挿話 振り向けばヤツがいる
普段の1.5倍盛っております。
ナジャ・エリアーデ・アウラ・カディスが王宮で与えられている自室に戻ったのは、その夜も日付が変わってからだった。
王佐という仕事は、その名の通り国王を補佐するものだ。
殆ど常に国王と行動を共にし、国王の毎日の予定を立て、謁見者の選別、公式行事の采配などを行う。その一方で、国王直属の頭脳集団<枢密院>の長として、国王の政治理念を体現するために、情報を集め政策を練り、根回しをし、時には暗躍する事も厭わない、政治の暗部をも担う仕事である。
その様な重要な地位――特にイスマイルの様な伝統も格式もあり、アヌハーン神教の聖地すら抱えるような国の――に、異教徒が就任するという事は、様々な物議を呼んだ。頭の固い貴族達からは、その地位を返上すべきだという声もある。
それらを押さえつけるには、今はまだ自分だけの力では適わない事を、ナジャは十分知っていた。
身元保証人が「聖者」シャルルートでなければ、或いは先代国王の推薦がなければ、とっくの昔に排斥されていただろう。
二人には、感謝している。だが、二人が己のためを思ってした事かと問われれば、否とはっきりと断言できる自信がナジャにはあった。
それはただの気まぐれであり、或いは一つの余興でしかなかった。
だがそれでもと、その手を取ったのは、己の意志だった。
ナジャは着替えを済ませると、ベッドの側に跪き、夜の双性神へと祈りを捧げるために目を瞑った。
ナジャの瞼に、夜の砂漠が蘇る。
月明かりに照らされる砂の海。
ナジャの一族は、元々砂漠の民だった。
砂漠の民は、国を持たず、風の様に放浪する。
日中は強すぎる日差しに晒され、夜は凍える程の寒さに耐え忍ぶ。
水は貴重で、砂嵐に遭えば命さえ落としかねない。
砂漠では死は常に側にあり、だからこそ死者を導く夜の双性神に祈るのだ。
異教徒である事で、今でも謂われのない差別や蔑みを受ける事もあるが、信頼できる友人も心から忠誠を誓う主もできた。
今の暮らしは幼い頃に比べれば、豊かになった。
それでも時折、両親や一族の者だけで小さなキャラバンを組み、僅かな食料と水を分け合って砂漠を渡っていた頃の事を懐かしく思う。
ナジャは口元に僅かな笑みを掃く。
昔の事を思うのは疲れている証拠だった。
忙しさという点においては、普段と比べても変わりのない一日だった。
だが、本当に疲れたのだ。
精神的に。
ナジャはそっと溜め息を吐く。
忙しさにかまけていれば感じないが、気を抜くと感じてしまう、顔中に広がる傷の痛み。
子供の頃ですら、こんな派手な擦り傷を作った事はなかった。
ヒソヒソと侍女や部下達が何事かと囁くのを、無視し続けるのは骨が折れた。
一度だけ、「笑いたければ笑うがいい」と思って睨み付ければ、相手は凍り付いてその後仕事にならなくなってしまった。
つまりナジャは、仕事を円滑に進めるために、ヒソヒソ声やチラチラと頬に刺さる視線を無視するしかなく、恐らくそれが精神的な負担となってしまったのだろう。
外国からの使者を相手に腹の探り合いをしている方が余程マシだと、ナジャは幾度となく考えた。
しかし逆に、反動でその背中をから生じる黒いオーラが普段の三倍増しに垂れ流し状態になり、これならいっそ間諜の嫌疑で捕まって拷問される方がマシだと、部下達が思っていた事を、ナジャは知らない。
――あんのアマガエルッ!
