第二一話 カエルに横隔膜はありません
最初に目に入ったのは、煌々と輝くまん丸い月だった。
夢の世界だからと言って、月が二つあるわけじゃない。
月は一つ、太陽も一つ。
東から上り、西へと沈む。
残念ながら太陽の姿を拝んだことはないけれど。
この世界は人も動物も植物も、現実の世界とよく似てる。
だからといって同じとは限らない。
この世界の生物が、酸素じゃなくて窒素で呼吸していない保証はない。
何せケロタンには、そもそも肺が存在しないのだ。
カエルはちゃんと肺呼吸なのに。
因みにカエルには横隔膜はないので、口をポンプの様に使って肺に空気を送り込む。非常に効率の悪い呼吸方法だけど、大抵半分くらいは皮膚呼吸なので、カエルにしてみればそれで十分なのかもしれない。
なんてことを考えながら、アタシは今宵の自分を確認する。
吸盤の付いた赤い手はケロタン一号、正式名アンドリュー・サルダス・ケロタウロス、通称リューの証である。
赤いボディに緑の腹のコントラストが目に痛いけど、一号の中身はもっとイタい。
「とうっ!」
アタシは変身ヒーローさながらに掛け声を上げると、クルリと宙返りしてカウチから飛び降りた。
生身では流石にもう無理だけど、小学校の頃体操教室に通ってたアタシには、宙返り程度ならお手の物だ。
ただ言うまでもないことだけど、着地の後の決めポーズは二十歳過ぎた女のやることじゃない。
でもそれが一号ってヤツなのだ。
別に王妃は、変身ヒーローを指定してきたわけじゃない。
けれど、「自由をこよなく愛する流離いのトレジャーハンター」なんて、十二のアタシには全く想像つかなかったのだ。
単純に性格がフリーダムなんだろうなと考えたアタシは、クラスで一番フリーダムな男子がいつもヒーローごっこをしてたので、それを参考にしてみたのだ。
アタシは一号になりきるために、毎週日曜日に早起きしてはヒーロー番組で勉強した。
叔母さんは、
「澄香は、男の子の番組が好きなのねえ」
なんて言ってたけど、別に好きで見てたわけじゃない。
ただ実際、物凄く役に立った。
敵を倒すアクションとか決めポーズなんかをしてみせると、リズが物凄く喜んだのだ。
問題は、一度固定してしまったキャラは、今更もう崩せないってことである。
「リュー!」
リズがアタシを振り返る。
こんな夜更けにバルコニーに出て何をしてるのかなんて、一号は訊かない。
二号なら「今夜の月は格別に美しいね。子リスちゃん、君もいつかあんな風に輝くばかりの女性に成長するだろう」なんてクサい台詞を吐きだして、三号なら「あらやだ、寝不足は美容とお肌の大敵よ!」とか言って強引に部屋に連れ戻し、四号なら「体を冷やして風邪を引いてしまってはいけないから、中にお入りなさい。話はそれから聞きましょう」と、やんわりと諭すだろう。五号なら、内心で風邪を引かないかヤキモキしながら、無言で隣に佇むだけだ。
でも一号はフリーダム。
「よ! リズ! いい夜だな。月はどっちに出てる?」
いきなり問いかけられて、リズは目を丸くする。
大きな目がもっと更に大きくなって、物凄く可愛らしい。
「えっと、南かな」
「風はどっちに吹いてる?」
「えっと、多分、北西かな」
「フン。こんな夜は航海日和なんだがなあ」
と言って、ぴょんっとバルコニーの手すりの上に立つ。
勢いが付きすぎて下の植え込みに落ちたのは一度や二度じゃない。その度に侍女さん達に繕ってもらわなきゃならなかったけど、それを臆さず、尚かつ同じ危険を冒してしまうのが一号である。
ま、落ちたとしても、ケロタンの体なら何の支障もないから出来る事なんだけどさ。
因みに、船旅なんてしたことのないアタシには、航海日和ってのがどんな日なのか、皆目見当も付かないんだけど。フリーダムな一号は、そんな細かいことなど気にしない。
「リズにもいつか海を見せてやりたいぜ」
内陸にあるイスマイルには海がない。
周りを山で囲まれ、尚かつ高地にある。それが天然の要塞となって、お陰でイスマイルは建国以来戦知らずだ。
二百年ほど前に大国から攻め込まれかけたんだけど、敵軍は高山病にかかって、スゴスゴと引き返してしまったらしい。高山病になるのは二千メートルくらいからで、富士山で言えば五合目に辿り着く前に、なる人はなる。現実世界の大気と人体の生理学的な条件が同じとすれば、イスマイルの標高はそれ以上ってことになる。
多分イスマイル人は、全員強靱なスポーツ心臓の持ち主に違いない。
この可憐なリズもそうかと思うと、何だか不思議な感慨がある。
「海なら、絵で見たことがあるよ」
リズの声は心なしか沈んでる。
月が南中に差し掛かろうとしてるこんな夜更けに、十二の女の子が眠れないなんて何かあったに決まってる。
でもアタシは敢えてその事には触れないで、
「バカだなリズ。百聞は一見にしかずだぜ。四角い額縁に収まった絵なんかじゃあ、海のデカさは分からない。海を見たら、そりゃもうぶったまげるぜ!」
上機嫌にそう言って、意味もなく月を指差す。
