第五六話 カエルの世界は四原色です その2
――貴女は『アディーリア』という器、つまりこの私ね。それを作って、そこに『有害』な記憶を封印し意識の奥底に沈めたのよ。
アディーリアであってアディーリアでないアディーリアは、あの時確かにそう言った。
有害な記憶。
あの時は、アディーリアの二十歳より前の記憶のことだと思ったけど。
それだけじゃなかった。
チャラチャチャチャララ、チャララララララ、チャラチャチャチャラチャチャチャチャチャチャチャチャチャ~。
長い長い夢からの目覚めは、じっとりと汗ばむ暑さと国民的アニメの主題歌によってもたらされた。
青い猫型ロボットが無制限に願いを叶えるという、どう考えても子供の情操教育によろしくない内容の歌だけど、子供達は誰もが「彼」に夢中だった。
ぶっちゃけ言って、「彼」は人類の夢というよりも欲望の権化なんだけれどもさ。
「………恵美か」
携帯の画面を見ながら、全く入れた覚えすらない着メロに、もう悪友としか言いようのない和風美人の清楚な笑顔を思い浮かべる。
一体何時の間にアタシの携帯に入れたのか? そして何時設定したのか?
最早訊くまい。
世にも清楚な笑顔の裏で、世にも悪辣な事を考えている恵美にしてみれば、他人様の携帯を勝手に弄る事など些末な事に違いない。
問いただしたところで、返ってくる答えなど分かりきっている。
何故他人様の携帯を勝手に弄るのか? 何故ならそこに他人様の携帯があるからだ。
弄られるのがイヤならロックしろって話だけれど、そこまで害があるわけじゃなし。
結局のトコロ、罪のない愉快犯なのだ。桧山恵美子という女は。
多分。
などとツラツラと考えつつ、アタシは受話ボタンを押した。
「はい?」
『『はい?』じゃねえよっ』
電話の向こうで、恵美は怒っているらしかった。
『今何時だと思ってんの?』
恵美の言葉に、アタシは時計を探した。
何時も枕元に於いてある目覚ましが、何故か見当たらなかったからだ。
確か夕べは夜の十一時過ぎに寝て、目覚ましは九時に掛けておいてはずだけど。
「何時って訊く前に、言うべき事がある様な気がするのはアタシの気のせい…?」
うだうだと言葉を紡いで場を持たせつつ、何かの拍子に落ちたのだろうとベッドの脇を覗き込む。
案の定、目覚まし時計は床の上に落ちていた。
それを拾って時間を確かめる。
六時七分。
で、止まってた。
動かない秒針を見て、落とした拍子に壊れたか、若しくは電池切れか? と考えながらも取り敢えず言ってみる。
「ええと、六時七分?」
『その時計、壊れてる』
「みたいだね」
『……………』
「……………」
しばしの沈黙の後、電話の向こうで深いため息の音が聞こえた。
『今度から携帯の方でも目覚まし掛けた方がいいんじゃね?』
「そだね」
この時計も、小学校の頃から使ってるからもう十年にはなる。
ピピピピピという耳になじんだ電子音は軽快だけど、何となく昔よりボリュームが小さくなった様な気がする。
そろそろ買い換え時だろうか。
と何度も思って、結局今まで使ってきた。
愛着があるというより、捨てる理由が見当たらないから使ってきたと言った方がいい。
形が古かろうが、インテリアにミスマッチだろうが、時計としての機能に問題はない。
そしてアタシは、自分の部屋をおしゃれ空間にしたいと思う程インテリアに興味があるワケじゃない。
「で、結局、今何時なわけ?」
『十一時過ぎ』
てことは、十二時間寝たワケか。
普段の睡眠時間が七、八時間だから、ケロタン三体を渡り歩いた割には、ちょっと寝過ぎた程度で済んでいる。
一体どういう仕組みなんだか。
と考えて、最近も同じような事を考えたなとの既視感を覚える。
まさかまた日を跨いだか??
ケロタン三体渡り歩いて、その間にムダメンどもに訓戒垂れて、リズ父と計画練って、そんでもってワケの分からない暗闇に飛ばされて。
十分すぎる程波瀾万丈だった一連の出来事が、たったの一晩だけで済むとは思えない。
そう言えば、やたらと腹が減ってる様な気がする。
この腹の減り方は尋常じゃないっ。と思う。
つい先日昏睡未遂をやらかしてしまっただけに、暑さのせいだけじゃない汗が吹き出してくる。
慌ててカレンダーを見るけれど、当然ながら紙製のカレンダーには「今日」が何日かを教えてくれる様な便利機能はついてない。
「あのさ」
『何?』
「つかぬ事を訊くけどさ」
『だから何?』
「今日、何日?」
八月五日であってくれ!
そう願いつつ問いかける。
『はぁ? ボケてんの?』
そもそも恵美は、なんで電話掛けてきたんだ?
約束があったんじゃないのか?
確かばーちゃん家に、亡くなったじいさんの蔵書の整理しに行くって言ってたな。
来週の話じゃなかったか?
てか、八月五日って何曜日??
再びカレンダーを見てみると、八月五日は木曜日。月曜日までは四日もあるぞ?
まさか五日も寝てたのか?
