育てする種類だと、無精卵を産んでそれをオタマジャクシに喰わせたりとか。
カエルというのはアレでいて、なかなかハードな母性や父性を見せてくれるのだ。
キッとタクシーが止まったのに気づいて、アタシは顔を上げた。
車窓から見上げると、見慣れたマンションが聳えている。
叔母さんが買ったマンションだけど、叔母さんは殆ど住んだ事がない。
当時だってこんな地方都市にいるべき人じゃなかったけど、今では日本に帰ってくる事すら難しい。
それが予測できない人じゃないのに。
――だってアメリカに永住する気はないもの。
叔母さんは笑顔でそう言って、三十年ローンで買った。
叔母さんは何時だってアタシを理由にしない、なんてご立派な人間じゃない。
渡米するのにアタシの高校卒業を待ったのだと、後からだけどハッキリと口にした。
嫌いな料理は不味いと言い、けれど失敗作は黙って食べる。
六年半、アタシ達はそんな風にして、本音半分綺麗事半分で結構上手くやっていた。
「で、こっちには何時までいられるの?」
部屋の鍵を開けながら、アタシは叔母さんに訊いた。
「それがね、明後日には発たなきゃならないの。しかもニューヨークにね」
そのまま出張って事なんだろう。
相当ハードなスケジュールなハズなのに、叔母さんはとても生き生きとしてそう言った。
結局その夜は、叔母さんの疲れもあって、夕食の後殆ど話すことなく就寝した。
一体どんな小言を食らうのかと覚悟していたアタシは、拍子抜けしたと同時にホッとした。
だって言い訳なんか、全然思い浮かばないし。
まさか「本当の話」をするわけにもいかないし。
てか、「本当の話」もなにも、アタシだって何であんな事になったのか分かってないし。
「昏睡未遂の件なんだけど、どうやら『寿限無』と何か因果関係があるかもしれないんだよね」
なんて、まかり間違っても言えないし。
一体何のファンタジーだよ、って話だよ。
いやまあ、「夢の話」なんてファンタジーの極致みたいなもんだけれどさ。
そんな夢見がちな話を、まっとうな常識人である叔母さんに話した日にゃあ、一体何がどうなるのか想像もつかない。
ひょっとしてひょっとすると、すっかりアメリカナイズされた叔母さんなら、カウンセリングを受けなさい、なんて言い出すんじゃなかろうか?
なんて事を悶々と考えて、アタシは殆ど寝られなかった。
てワケでもなく、それなりに普通に眠った。
ま、そんなもんだよね、人間なんて。
次の朝、目覚ましの音で普通に目覚めた。
電池を入れ替えて普通に動く様になった目覚まし時計は、相も変わらずコツコツと時間を刻む。
叔母さんが来ている間くらい、夢の世界に行くのは避けたい。
と理性的に考える一方で、リズの元へ直ぐにでも行きたいと焦る自分もいる。
地震のあった夜以降、向こうの世界に行けてない。
勿論、今までだって何日も向こうに行かなかった事はあった。
下手すりゃ一ヶ月近く、なんてこともある。
けれどさ、状況が状況なだけに、もう少し融通利かせてくれてもいいんじゃないかと思う。誰が利かせる融通なんだって話だけれどもさ。
くっそ~~~!
リズの事が気になって、眠れない。
いや、寝てるけどっ。
てか寝なきゃ始まらないんだけれどっ。
アタシが煩悶を抱えながらリビングに入っていくと、叔母さんは既に起きていて、すっかり身支度を終えていた。
「お墓参りに行くわよ」
昨日と違って幾らかラフな格好となった叔母さんは、けれどもやっぱり化粧はアメリカンなままだった。
正確には、マイクロソフトはシアトルにはありません。ゲイツ君
はシアトル在住ですけど。ものごっつい屋敷らしいっす。