アタシの思い違いじゃなければ、ヒーローってヤツは何でもかんでも指差したがるものだ。
「そんなに大きいの?」
目をパチクリとさせて、リズがそう訊ねると、
「そうだな。でっかい海ってヤツを眺めてるとな、自分がちっぽけに思えて、悩みなんかどうでもよくなっちまう」
一号は悩みの全くなさそうな脳天気な口調で言って、ガハハと笑った。
「そうなの? 見てみたいなあ、海」
リズはポツリとそう言って月を見上げた。
月の光に照らされたリズは幻想的で、まるで妖精の様だ。
憂いを帯びて陰る瞳はこの上なく綺麗だけれど、アタシは全然嬉しくない。
折角二号が無事に帰ってきて、リズの安眠が守られると思ったのに。
神殿や宰相から、何か言って寄越してきやがったんだろうか。
もしそうなら、勿論アタシは許さない。
以前、リズに酷い嫌がらせがあった。
リズに直接何かをしかけたわけじゃない。
レゼル宮から出ないリズに直接接触すること自体が難しいからだ。
でも物凄く悪質だった。
動物の死骸を庭に投げ込んだり、毒の入ったお菓子を匿名で届けたり。
大体が、第二正妃と第三正妃の仕業だ。
血筋ランク三位のイスマイルでは、王女は優良な「輸出品」だ。
正妃達にはそれぞれ娘がいて、勿論縁談は山の様にくる。
けれどリズが生まれて、しかも聖者らしいと知られてからは、縁談相手の格が確実に下がってしまった。
誰だって、より良い品を欲しがるもんだ。
つまり、娘の嫁ぎ先のランクが落ちた腹いせってヤツである。
第一正妃が静観を決め込んでいるのは、そんなことでギャーギャー騒ぎ立てるのは、彼女のプライドが許さないんだろうと思う。何せ大国ナディシスの王女様だ。イスマイル貴族出身の他の二人とは、プライドの高さも質も違うんだろう。
チラッと覗き見た彼女は、美人と言うよりは頭の良さそうな人で、物凄く凛とした印象だった。
それに比べて、第二正妃は癇癪持ちで、第三正妃は陰湿だ。
勿論報復は念入りにさせてもらった。
犯人捜しは、侍女ネットワークの盗み聞きでやった。
例の、宰相のカエル盗難疑惑を広めたネットワークである。
貴族だとかの高貴な人間ってのは、侍女や女官を家具かなんかの一部と思ってる節がある。
つまり人間と認識していないから、好き放題に喋るのだ。
それで、動物の死体を投げ込ませたのはヒステリー持ちの第二正妃で、毒入りお菓子を送りつけてきたのは、陰険な第三正妃と分かったわけだ。
当然の如く、アタシの報復行動も侍女さん達の間で噂になった。
曰く、ある朝第二正妃が目覚めると、床と言わず天井と言わず真っ赤な血文字で「死」だとか「殺」だとかいう文字が殴り書きされており、部屋中に謎の白い鳥の羽が舞っていた。誰が何のためにやったのかは不明だが、とても人間技とは思えない。
曰く、ある朝第三正妃が目覚めると、お気に入りのビスクドールの首が、血にまみれの状態で天井から鈴なりにぶら下がっており、床には異臭のする液体がまき散らされていた。誰が何のためにやったのかは不明だが、とても人間技とは思えない。
あれはね~、一晩丸々かかったよ。はっはっは。
因みに、「血文字」だとか「血まみれだ」とかは、単なる赤い塗料である。
後宮の隅にある倉庫から失敬した物だ。
アタシは動物の命を粗末にするヤカラは死ねと思うし、リズにいやがらせするようなヤカラはやっぱり死ねと思う。けど実際に殺すのは躊躇われるので、ちょっとばかり恐怖に戦いて貰おうと思ったわけだ。
第二正妃も第三正妃も、外聞を慮って表沙汰にはしなかった。
勿論、しないと分かっていてやったんだけれど。
表沙汰になったところで、じゃあ誰がやったんだってことになる。
どう考えても人間の仕業じゃない。だったら正妃は「悪霊憑き」なんじゃないか、なんて噂を流されかねないからだ。
悪霊も神様の眷属である精霊の一種なんだけど、気に入らない人間に神様が遣わすのが悪霊だ。
神様に愛されてるのが聖者なら、神様に疎まれているのが悪霊憑き。
そうなったら、王女達の縁談が更に減るのは間違いないってワケである。
お陰で、それ以来第二正妃と第三正妃からの嫌がらせはなくなった。
今回だって、宰相だろうが神官だろうがリズを困らせるヤツは許さない。
「リズ、イヤなことがあったなら、俺サマに言えよ」
アタシはグッと親指を立てて、頼もしく笑って言った。
するとリズは、困ったみたいに眉尻を下げて、
「ありがとう。でもイヤなことがあったわけじゃないの」
「じゃあ、何があった?」
「今日、イシュ・ローザベルが来て言ったの」
イシュ・ローザベルは、リズの教育係の神官さんだ。
「父様の喪が明けたら、ここを出て神殿に来ないかって。私、ここを出なきゃいけないのかなって思うと、物凄く寂しくなっちゃったの」
リズはそう言い終わると、小さくため息をついた。
どうやら、神殿が本格的に動き始めたらしい。
さて、どうするアタシ?
子供の頃はバック宙もできたんですけどね~。重力にはもう逆らえません。