第五七話 カエルの世界は四原色です その3
大学の図書館は夏休みという事で閑散としている、と思いきや、以外と人が多かった。
多分図書館がお盆休みを兼ねた長期休館に入る前に、本を借りておこうという連中が押し寄せているのだろう。無論、アタシもその一人だ。
大学図書館は専門書が充実しているけれど、学生の人数からすれば数は少ない。ゼミの課題なら先ず被る事はないけれど、レポートとなれば被る事はままある。つまり参考文献は早い者勝ちになる。
そしてアタシは図書館の端末を見て、自分が出遅れた事を知った。
「うわちゃ~」
と頭を抱えたところでどうにもならないので別の参考文献を探すものの、軒並み借りられてしまっている。
借りられているからといって、その本が読めないという事じゃない。
大学の図書館には、専門書の場合同じモノが「貸出禁止」として置いてあるからだ。
けれどそれだと何日も図書館に籠もる事になる。
別にバイトもしてないから特に支障はないんだけれど。
ぶっちゃけ言って面倒くさい。
いっそテーマを変えるか?
なんて思いつつ、端末を操作する。
レポートの課題なんてのは大雑把に出されているだけので、幾らでも融通は利くんだけど、誰だって書きやすいテーマを選びたい。或いは、卒論の礎となるようなテーマ。
大学の最初の三年間なんて、卒論のためにあるようなもんだ。
三回生になった時点で、大概卒論のテーマまでは決まってなくても方向性は決まってる。
史学の場合なら、何時の時代をやるのか、政治史なのか文化史なのか、どの社会的階層にスポットをあてるのか。アタシだって、そのくらいはもう決まってる。
アタシが卒論で書こうとしてるのは、ズバリ政治と宗教の関係に関してだ。
何時の時代も政治は宗教と切っても切れない関係だ。
今の日本は政教分離を唱えてるけど、それだって一つの関係だ。
アタシは、今の日本の宗教に対する無関心と表裏一体の無節操さが好きだ。
外国人からすればそりゃもう奇妙極まりないんだろうけど、宗教に頼らなくても今の日本人は十分道徳的だし、勿論犯罪者がいなくなるなんてことはないけど、天災などの大きな災難に見舞われた時に規律的に行動し暴動を起こさないのは誇るべき国民性だと思う。
逆に外国人に問いたいくらいだ。暴動を起こしたところで、更に首を絞められるのは自分たちなのに、なんでああいう事するんだろう? ってさ。
憂さを晴らせば一時的にスッキリするだろうけど。
後で余計に困るだけの話じゃね?
なんて思いつつ、夢の世界ではあの後どうなってるだろうと考える。
地震が収まった後も、暫くは身動きが取れなかった。
何度か地震の経験があるアタシでさえそうなんだから、他の人間は尚更だった。
一体どれくらい息を潜める様に蹲っていただろう。
「ミリー」
リズが怯えた声で四号の名を呼び、細い腕がギュッと抱きしめてきた。
アタシはそんなリズを安心させたくて、強く抱きしめ返す。
「大丈夫よ」
そうリズに囁きながら、自分に言い聞かせる。
大丈夫。
今は、まだ。
何がどうなのか分からないまま、そう思う。
「大丈夫」
何時か誰かがアタシに言った。
その時アタシは安心できたんだろうか?
覚えていない。
リズはアタシの言葉なんかで安心できるだろうか?
それでも言おう。
「大丈夫」
リズの事は、リズだけは守るから。
その思いが強ければ強い程、アタシという不安定な存在が確かなものなって行く様な気がした。
あの後、余震を警戒してまんじりともしない夜を明かした。
ま、アタシは夜が明ける前に離脱しちゃったけど。
あれからリズ達はどうしているだろう?