ヒッとムンクの叫びの様に表情を歪ませる。
イヤイヤイヤ!
それは流石にナイナイナイ!
「いいから、何日!?」
焦るアタシに、恵美は訝しみながらも答えてくれた。
『五日だけど?』
恵美の言葉にホッとする。
と同時に、疑問が湧き上がる。
「ええ? じゃあ、なんで電話掛けてきたの??」
思わず口をついて出た言葉に、恵美の声のトーンが下がる。
『………用事がないと、電話かけちゃいけねえの?』
拗ねた様なその台詞に、「え? アタシ達付き合ってたっけ??」とつい思ってしまったのは内緒だ。
結論から言うと、用事はあった。
恵美には恵美の計画があり、そこにアタシは勝手に組み込まれてしまっていたという意味に於いて。
恵美はアタシが休みの日なら大抵九時に目覚ましを掛けていると知ってるから、九時にアタシに電話を掛けて、予定を告げて――決して約束を取り付ける、ではない――、十一時には落ち合ってる、というつもりだったらしい。
それならせめて前の日にメールでも出しときゃいいのに、と言うと、朝起きて思いついたから仕方がない、との事だった。
本来「仕方がない」という言葉は、もっと不可抗力的というか、自分の意志ではどうにもならない状況にこそ使われるべきだと思うんだけど。
ただそれを告げるべき相手としては、恵美はこの世で最も不適切な人間の一人に違いない。
だからアタシはそうとは告げず、もしアタシに予定があったらどうすんの? と訊いてみると、それはそれで構わないとの事だった。
「ワタシは、失敗を恐れないオンナだ」
そうか。
としか言いようのない一言に、アタシはもう何も言うまいと誓った。
「もし」と仮定したように実際何の予定もなかったから、アタシは恵美の計画に乗る事にした。
まあ、計画と言ったところで、単に大学の図書館にレポートのための資料を探しに行くだけの話なんだけれどもさ。
恵美の名誉のために言っておくけど、恵美は別段一人で行動できない人間ではない。
寧ろあらゆる意味に於いて、独断で行動できる人間だ。というか、大抵の人間がついていけないので、単独行動をする羽目になるのだが。
あれは小学生の六年生の時だった。
学校をあげての卒業記念のハイキングを、何を思ってかホッピングマシンに乗ってやり切ろうとしたのだ。
先生に泣いて止められなければ、そしてその先生が女性でなければ、きっと敢行したのに違いない。
そんなオンナに、ついて行ける人間はほぼいまい。
アタシは軽く過去を回想しつつ、待ち合わせの時間と場所を決めた。
待ち合わせたところで、法学部の恵美と文学部のアタシでは、探すべき資料のジャンルが違いすぎるので、結局は別行動になるんだけれど。
実は本題はその後で、どうやら恵美は瞬市さん辺りからまんまと小遣いをせしめたらしく、晩ご飯を奢ると言ってきたのだ。
一応先日お世話になったばかりなので遠慮してみたけど、恵美に言わせれば「迷惑料」らしいのでありがたく受け取る事にしたのだ。
何の迷惑料なのかは、敢えて深く訊かない事にした。
瞬市さんは変態なみのシスコンだけど、その一方で常識ある大人でもある。何故にその相反する属性が両立可能なのかは、不明だけれど。そもそも人間という生き物が矛盾した存在なのだから、そうした矛盾もまた人間故の性なのだろう。なんちゃって。
ま、瞬市さんが納得して出したってのなら、遠慮せず受け取る事にしよう。
恵美は既に大学に向かっているというので、冷たい野菜ジュースを流し込むと、アタシは出来るだけ急いで家を出た。
二十を過ぎて二十分で支度できてしまう自分に、オンナとしての疑問を抱かないわけでもなかったが。
マンションから大学までは、自転車なら十五分程の距離だけど、バスなら三十分以上掛かる。
都会と違って鉄道網が発達していないので、自然と公共の足はバスになる。
そのバスの方が時間が倍近く掛かるのは、バス会社の設定した路線に問題があるからだ。いやまあ、アタシからすりゃ問題だけど、一般的には妥当なんだろう。真っ直ぐに大学に向かってくれりゃいいのに、何故その道を回るのか? と問えば、何故ならそこに数少ない駅があるからだと、バス会社は答えるだろう。大衆の利益の前にはアタシ個人の都合など塵にも等しいのだ。
と、意味もなくヤサグレてみる。
要するに、蝉の声が五月蠅いのも、空が真っ青なのも雲が真っ白なのも、この炎天下で汗だくになりながら自転車を漕がなければならないのも、世界がアタシのために存在してないからだ。
ああ、太陽が眩しすぎて思考が焼き切れそうだ。
こんな時にこそ、どこ○もドアがあればと切に願う。
そうすれば何処にだって行けるのに。
アタシも心から叫んでみたい。
ドラ○も~ん、た~すけて~~~!
勿論、実際に叫んだところで青い猫型ロボットは助けに来てくれたりはしない。
来るとすれば、通報を受けたお巡りさんだろう。
結局のトコロ、アタシの問題は、アタシ自身が処理しなけりゃいけないのだ。
それがどんなに「有害」であろうとも。