ディンゼアでなくとも口にしてしまいたくなる悪態に、ナジャはギュッと奥歯を噛みしめる。
何時もなら心が凪いでいく祈りの時間だというのに、今夜ばかりはなかなか平安が訪れない。
「夜の双性神よ。夜影よ。どうか私の心をお鎮めください」
アヌハーン神教では、夜の精霊は死を運ぶものとして、不吉の象徴とされている。
しかしヨグナ教では、夜影は単なる案内人ではなく、審判者とされている。
人は生前の行いによって、冥府の行く先が決まる。
来世までを安らかに過ごすか、或いは生前の行状を償うためにどのような刑に服するか。
こうした考え方はアヌハーン神教にはなく、神教では死は善人にも悪人にも等しく訪れるものとされている。
神は人を罰しない。
それがアヌハーン神教の教えだ。
何故なら神は人に無関心だからだ。
だがそれは、ナジャにしてみれば、神殿の腐敗を許す言い訳にしか思えなかった。
罰の有無によって行動を決めるのではなく、己の良心に従って行動を律する事ができれば一番良いとは思うが、人というものはそんなに強い生き物ではない。
人は容易く堕落し、安易に罪を犯す。
だがまた同時に、とナジャは自嘲する。
それを利用して今の地位を得たのも、また事実だからだ。
「………寝るか」
思った様な安らぎは得られなかったが、随分と落ち着く事は出来た。
明日もまた早い。
ナジャはランプを消して、明日の予定を頭の中で整理しつつ、シーツの間に身体を滑り込ませた。
月明かりが丸い高窓から降り注ぎ、毛足の長い絨毯の上に地上の月を描く。
まな裏に浮かぶのは、日中の日差しを避けて歩いた夜の砂漠。
月影の下、砂紋が刻々と移り変わり、二度と同じ風景に出会う事はない。
今はもう大国の支配下に置かれてしまったあの砂の海を、歩く事は二度とないだろう。
今でも思い出す。
月も星もない夜には…。
「ん?」
ふと思い返して、ナジャは回想を中断する。
月も星もない夜など、ありえない。
月がなくとも、星がある。新月の夜は、寧ろ星々の瞬きが増す事はあっても、星が見えなくなるという事はない。
月も星も見えないのは、雲の厚い夜くらいだが、滅多に雨の降らない砂漠で、そんなに厚い雨雲に出くわす事はない。例え出くわしても、そんな天気の不安定な夜に、砂漠を渡る事はない。
それはまるで、言い伝えに聞く死出の道ではないか。
バカバカしい。
そんな夜空、見た事がない。
ナジャは、己の思いつきを鼻で笑った。
が。
カッ!!
目から光線でも出しそうな勢いで、ナジャは目を見開いた。
ガバリッと勢いよく上体を起こして、ベッドから飛び降りた。
バタバタバタッ。
ガチャン!
バタン!!
バタバタバタバタバタ――――――!!
クラリス=レヴィド・エルド・ノーザラン・ハジェク・ソルダークが王宮で与えられている自室に戻ったのは、その夜も日付が変わってからだった。
宰相という仕事は、全ての大臣の上に立ち、国王御前会議の議長を勤める要職中の要職だ。まだ年若い彼がその職に就く事は決定済みだったとは言え、前国王の急逝によりかなり前倒しになった感は否めない。
前国王は病に倒れてから、ひと月と保たなかったのだ。
余りにも急な死に、毒殺ではないかという噂もあった程だ。
しかし、前国王が暗殺される理由は殆ど見当たらなかった。
彼は為政者としては凡庸だったが、それを自覚していたため、議会に対して特に異議を申し立てる事がなかったという。その一方で、その高貴な血筋を最大限に利用して、巧みな政略婚で勢力関係を偏らせないという強かさも持ち合わせていた。
クラリス自身、皇太子に付き従って何度か前国王とまみえたが、全く為人の伺えない人物だった。
覚えているのは、実の息子である皇太子を前にして、何とも無感動な表情をしていた事だ。
義父であるノーザラン侯爵でさえ、前国王に比べれば随分気に掛けてくれている様に思う。
その義父が一度だけ前国王について口にした事があった。
――一体何がしたいのだ、あの男は…。
前国王が国王の絶対権限を使ったのは、生涯で一度きり、第四正妃を迎えると突如言い出した時だけだったらしい。
平民出身者を正妃に迎える事に、当然のごとく議会は反対した。
一方で、それを利用した貴族もいた。
クラリスの義父、ノーザラン侯爵だ。
義父は、第一王子の立太子を条件に、国王のために働いた。
