第二九話 カエルの鼓膜は剥き出しです
結論から言えば、アタシは五号に投げ飛ばされたのだ。
ケロタンの軽い体はクルクルクルッと自転しながら、タペストリーからカウチまで綺麗な弧を描いた。
生身なら、間違いなく三半規管が悲鳴を上げたことだろう。
当然ながら、カエルにも三半規管はちゃんとある。
目の後ろにある剥き出しの鼓膜の奥に、殆ど人間と同じモノがあるというのも不思議だけれど。
全方向視界のケロタンの目に、寝室と窓の外の風景が万華鏡を回すが如くクルクルと入れ替わる。
部屋の中は暗く、東の空は白い。
視界の隅で、黒いカエルがアタシを追いかけるように走っているのが見えた。
ポスンッとカウチに体が着地したその瞬間。
脊椎真っ二つな姿勢のままで。
アタシは夢の世界とおさらばしてた。
そして目が覚めたのは、例の薄暗いカエル転送空間。
こうなれば流石に、予想も付くので驚きはしないけど。
何時になったら現実世界に戻れるのか?
アタシは呆れたらいいのか怒ったらいいのか分からないまま、背後の人影に声を掛けた。
「で、何でアンタがいるの? アディーリア?」
長く豊かな紫の巻き毛に満月みたいな金の瞳。
完璧な美貌に完璧なプロポーション。
薄暗い空間の中で、彼女の周囲は滲む様な淡い光で包まれている。
その姿は、黙っていれば美の女神か愛の女神かってくらいの神々しさだ。
彼女を見ていると、本当の美人というものはチャームポイントというものがないのだと分かる。というのも、どこか一つのパーツだけが優れているということがなく、要するに全部のパーツが完璧なのでどこか一つだけ魅力を挙げろと言っても不可能だからだ。
但し、それもこれも全部黙っていればの話。
「そんなの決まってるでしょ。貴女がイロイロやらかしちゃったからじゃないのっ」
絶世の美女は、腰に手を当てて偉そうにふんぞり返りながらおっしゃった。
その美しい唇から出た言葉が「女王様とお呼び」じゃないのが不思議なくらい、偉そうだ。
「可哀想に、アディーリア」
仕方がないので、アタシは小さな子供を諭す様に言ってやった。
「アンタ、死んじゃってるんだよ。とっくの昔に。だからさっさと成仏しなよ」
ついでに手を合わせて「南無南無~」と拝んでみせる。
「あいっかわらず、腹の立つ子ね!! キ――!」
「ああ、懐かしい『キー』だ。それを聞くと、『ああ、アディーリアだな』ってシミジミ思うよ」
「妙な所で懐かしまないでよっ」
キッと睨み付けてくる顔も、こりゃまた当然美しい。
アディーリアに出会うまで、アタシはこの世の中に「キー!」と言う人間が本当にいるとは思ってもみなかった。そして後にも先にも、アディーリア以外にそんな事を言う人間をアタシは知らない。いや、一人だけいたか。ヒステリー持ちの第二正妃だ。彼女が夜中に侍女さん達を呼び出して文字通り「キーキー」唸ってた。初めて聞いた時は、猿でも飼ってんのかと思った程だ。
「貴女! また変なこと考えてるでしょう!」
詰問口調で詰め寄るアディーリアに、アタシはなんで分かったんだろうと思いつつ、
「まさか。しみじみと懐かしさを噛み締めてたんだよ、アディーリア。会えて本当に嬉しいよ」
その言葉自体は嘘じゃないので、心を込めてそう言った。
するとアディーリアはプイッとそっぽを向いて。
「そ、そう? 貴女がそこまで私に会いたかったのなら、少しくらいおしゃべりしてあげてもよくってよ」
相変わらずのツンデレ属性か。
そういう顔をしていると幼く見えて、本当にリズによく似ていると思う。
そもそもリズは父親の遺伝子なんざ一塩基も受け継いでないかの様に、アディーリアにそっくりだ。
「でも、アレまで似るのは困るなあ」
「なんですって!?」
地獄耳のアディーリアは、アタシの密かな呟きも聞き逃すということがない。
「何でも」
「嘘おっしゃい!」
そして勿論容赦もない。
でも彼女が感情を隠さないのは、アタシに対して心を許しているという証拠でもある。
アディーリアは猫かぶりだ。しかも相当デカい猫を飼っている。
裏表はありまくりだし、人の好き嫌いも激しい。
でもそんなことは、どうでもいいのだ。
「聖者」なんてものはそれくらい性格悪くないと務まらないだろうというのが、アタシの考えだからだ。
リズだって、将来のことを考えればそれくらい性格悪くてもいいはずだ。
けれど、妙な男に惚れちゃうようなとこまで似て貰っては困るのだ。
それをアディーリアに言ってみたところで、理解してもらえるとは思わない。
「ホント、何でもないから」
「………まあ、いいわ。くだらないことに時間を浪費している暇はないものね」
アディーリアはどこまでも高飛車にそう言って、肩に掛かる髪を無造作に払った。
そんな何気ない仕草の一つ一つが、本当に絵になっている。
それは彼女が、自分の美しさというモノを熟知しているからこその美しさだ。
アタシは心の中で拝む様に鑑賞しながら、あくまでも素っ気ない口調で言った。
「アタシとしてもさ、アディーリアの貴重な時間を浪費するのは心が痛むから、さっさと成仏しちゃいなよ」
「何よそれ! 私が折角貴女のために出てきてあげたのに!」
アディーリアは案の定、カッと怒りに頬を染める。
