第三六話 カエルには舌がない場合もあります
ゆっくりと視界が明るくなって、アタシは世界を認識する。
フランス窓――この世界ではランフール様式窓というらしい――と、繊細な陰を落とすレースのカーテンと、そこから降り注ぐ月光と。
大きく見える月が、まだ夜が浅い事を物語っている。
この世界の月は四十日周期で満ち欠けし、それを九度繰り返すと一年となる。
一年が九ヶ月しかないわけだけど、日数換算で三六十日なので、元の世界より若干短いくらいだ。但し、一日は十八時間、一時間は九十分となっていて、分換算するとこちらの方が長くなる。尤も、こちらでの一秒の基準が分からないから地球時間と同じ様に考えて良いかどうかは不明だ。
んで三年か四年に一度閏年があって、その年だけは一年が十ヶ月になる。
三年か四年って辺りに大雑把感が否めないけど、現実世界の暦だって昔はそんなものだった。
で、この十番目の月ってのが物凄く重要で、それが何時来るのかを決めているのが、アヌハーン神教ってワケである。逆に言えば、暦の計算方法を神教が独占してるって事なのだ。
考えれば考える程、敵には回したくない相手である。
けれど。
だからと言って。
みすみすリズを利用させるつもりはない。
そりゃ、ある程度利用されるのは仕方がないと思う。
それでアヌハーン神教という強大な後ろ盾が得られるのなら。
でも。
神人なんてワケのわかんないものに祭り上げられるのはお断りのコンコンチキってヤツである。
ところで、コンコンチキって何だろう??
なんてことを考えながら、アタシは天蓋のレースのカーテンを捲り上げる。
するとそこには、嘆美系アニメの世界から抜け出したような美少女が!
見よ!
この愛らしさ!
世のプリンセス趣向のオトメ達よ!
リズの前に平伏するが良い!
アタシはベッドに乗り上げて、スヤスヤと安らかな寝息を立てて眠るリズをそっと覗き込む。
けれど残念ながらリズの可愛い寝顔は見られなかった。
リズが横向きにクルリと丸くなった姿勢で、緑のカエルの腹に思いっきり顔を押しつけていたからだ。
四号のあり得ない捻れ具合は今更だけど、リズ、息苦しくないんだろうか?
羨ましいぐらいの高さの鼻は、ビビッドなオレンジ色の布に埋もれて今は影も形も見えていない。
さて、どうしよう。
リズが起きないのなら、地下迷宮へと潜って調べ物したいところだけれど。
アタシは水かきの付いた青い掌でリズの髪を撫でる。
そう。
今宵のアタシはケロタン二号。
二号がリズに会うのは、行方不明になった夜以来。
リズにしてみたらイロイロ言いたい事もあるはずだ。
二号には、それを受け止める義務がある。
それに万が一、リズが目が覚た時に二号がいなかったら??
ここの所不安定なリズには、堪えるのに違いない。
けれど調べたい事は山のようにあるのも確かだ。
あの地下迷宮には、公にできない様な情報が山の様に眠ってる。
特にイスマイルの建国史。
この間の夜突然降って湧いた様に頭に浮かんだ考えに、もし根拠が得られたら。
それは、宰相達との重要な取引材料になるはずだ。
上手くいけば、神殿側への牽制にもなる。
と思う。
そんな風にウンウン思い悩んでいると。
「ん…」
気配を察知したのか、リズが僅かにむずがった。
四号のオレンジ色の腹から顔を離し、眠たそうに目を擦る。
やがてゆっくりと長い睫毛が上がり、この世界で最も高貴な色を湛えた瞳が現れる。
「………クリス?」
ちょっと寝ぼけ声でそう呟くリズは、どうかと思うくらい愛らしい。
「やあ、子リスちゃん。良い子にしていたかい?」
アタシはそう言って、水掻きのついた手でリズの髪を一房取ると、チュッと口づけを落とす。
口づけったって、単に顔面を擦り付けてるだけだけど。
それでも、鳥肌ものの気障な仕草だ。でもそれをするのが二号である。
「クリス!」
リズはガバリと起きあがると、二号に飛びかかった、じゃなくて抱きついた。
まあ、それくらい勢いがあったって事で。
その反動で、四号の体がベッドの端に飛ばされる。
あり得ない方向に曲がった手足が、何とも哀愁をそそる。
二号は二号で、リズの胸に顔面を思いっきり押し付けられて、生身だったら間違いなく窒息死しそうだ。
ケロタンだからいいものの、人間の男相手には絶対こんなことしちゃいけません、とか注意しておくべきだろうか?
まだ十二歳のリズには早すぎる様な気もするけれど、日本人のアタシからすれば発育の良すぎる胸にちょっと、いやかなり心配になる。
この際、アタシのそれよりデカいかどうかは置いといて。
「子リスちゃん、溢れんばかりの君の愛で僕の息は今にも止まりそうだよ」
「大丈夫! クリスは呼吸してないもん!」
そりゃ確かにそうなんだけど。
真実が正しいとは限らない。
と、教えるべきだろうか?