第一王子の聖母はナディシス王国の王女だが、義父にとっては従姉妹に当たる。
その伝手を最大限に使い、皇太子の元へ、義理の息子である自分や、派閥の貴族の子弟を送り込み、地盤を固めた。
ところが、蓋を開けてみれば、現れたのはヴィセリウス大神官を後見人に持つ「聖者」であった。
前もって「聖者」であると、ヴィセリウス大神官が後見人だと分かっていれば、平民出身などという事は些末な事実にしか過ぎず、議会から反対を受ける事もなかっただろう。
何を考えているのか分からないと言われても仕方がない様な行動だ。
第三王女に関してもそうだ。他の王子や王女に対する冷淡さからすれば常軌を逸しているとしか思えない過保護ぶりだった。
「ウッ」
クラリスは痛みを感じて小さく呻いた。
シャツを脱ぐ時に、傷を強く擦ってしまったのだ。
傷そのものは浅いが、細かい石がめり込んでいたせいか、何時までもジンジンと痛む。
触ってみると、僅かだが熱がある。
こんな擦り傷、子供の頃ですら作った事はなかった。
「そういえば、親父はよく作っていたな」
クラリスはそう言って、髪の色を除いて自分にうり二つだった父親の事を思い浮かべた。
尤も父親が付けていたのは、専ら女性の爪によるミミズ腫れだったが。
蝶々の様な男で、次から次へと愛人を作る不実な夫だった。しかし妻に対して愛情がなかったという訳ではない。寧ろ、浮気相手に妻との惚気を聞かせるという、奇妙な男だった。
――イリュジュナが好きすぎて自分の愛で押しつぶされそうだ。
などという事も言っていた様な気もする。
イリュジュナというのは、クラリスの生母で、現ノーザラン侯爵夫人である。
平民出身で、顔立ちはどう贔屓目に見ても平凡な女性である。
どういう訳か父親の方がベタボレで、何度も泣いて頼み込んで結婚してもらったのだと、自慢気に言っていた。
なのに浮気が止まらないというのは、病気としか思えない。
よく周囲からは何時か女達から刺されるなどと言われていたが、その度に父親が持ち出していたのは「ディレイン・ロウの伝説」だった。
――僕は精霊をも誑かす美形さ!!
と、恥ずかし気もなく言っていた。
だが、その父も、流石に精霊を誑かす事はできなかったらしい。
恐らく、精霊相手に妻との惚気話でもしたのだろう。
「フッ。俺は決して失敗しない」
クラリスはそう呟いて、ベッドに潜り込もうとした。
その瞬間。
クラリスは落雷を受けた様な衝撃を覚えた。
ピキリとシーツを捲る手が固まった。
やがてクラリスの秀麗な顔立ちが、徐々に驚愕の表情へと変わってゆく。
バサッ。
バタバタバタバタッ!
ガチャッ!
バタンッ!
バタバタバタバタ――――――!
「クラリス!?」
「ナジャか!!」
二人は廊下で鉢合わせた。
深夜の王宮に、声が響く。
ナジャとクラリスは何も言わずにただ頷きあった。
「オーランドとディンゼアにも確かめましょう」
「よし」
二人は脇目も振らず近衛の宿舎に向かった。
「内庭を横切りましょう!」
「近道だなっ!」
途中見回りの騎士とすれ違ったが、挨拶も交わさなかった。
ガタンッ!
内庭へと通じるドアの閂を空け、見張りの騎士が驚くのも構わず庭へ出た。
その時、二人を呼ぶ声がした。
「ナジャ!!」
「クラリス!!」
二人が前方へと目を凝らしてみると、目当ての人物が向こうから駈けてくる。
「オーランド!?」
「ディンゼア!」
内庭の中央で、四人は顔を突き合わせた。
「お前らも、思い出したのか!?」
勢い込んで訊いてくるディンゼアに、ナジャが力強く頷き返す。
「はい! あなた方も??」
「「ああ!!」」
「一応確認しますが、どんな夢でした?」
ナジャはそう言って、努めて冷静になろうとするが、自分でも声が震えているのが分かった。
その問いに、オーランドとディンゼアは同時に答える。
「ナジャの背中からイカ足が生えていた!!」
「ナジャの背中からタコ足が生えていた!!」
言い終えると同時に、オーランドはディンゼアの言葉を、ディンゼアはオーランドのそれを否定する。
「ディン! アレはイカの足だろう!」
「いいや、違うぞオール! 寧ろタコだろうがっ!」
「………ほう?」
ナジャの声音が冷ややかになった事にも気づかず、二人の近衛は譲らない。
「あの弾力はタコだ!」
「いいやっ。あのしなる様な動きはイカだ!」
――イカの足とタコの足の違いってなんだ?
