第三三話 カエルは意外と毒性が強いです その2
それは十二になった最初の週末だった。
会社員の父親とパート勤めの母親、そしてアタシ。
誕生日の御祝いに、家族で遊園地に行く事になっていた。
長雨の後の青空は本格的な夏の気配がして、朝からお母さんがお弁当作って、アタシはおにぎりには蜂蜜梅じゃなくて酸っぱいのを入れてくれと、我ながら小学生とは思えない渋いリクエストをした。紀州南高梅を使った果肉の多い蜂蜜梅はとても美味しいけれど、アレはあくまでもお茶請け用で、おにぎりには酸っぱいシソ梅が一番だというのが、当時のアタシのコダワリだった。何でそんなコダワリを持っていたのかは謎だけど、子供ってのはそんなものだ。
それから、ワイワイ言いながら三人で車に乗って。
お父さんの。
「アムロ、行きま~す!!」
という当時のアタシには全く謎の掛け声で、出発した。
それから車の中で、何故か誰が一番「カエルの歌」を哀愁を込めて歌えるかを競った。
哀愁のあの字もしらない小学生に何をやらすんだって、適切なツッコミを入れられる人間は残念無念な事にその場にはいなかった。
何度思い返しても、頭の悪い家族だったと思う。
そして。
その日の記憶は、そこでお終い。
全部。
お終い。
「うん、大丈夫。ただの夏バテ。友達が大げさにとっちゃって。うん。そう。ここんとこ、寝苦しくてあんまり寝れてなかったから。検査結果も、異常なし」
公衆電話なんて、一体何年ぶりだろう。
なんてことを頭の隅で考えながら、アタシは電話の向こう側へと耳を澄ます。
『本当に? 何かあったら、遠慮なく言うんだよ? 僕では、頼りにならないだろうけど』
優しい気遣いに溢れる大人の男の人の声。
「まさか。そんなことない。叔父さんにはイロイロしてもらってる」
『でも…』
叔父さんの声が僅かに沈む。
後悔だとか、罪悪感だとか。
叔父さんは優しいから、そんな感じなくていいものを感じている。
アタシはそれが居たたまれなくて、無理矢理に話題を変えた。
「それよりさ、ゆかりちゃん、元気?」
『あ、ああ。ゆかりなら、元気だよ』
「中学生になったんだよね?」
『ああ。夏休みなのに、クラブ活動で毎日学校に行ってるよ』
「へ~、クラブ、何?」
『バスケット』
「うわ~、ハードそうだね」
『毎日へばって帰ってくるよ』
従姉妹に当たる少女と顔を合わせたのは、数える程だ。
しかも彼女は、まだ幼稚園にも入ってなかったと思う。
「でも、ゆかりちゃんも、もうそんな歳かぁ。ちょっと前まで、掌に乗るくらい小さかったのにね」
アタシは記憶を辿りながらしみじみと言う。
『それは、幾ら何でも小さすぎだよ』
電話の向こうから届く、遠くで打ち寄せる波の様な笑い声。
男の人なのに、こういう時の笑い方がお母さんにそっくりだと思う。
実際は、そんなに似ていないのかもしれないけれど。
アタシの記憶の中で繰り返されたそれは、いつの間にか叔父さんのそれと入れ替わっているのかもしれないけれど。
『本当に、何かあれば連絡しなさい。でないと、僕が凪子さんに叱られちゃうからね』
「それは、怖いな」
『そう、怖いんだ』
アタシと叔父さんは、またひとしきり笑って電話を切った。
ピーッという電子音と一緒に吐き出されたテレフォンカードを受け取る。
すると、ドッ疲れがのし掛かってきた。
叔父さんの事は嫌いじゃない。寧ろ好きだし、純粋にいい人だと思う。
けれど、話したり会ったりするのは、やたらと疲れる。
それでも、例の馴れ馴れしい医者が連絡しちゃった以上、話をしない訳にはいかないのだ。
――だって、病歴を訊く必要があったからね。
医者は言った。
叔父さんは、アタシの後見人だ。
更に言えば、いざというときの連絡先は、アメリカにいる叔母さんじゃなく九州の叔父さんってことになっている。
つまり、大変結構極まりなく真っ当なご意見なんだけど。
「はあ」
アタシは大きく溜息をついて、自分の病室に戻るべくトボトボと歩き始めた。
「スミちゃん」
すると正面から、瞬市さんの声。
「あ、アタシ、シュークリームが食べたいです。生クリームとカスタードが入ってるヤツ」
疲れたときは甘いもので癒されるに限る。
アタシだって、いっぱしのオトメなのだ。
「………何の話?」
「何か買いに行くんでしょう?」
恵美のパシリで。
すると瞬市さんは、大袈裟過ぎる程肩を落として言った。
「酷いな。君が遅いんで、心配して見に来てあげたんじゃないか」
仮にアタシに殺意を抱いていようとも、大人としての分別はある人だから、彼の言葉の何割かは本当なのだろうけど。
「恵美にせっつかれましたか?」
「うんそう」
やっぱり。
「そういう時は、甘やかさずに恵美を寄越せばいいんですよ」
「公衆の面前で可愛い妹が説教されると分かっていて、恵美を送り出せと?」
瞬市さんはそう言ってアタシの横に並ぶと、柔らかい微笑みを湛えて背中に手を添えてきた。
さっさと戻れという事らしい。
「説教なんてしませんよ。恵美がトンチンカンなのは今に始まったことじゃなし。そりゃもう、恵美は子供の頃から素っ頓狂な子で…」
瞬市さんは、恵美の子供時代の話をされるのがとても嫌いだ。
自分が知らないからだろう、全く傍目にはそうと分からないまま不機嫌になる。
「恵美子の素っ頓狂さなら、君に言われなくても十分知っているよ。君も小さい頃から恵美子を知っている割に、随分常識的で退屈な女性に育ったもんだ」
「恵美の素っ頓狂さを理解している割には、恵美がスクール水着で公衆の面前に出る事を予想できなかった様ですが?」
「それは、恵美子の素っ頓狂さが僕の予想を遙かに超えていたからさ。恵美子は僕の期待を常に軽々と飛び越えてしまうからね」
一応断っておくけれど、これでいて、瞬市さんとしては恵美を褒め讃えているつもりなのだ。
アタシと瞬市さんの会話は、実は全く成り立っていない。
受け答えとしては成り立っているが、二人のベクトルがまるで逆方向に向いているからだ。
「恵美の事だから、きっとムーンサルトでもしながら華麗に飛び越えてるんでしょうね」
「ムーンサルトなんてもんじゃないよ。リューキンだよ、リューキン」
「何ですか、ソレ?」
「後方三回転宙返りさ」
そりゃ凄い。
てか、愛する義妹に何をやらせるつもりなんだ、この人は??