避難していたお陰で後宮に怪我人は出なかったけど、建物がどうなったかは分からない。
死傷者の有無や被害の範囲と規模。
早くリズの下へ戻って状況を確かめたいけど、こればっかりは夜まで待たなくちゃならない。といっても、今夜向こうに行けるかどうかは分からない。
どうしようもない状況に、気持ちが焦れる。
状況が落ち着いたら、リズは間違いなく「神人」になる。
しかもただの「神人」じゃなく、「神の最愛人」だ。
歴史上「予言」を与えられた三人目の人間として。
アタシがそう仕向けた。
アタシがいなけりゃ、ただの「神人」で済んだかもしれないのに。
いやが上にも神教内での皇国再興の気運は高まるだろう。
それが向こうの世界の政治情勢にどんな影響をもたらすのか、アタシには全く予想もつかない事だ。
強さが欲しい。
心の底から思う。
リズを支えられる強さが。
そのためには、アタシ自身の問題を解決しなけりゃいけないんだと思う。
スッポリと欠けた記憶。
事故の時の記憶がないなんて、良く聞く話だ。
今までその事を気にした事はなかったけど、アタシがそう思ってるだけで、実際は気にしない様にしていただけかもしれない。
無意識のうちに考えない様にしていたんじゃないだろうか…。
アタシは思考に没頭する余り、現実を忘れてしまっていたらしい。
「使わないのなら、変わってくれねえ?」
不意に掛けられた声に、驚いた。
「ぐぎっ」
自分でもどうかと思う奇声に、慌てて周囲の様子を伺った。
クスクスという忍び笑いは、うん、聞かなかった事にしよう。
ていうか、何割り込もうとしてやがんだ、コイツはよっ。
アタシがそう思って睨み付けると、声の主は悪びれもせず言ってのけた。
「そう睨むなよ、宮本。もう十分はスクリーンセーバー睨み付けてるじゃないか」
「うるさいな、小杉祐輔。他に空いてる端末あたりな」
アタシは、元カレを睨み付けてそう言った。
小杉祐輔と付き合ったのは、大学一回生の時の二ヶ月だか三ヶ月だかの短い期間だった。
梅雨時から付き合い始めて、その年の夏休みが明ける頃には別れていたと思う。
正直二年も前の話なので、よく覚えていない。
アタシから申し込んで、ヤツに別れを告げられた。
アタシはその間に十分ヤツから学ぶべきものは学んでいたから、別れる事に異論はなかった。
当然ながら、未練はない。
未練になるほど気持ちがあったワケじゃないし。
手っ取り早い二号のモデルとして小杉祐輔を選んだだけであって、身近で観察する手段として付き合う事にしたのだ。
ただ、アタシはヤツの好みから完全に外れてるため、断られる事は覚悟していたけど。
今日だってヤツが連れていたのは、このくそ暑いのにご苦労だなあと労いたくなる程完璧にメイクしたキレイ系の女子だ。
その女子力の高さは賞賛に値する。
Tシャツとジーンズにスッピンで出歩けるアタシとは、人種が違うとしか言いようがない。
そんな男が、なんでアタシと付き合おうと思ったのか?
今でも謎だ。
多分気の迷いとか言うヤツだろう。
ひょっとしたら、ヤツは少し遅れた五月病だったのかもしれない。
付き合っている間は、何やら情緒不安定だったから。
些細な事で泣いたり狼狽えたりしてたような…。
そのくせ薄ら寒い台詞は垂れ流しで…。
泣きながら夜空を見上げて星がどうとか言われた時は、滑稽というよりは気の毒になったもんだ。
ま、それもあんまり覚えてないんだけれどもさ。
それもこれも所詮は二年前の記憶だ。
で。
その互いに納得づくで別れた男女が、なんで今更顔をつきあわせなけりゃならんのか?
というか、どうしてコイツは彼女が変わる度にアタシに会わせに来るんだ?
紹介してくれるワケでもないから、推定でしかないんだけれど。
ただ会う度に連れている女が違うから、そう思うだけだ。
どっちにしろ、別れた後も友達づきあいしてるってんならともかく、普段のアタシとヤツの間には殆ど何の接点もない。
今更会って、一体何の話があるのか?
それともコイツは元カノ全員にイチイチ今カノを紹介して回ってんのか?
尽きる事のない疑問は、けれども答えが欲しいワケじゃない。
興味がないし。寧ろ関わってくれるなと思う程だ。
はあ。
恵美はどこにいるんだろう?
周囲を見回してみても、恵美らしき影はない。
そりゃそうだ。
文学部関係の本は三階にあるけど、法学部関係の本は四階だ。
そういやあコイツ、何学部だったかな?
