第三二話 カエルは意外と毒性が強いです
アタシは恵美が駆け出していった白いドアを呆然と見た。
そのドアが、ゆっくりとスライドして閉じてゆく。
ん?
ウチの勝手に閉まるドアじゃない。白くもなければ、あんなに長くてデカい銀色の取っ手も付いてない。
アタシは自分が見慣れぬベッドにいるのに気がついた。
いや、正確に言おう。
よく見るベッドだ。
医療系ドラマなんかで。
つまり。
病室のベッド。
しかも明らかに個室だ。
部屋の隅のドアは、おそらくトイレだろう。
それから、腕には点滴の針。
現実に帰ってこれた喜びに浸るハズが、次から次へと予想外のモノを見てしまったお陰で、そんなものは何処かに吹っ飛んでしまった。
「何事??」
恵美の涙にも、アタシ自身の状況にも、全く頭がついていかない。
アタシは昨日、というか今朝、確かに自分のベッドで寝たはずだ。
なのに何故、病院と思わしき場所に寝ているのか??
きっと恵美なら説明できるだろに、その恵美は泣きながら何処かへ行ってしまった。
綺麗に切れ上がった瞳に浮かんだ涙。
恵美は滅多なことじゃあ泣いたりしない。
短くはない付き合いの勘が告げる。
「アイツ、一体、何やらかした??」
何時だったか、恵美は以前、キンピラゴボウを作ろうとしてル・クルーゼの大鍋を焦がしたことがある。
何故ウチで作ろうとしたのかとか、何故そんなに大量に作ろうとしたのか、沢山言いたいことはあったけど、その時アタシには、
「料理の本に『だし』とあるのは、出し汁のことで、出汁の素のことじゃない」
と言うのが精一杯だった。
どうやら恵美は、出汁の素は入れたものの、水は一切入れなかったらしい。
お陰で、鍋の中いっぱいに半生ゴボウ飴とでも言うべき得体の知れないモノが出来上がっていた。
あの鍋は高校に受かったお祝いにと、叔母さんから貰ったモノだった。
キャベツの丸ごと煮を作るのに丁度いい大きさで、しかも可愛いからそのまま食卓に出せるという優れものだ。
勿論、恵美にはきっちり鍋を洗わせた。
その時もあんな風に涙を浮かべて、
「鍋め、ワタシを侮辱しやがって!」
とか何とか、訳の分からない事をブツブツと言っていた。
けれどそれも、今の状況に比べるとマシだったと思う。
なんて思っていると、ドアが開く音がした。
恵美か!?
と思って顔を上げると、全く知らない医者がいた。
いやまあ、医者の知り合いなんて一人しかいないけど。
「やあ、目覚めたんだってね」
三十半ばだろうか。医者は、どこか楽しそうな声でそう言った。
「はあ。お陰様で」
アタシはとりあえず、無難な相づちを打つ。
医者はそんなアタシを見てクスリと笑う。
感じ悪いな~と思っていると、その医者の背後からヒョッコリと見知った顔が現れた。
「スミちゃん」
「瞬市さん?」
アタシは目を見開いて彼を見た。
彼は、恵美の血の繋がらない長兄である。
血が繋がっていないだけに、恵美とは全く似ていない。
特別ハンサムという訳ではなく、寧ろ一度会ったくらいでは中々覚えられないような顔立ちだ。けれど独特の柔らかい雰囲気が相手に無条件に安心感を与える、そんな大人の男性である。
少なくとも、一見した限りでは。
「お早う、スミちゃん」
そう言って、瞬市さんが柔らかく笑う。
夢の中の腹真っ黒男のそれと違う、正真正銘春の陽だまりのような笑顔に、一瞬状況を忘れそうになる。
「はあ、オハヨウゴザイマス」
因みに瞬市さんは、若いながらも売れっ子美容外科医である。
医者の知り合いとは、彼の事だ。
腕が確かだというのもあるんだろうけど、こんな笑顔で、
「大丈夫、綺麗になりますよ」
なんて言われたら、誰だって全幅の信頼を寄せるに違いない。
けれどアタシは知っている。
彼が、必ずしも安心できる人間ではないことを。
彼は初対面の時に言ったのだ。
「大学に入ってから、恵美子がスミスミ言うもんだから、僕は実は密かに君に殺意を抱いているんだよ」
一欠片の黒さもない、親しみのある無害な笑顔で。
逆にそれが怖かった。
例えるなら、無害そうなアマガエルだと思って触ってみたら意外な事に有毒だった、みたいな感じだ。
アマガエルに限らず、大抵のカエルには強弱の差こそあるけど毒性がある。
アマガエルだって、ただ手で触ったくらいではどうとでもないが、その手に傷があったりその手で目や口を擦ったりすると、エライ事になるらしい。
運が悪けりゃ失明することもあるんだとか。
数ヶ月ぶりに見た彼の笑顔は、これまた尋常じゃない程柔らかかった。
その威力は凄まじく、有毒だと分かっていてもついつい癒されてしまう程だ。
アタシは、和みそうになる自分を心の中で叱咤した。
「瞬市さん。さっき恵美が、泣きながら逃げて行きませんでした?」
「うん、来たよ。スミちゃんが起きたって言いにね」
やっぱり恵美のヤツ、嘘泣きだったか。
多分、瞬市さんに丸投げしたんだろう。
「じゃあ、ちょっと、状況説明してください」
「いいけど。その前に、診察受けてね」
柔らかな笑顔の奥に、有無を言わさない力があった。
「………いいですけど」
本当は先に説明して欲しかったけど、アタシは渋々承諾した。