まあ、何でも良いんだけどさ。
「瞬市さん」
アタシは立ち止まって窓の外を見下ろした。
夕刻だというのに威力の衰えない陽光が燦々と降り注ぐ庭には濃い色の影が落ち、唸る様な蝉の声が二重サッシにもめげずに鼓膜に届く。
事故の後、約二週間ぶりに目覚めたのもこんな日だった。
「ん?」
一、二歩進んでから立ち止まった彼に、アタシは深々と頭を下げた。
「この度は大変お世話になりました」
結局の所全く必要のなかった事とは言え、今回の事でイロイロと動いてくれたのは瞬市さんだ。
「いいえ。お礼はいらないよ。今回の事では、スミちゃんにはちょっぴり感謝してるしね」
「はあ」
「だって、恵美子はね。真っ先に僕に電話をくれたんだよ。父でもなく義母でもなく、葉璽でもなく。この僕にね」
「それはまあ、そうだと思いますけど」
恵美の父親は会社の社長で、母親はその秘書で、弟の葉璽さんはIT関連の会社勤めだ。
友人が意識不明の重体(と思い込んだ)場合誰に連絡すべきかなんて、幾ら非常識な恵美だってそれくらいの判断はできるだろう。
けれど瞬市さんには、そんな現実的な問題は関係ないらしい。
「君もそう思うかい! それは確かにそうだろうけど。でもね、恵美子がいざという時に一番に誰に頼るのか、改めて知る事ができて、僕はとても嬉しいんだよ」
瞬市さんは、一点の曇りもない晴れやかな笑顔で言い切った。
その笑顔を見ていると、何だか逆に、お礼を言って損した気分になるのは何故だろう。
「はあ、そうですね」
アタシは気のない返事をして、再び歩き出した。
今回の検査では、何にも異常がなかった。
アタシの体は全くの健康体だ。
敢えて言うなら、体脂肪率が平均より低いくらいか。
暗に胸が薄いと言われている様な気がするのは、僻みだろうか??
まあそれはともかく、ちょっと人間ドックに入った様なものだと思って、健康を喜ぼう。
臨時の出費としては、ちと痛いけど。
「スミちゃん」
「はい?」
「アメリカにいるって言う叔母さんには知らせないの?」
こういう気が回る点では、ちゃんとまともな人なのに。
元からこういう人なのか、恵美と出会ったからこうなったのか。
「向こうは、まだ真夜中ですよ」
アタシの答えに、瞬市さんは「それもそうか」と頷いた。
多分、叔母さんの方には叔父さんから連絡が行ってるだろう。
問題は叔母さんをどう納得させるかだ。
叔母さんは、叔父さんみたいにアタシの言葉を鵜呑みにしない。
手っ取り早いのは、お医者さんと直接話をして貰う事だ。
名前何だったっけ? 遠藤?
彼に後で話してみるか。
「ところで、素朴な疑問なんだけど」
「何ですか?」
「緊急時の連絡先はともかく、どうして君の後見人は叔母さんじゃなくて、叔父さんなんだい? ずっと一緒に暮らしてたんだよね?」
瞬市さんは、「事故の後」とは言わなかった。
でもそれが思いやりかどうかは、甚だしく疑問だ。
単に、敢えて言う必要がないと思ってのことだろう。
「何故って、その方が何かと面倒がないからですよ」
「面倒?」
「そういう個人的な話は、礼儀として聞くべきじゃないと思うんですが」
「うん、でも君に気を遣うのも面倒だしね。ただの好奇心」
優しさ三〇〇パーセントな笑顔で、何てことを言うんだこの人は。
といっても、特別な事情がある訳じゃないから、教える事に支障はない。
「ただ単に、叔父さんの方がアタシの血縁者ってだけですよ。母の弟ですから」
「叔母さんは?」
「叔父さんの元奥さん」
アタシを引き取った時には、既に二人は離婚していたけれど。
そこまで言う必要なはいだろう。
「それってつまり」
アタシと叔母さんは。
「赤の他人って事ですね」
アタシがそう言うと、瞬市さんにしては珍しく何とも言えない微妙な顔をした。
「別に珍しい事じゃないでしょう? 恵美と瞬市さんだって、言ってしまえば赤の他人じゃないですか」
アタシがそう言うと、丁度良いタイミングで病室に着いた。