経済だったか、理工だったか。
どっちでもいいけど。
少なくとも文学部と法学部じゃない事は確かだ。
「ちょっと…」
小杉祐輔が何事かを今カノに囁いた。
すると今カノは、アタシを数瞬睨み付けた後何処かへ行ってしまった。
一体何なんだ? 感じ悪いなぁ。
というか、何で小杉祐輔は残ってんだ?
「……………」
「……………」
何か話があるならさっさと話しゃいいのに、ヤツが話し始める気配はない。
「あのさ」
「な、なんだ?」
「アタシ調べ物があるからさ」
何処か行ってくれ、と暗に言ったつもりだけど、ヤツには伝わらなかったらしい。
「レポートか?」
「今この時期にそれ以外で図書館に来てる学生がいると思う?」
勿論いるだろう。涼みにとか涼みにとか涼みにとかさ。
「それも、そうか」
小杉祐輔は歯切れ悪くそう言うものの、立ち去る気配はない。
「……………」
「……………」
………ウザい。
ぶっちゃけなくても、非常にウザい。
これだけ空気が読めなくて、どうしてコイツはモテるのか?
顔はまあいいと思うし、どっかのボンボンだとかで金回りもいいらしい。そのくせマメで、記念日とかは忘れない。尤も、「初めて手をつないでから十日目記念」とか、アタシには謎の記念日だったけど。
ただ、付き合って楽しい相手だという事くらい、アタシにも分かった。
コイツと付き合っている間に、所謂恋愛がらみの幸せは感じた事がなかったけれど、ある意味面白かった。何度笑いをこらえすぎて腹が痛くなった事か。
本人が意図していないという事は別にして。
けれどこれだけ空気が読めないと、何かを強請るにしても直接話法で話さなきゃ通じないんじゃないかと思う。
そして大概の女子というものは、様式美とでも言うべき方法論で直接的な言葉で強請らない。「これ超可愛い~、すごいキレ~。ねえねえ、アタシに似合うと思わない?」と、あからさまながらも間接的に強請るのだ。
果たしてコイツにそれが汲み取れるだろうか?
コイツの交際サイクルが短いのは、きっとその辺りが原因に違いない。
などと思いながら、アタシもまた直接話法に踏み切る事にした。
「端末使いたいんならさ」
別のをあたってくれ。
そう言おうとして、ヤツの言葉に遮られた。
「澄香。これ」
突然差し出された全国チェーンの古本屋のビニール袋に、意味が分からなくて目が点になる。
「この間、たまたま行った古本屋で見つけたからさ」
無理矢理受け取らされた袋は、薄くて固かった。
その手触りから、多分CDとは思うんだけど。
アタシにはそんなモノを受け取る心当たりはなかった。
「意味が分かんないんだけど?」
アタシの言葉に、ヤツは何故か「仕方がないなあ」とでも言いたげな生暖かい眼差しを向けてきた。
「随分前の話だから、澄香が覚えてないのも仕方がないな」
キモッ。
「だから一体何?」
アタシは苛立ちを隠さずに問いかけたけど、ヤツには相も変わらず通じない。
「いいから、開けてみろって」
だから一体何だってぇの!
そう思いつつも、ヤツの表情があんまりにも不気味だったので、仕方なく袋を開けた。
「……………」
コイツは、何を思ってアタシに落語のCDを寄越してきたのか?
戸惑うアタシに、小杉祐輔は何処か自慢げに言った。
「ほら、澄香、前に言ってただろ? 中学校の頃『寿限無』が流行ってて、周りがみんな言えたのに、自分は覚えられなかったのが何か悔しかったってさ。負けず嫌いの澄香らしいと思ってさ、別に気にかけてたわけじゃなく、不意にそれ見て思い出したっていうかさ。ま、これで覚えていつか俺の前で披露してくれよ、なんてな、ハハハハハ」
後半の言葉は、殆ど耳に入ってこなかった。
そうだ。
アタシ、「寿限無を忘れてた」んだった。
子供の頃は、確かに言えたのに。
一体何時、思い出したんだろう?
二年前の事を覚えているこすぎん。報われないなあ…。