アタシは再び医者の方に視線を戻した。
すると医者が、感心したように呟いた。
「いやあ、凄いね。瞬市の笑顔に絆されない子がいるとは」
「いやいや、ちゃんと絆されますよ。ただ、自分を見失わないように気をつけてるだけで」
「警戒心が削がれないんだ」
「削がれますよ。でもその状況に警戒心がわき上がるので」
「う~ん、スミちゃんは人間不信なのかな?」
何で初対面の人間にちゃん付けで呼ばれなきゃならないかは置いといて、最近誰かにも同じような事を言われた様な気がする。
けれどアタシは、自分がそうだとは思わない。
自分の事なんて意外と自分が一番知らないものかもしれないけれど。
四六時中他人を疑ってたら、疲れるだけだ。
そして物ぐさなアタシは、そんな事に貴重な労力を使ったりはしない。
医者は遠藤だと名乗って、一通りアタシの体を検診する。
体温を測って、脈を診て、瞳孔診て、心音を聴く。
「気分は?」
「ある意味悪いです」
「吐き気や目眩は?」
「お腹が空きすぎて吐きそうですが」
夕べ結構食べたのに、尋常じゃないくらい空腹だった。
きっと「紅天女」への道が余りにも過酷だったせいだろう。
ああそうだ。
さっさと恵美をとっ捕まえて「くれないてんにゃ」について問いたださねば。
なんて思っていると。
「まあ、三十時間以上寝てれば、お腹も空くだろうね」
「は?」
アタシの間抜けな相づちに、医者が苦笑する。
「スミちゃん、今、何時か分かる?」
「午後四時十三分」
アタシは部屋の時計を見て言った。
寝たのは午前四時だか五時だったから、十一、二時間は寝た事になる。
普段の睡眠時間が七、八時間だから、ケロタン二体を渡り歩いた割には、睡眠時間は延びていない。ちょっと寝過ぎた程度だ。
前回五号から二号に転送されたときも睡眠時間は通常通りだったから、目覚ましさえ掛けてればカエル間転送は問題がないハズだ。
一体どうい仕組みなのかは、相も変わらず不明だけれど。
ただ今回どうやって起きたのかが分からない。
アタシが夢の世界から現実の世界に戻る条件は。
夢の世界で夜が明ける。
現実世界で目覚ましが鳴る。
現実世界で危機が迫る。
今回の場合、多分三番目のパターンだと思うけど。
危機って一体何だろう?
腹が減りすぎた飢餓感だろうか?
ていうか、病院に運ばれた事に気がつかないのって、どんだけ寝汚いんだよって話だけど。
「スミちゃん。じゃあ、今日は何日?」
いい加減この人、人の事ちゃん付けで呼ぶのやめてくれないだろうか?
なんて思いつつ、小心者のアタシは素直に答えてしまう。
「八月一日ですが?」
「違うよ」
答えたのは、医者じゃなくて瞬市さんだった。
「はい?」
「今日は八月二日だよ」
「違いますよ」
「違わない」
瞬市さんはそう言ってポケットから携帯を取り出すと、アタシに画面を見せた。
アタシはそれを見て、目を皿のように見開いた。
デジタルな文字で表示された日付は間違いなく、八月二日。
この際、待ち受け画面が妹の写真である事は触れないでおく。
「マジで?」
「マジで」
つまりアタシは、
「三五時間くらい寝てた?」
そりゃ腹も減るだろう。
じゃなくて。
寝汚いにしても、それは異常だ。
想定外にも程がある。
前回と今回とでは何が違ったんだろう?
目覚ましを掛け忘れた事と、アディーリアに会った事だ。
今までだって目覚ましを掛け忘れた事はあったけど、ここまで長く眠った事はなかった。
とすれば、問題はアディーリア?
アディーリアと会話した時間は短かったと思うけど。
多分時間そのものは関係ない。
じゃあ何が関係してるのか、アタシにはサッパリだ。
今まで「まあいいか」で済ませてきた事が、ここに来て重くのしかかってくる。
けれど一番の問題は、自分では何一つコントロールできないってことだろう。
カエル間転送にしても、アディーリアとの事にしても、常にアタシには選択権がない。
そもそも、アディーリアとの契約の時だってそうだった。
いや、正確には、選択肢は他にもあったけど。
あれを選択肢と言えるかどうかは、疑問だ。
アタシは歯がゆさを噛み締めながら、取り敢えずは今目の前にある問題に集中する。
そうでもしなけりゃ、訳が分からなさ過ぎて頭が爆発しそうだ。
「でもなんで病院に?」
三五時間は明らかに寝過ぎだけれど、寝過ぎという理由で病院へ入れたりはしない。
すると瞬市さんが、こんな時ですら安心感を与える笑顔で言った。
「だってスミちゃん、恵美子に抓られても叩かれても全く起きないんだもの」
瞬市さんの言葉に、アタシはハッとなって頬を押さえた。
………何だかさっきからやたらと顔がヒリヒリすると思ったら。
恵美のあの捨て台詞は。
コレを誤魔化すためかっ。
アタシの怒りは、けれど続く医者の言葉で掻き消される。
「君、昏睡状態なんじゃないかって、ウチに運び込まれたんだよ」
「はい?」
いやいや、ただ寝てただけですが?
アタシがそう反論する間もなく、瞬市さんが言った。
「スミちゃん、子供の頃、交通事故で昏睡状態に陥った事があるよね?」
恵美に抓られた頬が痛すぎて、アタシは言葉を継げなかった。
しばらく「現実」が続きます。