実は彼女の怒った顔が一番好きなんだけど、勿論言う気はサラサラない。
「そもそも私は『ブッディスト』じゃないから、成仏なんかしないわよっ」
「………なんでそこだけ英語なの?」
「そんなの知らないわよっ。それ以前に私が日本語話してること自体おかしいと思いなさいよっ」
アディーリアの「開き直りか?」としか思えない反論に、けれどふと考える。
「………」
あれ、そういえば。
「アディー、日本語話してる??」
「そうよっ。ていうか、どうして直ぐに気が付かないのよっ。それから、人に勝手な愛称をつけないでよっ」
一つ聞けば二つ以上の答えが返ってくるとは、どこまでも文句の多い女だ。
「じゃあ、リア」
「そう言う意味じゃなくってっ」
アディーリアは「あ~、もう、だからこの子はっ」とか何とか言いながら身悶えた。
美女は身悶えても美しい。
というか、妙に色っぽくて、未知の世界へ足を踏み出しそうである。
いや、踏み出しはしないけどさ。
解説しよう。
アディーリアは当然だけど、日本語を話せない。
そしてアタシは、今でこそアディーリアの記憶のお陰で、向こうの言葉も話せるけれど。
かつては日本語しか話せなかった
じゃあ、出会った当時、アタシ達はどうやってコミュニケーションを取っていたのかというと。
ご都合主義的自動翻訳機能が働いていたからだ。
何故なら、それが夢ってもんだから。
う~~ん。解説する程のことでもなかったか。
「だからそれは、神々の恩恵でしょうがっっっっっ」
と、アディーリアは言うけれど。
「え~、神様がいないとは言わないけどさあ、見たことも会ったことも食ったこともないし、俄には信じがたいというか、信じられないというか、ぶっちゃけどうでもいいというか」
「そんな事ぶっちゃけないでよ! っていうか、貴女、神を食べる気なの??」
「今更な~に言ってんの。お米の一粒一粒には七人の神様がいるんだよ?」
「お米一粒に七人の神…」
アディーリアはそう呟いて真っ青になった。
一体何を想像したのか。
「き、気持ち悪いっ」
と呟くと、ふらっとヨロめいて崩れる様にしゃがみ込んだ。
何だか芝居がかってるなあと思いつつ、アタシには彼女の考えていることが不思議と手に取る様に分かった。
お茶碗にウジャウジャとアリの如く蠢いている神々の姿を思い浮かべたのに違いない。
う~ん、流石にそれは気持ち悪い。
「変な想像するからだよ」
アタシは彼女の背中を撫でながら言う。
「貴女が想像させたんでしょ!」
「しろとは言ってないじゃん。アディーは想像力が逞しいよねえ」
「私のせい? 私のせいなの? どうして貴女と話してると、私はこんなにも無力感に襲われるの??」
アディーリアはよよよっと、泣き崩れた。
そんな彼女の儚げな背中に向けて、
「人というものは、無力な存在だ」
と、五号風に言ってみる。
「何、達観したような口利いてるのよ!!」
顔を上げたアディーリアの頬には一滴の涙も流れていない。
「やっぱ、嘘泣きじゃん」
リズはそりゃ素直な子だけど、女の子なんだから嘘泣きなんかしょっちゅうだ。
九年間もアンタの娘の嘘泣きを見守ってきたこのアタシに、嘘泣きなんか百万年早いんだよっ。しかも可愛いリズならともかく、アンタの嘘泣きなんざ見てて楽しくもなんともない。
いや、リズの泣き顔見て楽しんでいるわけじゃないよ?
あくまでも嘘泣きってのが前提だから。
あの、「これなら騙されるだろう」っていう感じが見え見えな「迫真の嘘泣き」が、見ていて可笑しくもあり微笑ましくもあるっヤツである。
「く、くやしいっ。しかも子供の頃より質が悪くなって」
「そりゃそうじゃん。アンタは死んでて成長しないけど、アタシは生きてて日々成長してるもん」
「………酷いこというのね」
急に真顔になった彼女は、けれども少しも悲しそうにも悔しそうにも見えなかった。
事実を事実として受け入れる、ある種の気高さがそこにあった。
それは確かに美しくはあったけど、決してリズにさせたい表情じゃあなかった。
「まあいいわ。私が死んでいるのも事実だし、私が年を取らないのも事実だものね」
ここできっちり嫌味を返してくるのが、アディーリアって人間だ。
その事に少しだけホッとしながら、アタシは言った。
「で、なんでアディー、日本語話してんの?」
アディーリアは、そもそも神聖名を略して愛称にするなんて貴女くらいよ、とか何とかブツブツ言いつつ、
「………私が、サタシアナ=アディーリア・ロラン・クリシア・ハジェク・クルス・クリシア・アウラ・エス・エイシアンであってサタシアナ=アディーリア・ロラン・クリシア・ハジェク・クルス・クリシア・アウラ・エス・エイシアンではない存在だからよ」
それはまるで神託でも告げるかのように厳かだったけど、
「あのさ、無駄に長い名前繰り返して面倒臭くない?」
「無駄に長いっていうな!!」
うわお、ちょっと会わない間に、随分口が悪くなっちゃって。
「オゲェ~~」
アタシの心の呟きに同意するかの様にカエルが吐いた。
じゃなくて鳴いた。
美人というものは我が儘で性格は悪くあるべきだと、ワタシは思います。
でも根性が腐っていてはいけません。