いやいや、そういう哲学的な事は五号の仕事だ。
「勿論、僕は呼吸も心臓も止まらない。そもそもどちらもないからね」
「うん! クリス達は、だから絶対死なないの!」
リズの明るい声音に、一瞬身につまされる。
死は誰の心にも陰を落とす。幼いリズには尚更だ。
けれどここでしんみりしてはいけない。
「ふふ。少なくとも、世のあらゆる女性という女性と愛を語り尽くすまで、僕は死んだりしない」
「蜂とも?」
「蜂とも」
「蟻とも?」
「蟻とも」
「ミジンコとも?」
「ミジンコともさ!」
「じゃあ、まだまだ死なないわね」
リズは二号の体を離して、にっこりと笑って言った。
それにアタシは、気障ったらしく顎を指で挟みながら答えた。
「そうだねえ。彼女達は一日に何万と増えているからねえ。僕の愛の遍歴はこの世の終わりまで終わりそうにないよ」
バカみたいな会話だ。
幾らリズが子供だからって、それくらいのことは理解している事だろう。
けれどこれくらいバカバカしい会話じゃないと、リズの心に色濃く落ちる影は払えない。
特に未だ父親の死を消化しきれないリズには、死なないケロタンの存在は心の支えだ。
「ところで子リスちゃん。僕に言いたい事があるんじゃないかい?」
アタシがそう尋ねると、リズはキリッと眉毛を上げた。
「勿論! 沢山あるわ! 私、物凄く心配したんだから!」
よっぽど鬱積してたのか、怒りでリズの頬が赤くなる。
ああ、そんなに可愛い顔で怒られても、全然怖くないから。
アタシは内心でやに下がりながら、精一杯神妙な声で言う。
「うん、そうだね。悪かった。そして、心配してくれてありがとう」
そっと宥める様にリズの両手を取ると、リズはギュッと握り返してくる。
その力の強さが、リズの不安の大きさだと思い知る。
いや、マジで反省してます。
リズの怒った顔は怖くはないけど、傷つけるのは怖い。
「私だけじゃないわ! みんな心配してたんだから」
「うん。みんなにもよく謝っておくよ」
「コンスタンスやセルリアンナだって、いっぱいいっぱい探したのよ!」
「彼女たちには、また改めて謝罪するよ。他に迷惑掛けた人はいるかな?」
二号の問いかけに、リズは小首を傾げて僅かの間考える。
「昨日、娘子軍の人達が来たわ」
「シエル・アマリーアとシエル・イザベルだね? 二人は何て?」
アタシはナイスバディな隊長さんと華やかな美貌の副隊長さんを思い浮かべた。
「ええと、よく分かんないけど。クリスにお世話になったとか何とかで、会いたいって言ってたわ」
なるほど。
神殿はそっちの方面から接触してきたか。
「ねえ、クリス。どうして二人の事知ってるの?」
リズの不思議そうな問いかけに、アタシは自慢の白い歯をキラめかせて言った。
「何、彼女達とは、愛の逃避行をした仲なのさ。一緒に居たのはほんの束の間だったけど、どうやら彼女達もすっかり僕の魅力に参ってしまったみたいだね」
娘子軍の二人が聞けば間違いなく憤慨するだろう。
けれど幾ら二枚舌と罵られようと、アタシには痛くも痒くも全くない。
だって、布製品のケロタンには舌なんかないんだも~ん。
なんちゃって。
因みに、リアルなカエルにもピパという舌がない種類のものがいる。
何でも獲物を捕るのに舌が必要ないためらしい。
ケロタンも獲物を捕るのに舌は必要ない。というか食事をしない。
だったら歯もいらないんじゃないかと思うけど、そこら辺のこだわりは王妃にしか分からない。
「とうひこう? 逃げてたの?」
リズが心配そうな顔をする。
それにアタシは何でもないとばかりに肩をすくめて、
「そう。邪悪な魔物達からね」
この世界で言う魔物ってのは、邪悪な魔法使いの成れの果てで、その汚れた魂は生まれ変わる事ができないらしい。輪廻転生が普通に信じられているこちらでは、生まれ変われないってのは神罰なんだとか。要するに、魔物ってのは神に見放された人間って事だ。
「魔物!? 大丈夫なの!?」
途端に、リズの顔がサッと青くなる。
う、そこまで真っ正面から反応されると、心が痛む。
「勿論平気さ」
内心の葛藤を押さえ込んで、明るい声で言う。
「女性を庇って肩に少しばかり傷を負ったけど、大した事はなかったよ。名誉の負傷というヤツさ」
「傷…。そういえば、クリスの肩が少し綻んでたから、繕って貰ったわ」
何時も通りに軽い口調で言ったのに、リズの表情は曇ったままだ。
ありゃりゃ、ちょっと効果があり過ぎたか。
アタシが内心でオロオロしてると、
「ねえ、クリス?」
リズが心の奥底まで覗き込む様な目をして言った。
「何か、私に隠していない?」
「………どうして、そう思うんだい?」
「昨日ね」
「うん?」
「朝起きたらミリーの足が汚れていたの」
しまった。
あの夜、五号に入ったアディーリアに出くわしたお陰で、四号の足を洗えなかったんだった。
いや、どちらにしろタイミング的に洗う時間はなかっただろう。
「他のみんなは時々そういうことがあったけど、ミリーは今までなかったわ」
「………そうだね」
やっぱり、四号で出かけるべきじゃなかったか。
けれど、あの夜は既に一号が出ていたし。
てか、一号と鉢合わせしない様にすることしか考えられなかったし。
「それだけじゃないわ。ディーがセルリアンナと話したがったり。みんな宛に手紙が来たり…。みんなの事は、私とかあさまとだけの秘密だったのに」
何て言えばリズは納得してくれるのか。
軽くパニクったアタシには、全く考えが浮かばない。
「ねえ、クリス。正直に言って」
リズの思い詰めた様な眼差しに、アタシはますます追い込まれる。
その時だった。
視界の端で、緑の陰がゆらりと動いたのは。
そして。
「その事に関しては、私から言うわ」
「ミリー!?」
リズが振り返って、声の主を呼んだ。
アタシはその声の主と目が合った瞬間、何故か分かった。
うわ~、うわ~うわわわわ~~~!
もう一人のアタシだよ!!