――さあ。色と食感じゃないのか?
――え~、目隠しされて食ったら、分かんねえ自信あるわ、オレ。
――あ、オレも~。
四人の尋常ではない様子に後を付いてきた騎士達が、物陰に隠れながらヒソヒソとそんな事を囁きあう。
――でもさ、王佐の背中から生えてきてるって話だよな?
――タコ足が?
――イカ足が?
――ええ~~。そんな可愛いモン、生えんだろう。あの背中からは。
――あ~、確かに。生えるとしたら、赤や白じゃなくてさ。
――真っ黒じゃね?
――言えてる!!
彼らは決して声が漏れない様口元を押さえながら、肩をふるわせて笑った。
しかし彼らがどんなに努力しようとも、それらの会話は全て王佐に筒抜けだった。
当然の如く、後に彼らは筆舌に尽くしがたい目に遭うハメになるのだが、それはまた別の話である。
「ディン! お前、タコとイカの違いを知っているか? タコの吸盤は柔らかいが、イカの吸盤は固いんだぞ!」
「そんな事ぁ、知ってるぜ! イカの吸盤の内側にはギザギザがあるけど、タコにはない。何故だか分かるか!?」
「ああ! タコの吸盤は吸い付かせるのが目的だが、イカの吸盤はギザギザを爪の様に使って引っかけるためだ!」
最早タコ足かイカ足かの問題ではなく、タコとイカの雑学問答と化している言い争いは、見物している騎士達に全く役に立たない知識を植え付けながら、熱くなっていく。
それに反比例して、ナジャの周囲の気温は下がってゆき、今や体感温度は氷点下を超えていた。
――さ、寒い!
――今は夏だってのに。凍えるようだ!
騎士達が物陰でガタガタと身体を震わせる。
「アレはタコの足だ!」
「いいや、イカだ!!」
既に二人は議論の主旨を、というよりも己を完全に見失っていた。
何故そこまで拘るのか、一体何が彼らを駆り立てるのか?
正直誰も興味はなかったが、誰もが思った。
――夜中だぞ!?
勿論夜中にベッドから飛び出してするべき会話ではなかったが、それ以前にいい年した大人の会話ですらなかった。
そんな二人を見かねたのか、クラリスが身体を割り込ませて止めに入る。
「いい加減にしろ!!」
滅多に聞かないクラリスの怒声に、オーランドとディンゼアが瞬く間に我に返る。
「あ…、すまん…」
「悪ぃ」
気が抜けた様な謝罪に、クラリスはしかし、厳しい眼差しを和らげようとはしなかった。
「貴様ら、どうかしているぞ?」
オーランドとディンゼアは、素直に謝罪する。
「ああ、そうだな」
「全くだ…」
心から反省しているらしい二人に、クラリスは厳かに言った。
「そもそもアレは、タコ足でもイカ足でもない」
「そうか…」
「そうだよな…」
二人とも己を恥じて項垂れる。
が。
続くクラリスの言葉に。
「よく思いだぜ。アレには吸盤がなかっただろう」
ん?
となった。
「えっと、クラリス?」
「何が言いたい?」
二人の戸惑い顔に、クラリスはフッと鼻で笑って言った。
「アレはどう見ても、クラゲの足だろうが」
バキィイイッ!!
その瞬間、クラリスの身体が跳んだ。
クラリスの身体が、ゆっくりと弧を描いて地面に落ちる。
ドサァアアア!
「「あ!!」」
オーランドとディンゼアは、同時に叫んだ。
それは正しく、夢で見た光景だったからだ。
「やはりただの夢ではなかったか…」
「ああ。夢じゃねえな…」
二人は心の底から願った。
――今こそが夢であって欲しい!!
と。
精霊に祈りながら、背後から迫り来る凍える様な冷気をヒシヒシと感じていた。
余談ではあるが、見物していた騎士達は、幸か不幸か既に仮死状態となっており、最悪の厄災からは逃れる事ができたのであった。
お疲れ様でした。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
削ろうと思ったんですが、削れなかったので…。
副題の元ネタは昔のフジテレビ系のドラマですが、見てないので、話の内容はイマイチ分かりません(^ ^;)>。ホラーじゃないのは知っていますが。