挿話 聖者には思いやりが必要である
行政の実質的長である宰相の仕事は多岐に渡り、尚かつ雑事も多い。
各省庁から上がってくる日々の書類に目を通し、毎日何某かの会議に出なければならない。省庁の連携を計るのも宰相なら、どの省庁にも属さない仕事をするのも宰相だ。
だからといって。
「まさか布製カエルの対応を任されるはめになるとは…」
一リグたりとも動かない表情でそう言ったのは、イスマイル王国の若き宰相クラリス=レヴィド・エルド・ノーザラン・ハジェク・ソルダークである。
闇に溶けそうで溶けない濃紺の髪と、思慮深い金色の瞳。
それは夜空に浮かぶ月を思わせ、美の女神の恋人と称された故ソルダーク男爵に生き写しの美貌もあって、彼は密かに「月影の君」と呼ばれている。
密かに、とは言うが、彼が王城内での噂を把握していないはずがなく。
しかし、それを知ったときの彼の反応はと言えば。
「ケッ」
と、無表情に吐き捨てただけだった。
余りにも無口すぎて知る者は少ないが、就任したばかりの宰相閣下は非常に口が悪かった。
その彼の、細いが意外と節くれ立った手には一通の手紙がある。
印璽も差出人の名前もないそれが、娘子軍経由で届けられたのは午前中のことだった。
「ねえ、ソレ、何て書いてあった?」
どこか浮かれた様な口調でそう訊ねたのは、国王侍医シャルルート=ネルゼス・アウラ・ネネーシディ・ハジェク・ネラスラスだ。
目が悪い訳でもないのにメガネをかけ、実験用の白い長衣を着ている。
どこかの世界のどこかの国では、一部の女性に熱狂的に喜ばれそうな出で立ちだが、ここでは誰もそれを気に留めることはない。彼の外見で問題になるとすれば、紫の瞳を持つ「玉の聖者」でありながら、異教徒のように髪を短くしていることだろう。
「神殿に出された手紙の方には何と?」
宰相は国王侍医の質問には答えず、逆に問い返す。
シャルルートはそれを気にすることもなく、何故か踊る様に体をくねらせながら上機嫌で答えた。
「う~んとねぇ、『アタシにデートの申し込みなんて百万年早いわよン♪ 内臓洗って出直してらっしゃ~~」
パスコ―――――――――ン!
「いった~~~いっっ!! 何すんのさ!」
シャルルートが後頭部を押さえながら振り返ると、
「ああ、すいません。余りにも気持ち悪かったので、生理的な拒否反応が出てしまいました」
と、黒髪の王佐ナジャ・エリアーデ・アウラ・カディスが、ニッコリと爽やかすぎる笑顔で、部屋履きを懐に仕舞うところだった。
褐色の額に浮かび上がる赤い花の入れ墨は、夜の双性神を主神とするヨグナ教徒の証である。
アヌハーン神教の象徴とも言える「聖者」と「異教徒」。
相反するような立場の二人だが、二人の間にその手の確執は見られなかった。
「ていうかね! 君、いつも部屋履き懐に入れてんの??」
シャルルートの些か甲高い抗議にも、ナジャは笑顔を崩さない。
「勿論、入れていますよ」
「ええっ! 言い切っちゃうの??」
「ええ。何時何時、例のカサコソ動き回る黒い物体に出会うとも知れませんからね」
落ち着き払ったナジャの言葉に、シャルルートは両手で顔を挟んで叫んだ。
「ちょっと待って! まさかその部屋履きっ!?」
顔を真っ青にさせるシャルルートに、ナジャはフッと遠くを見遣った。
「な、何?? その目!? その沈黙!?」
「世の中、真実を知らない方が幸せなこともあります」
思わせぶりなナジャの台詞に、シャルルートは卒倒せんばかりに叫んだ。
「ひぎゃあああああああああああああああああああああ!!!」
ガコッ!
「がはっ」
何処からともなく分厚い本が飛んできて、シャルルートの頭を直撃した。
その場に倒れ伏すシャルルート。
「………宰相閣下。コレでも陛下の侍医なので、頭が悪くなると困ります」
王佐のあんまりな言い方に、しかし宰相は賢明にも「お前の部屋履きはいいのか?」とは問い返さなかった。
「そうか。今後はもう少し薄い本にしよう」
「そうしてください」
「うむ」
国王侍医が昏倒している間に、彼に関する薄暗い約定が成立した。
十分後。
意識を取り戻したシャルルートは、瘤の浮き上がった側頭部を氷で冷やしながらプリプリと怒って言った。
「も~、僕の優秀な頭がどうにかなったらどうするのさ。それって、物凄い世界の損失だよ?」
僅か十二歳で医学博士を取得し、更に植物学、数学、天文学の博士号を持ち、成人と同時に「賢者」の称号を贈られた彼のことを、人は間違いなく「天才」と呼ぶだろう。
そんな彼が小国の侍医の地位に甘んじている理由は、余人には計り知れない何かがあるのだろう。というのは「聖者」に敬意を表しての表立っての意見だが。
「アナタはどっちかというと、天才とは紙一重のアレの方に限りなく近いので、ちょっとおかしくなったくらいが丁度いいんですよ」
ナジャの言葉が端的に示すように、奇矯な素行のせいで恰も左遷されるが如くイスマイルに追いやられた、というのが大方の見方だった。
良くも悪くも神殿と繋がりの深いイスマイルでなら、大抵のことは握りつぶせると考えたのだろう、と。
「何それっ。酷いっ。言っとくけどね、頭打った衝撃で記憶喪失になんかなったりしたら、今開発中の新薬の完成が遅れちゃうんだからねっ」
「おや、出来なくなるのでは?」
「何言ってんの。僕は天才なんだから、記憶がなくなっても直ぐに理解して研究を続けるさっ」
「なら、問題ないだろう」
「あ、そっか」
あっさりと言いくるめられてしまったシャルルートに、宰相と王佐が目配せし合う。
コイツは本当に天才なのだろうか?
お互いの目はそう問いかけていたが、その答えが「是」あることもイヤと言うほど知っている二人であった。
「僕が天才なのは今更だから置いといて。そっちの手紙の内容はどうだったのさ」
頭の回転の速いシャルルートは、気持ちの切り替えも早い。
本を投げつけられた事に、何故とも問わず謝罪も求めず、好奇心の赴くままに行動する。
「全く同じ文面だな」
宰相はそう言って、シャルルートに手紙を渡して見せた。
シャルルートは何の遠慮もなく受け取って、素早く文面に目を走らせる。
「あ、ホントだ。同じだね~」
「最後のは差し出しカエルのサインでしょうか」
ナジャがシャルルートの背後から覗き込んで言う。
「何ソレ。差し出し『カエル』って」
「差し出し『人』ではないでしょう?」
「そりゃそうだけどさあ」
「『エウリディケ』って書いてありますね」
「鮮血の女帝ティレジナの神聖名だね。ほら、一八〇〇年前に文字通り酒池肉林を繰り返して、皇国を崩壊の危機に追いやったっていう」
「でも、例の青いカエルは、男でしたよね」
「名前は確か『クリストファル・ウディノ・ケロタウロス』だったな」
「そう言えば『クリストファル』は放蕩王マグナートの神聖名だ。二三〇〇年前に子供二百人作って跡継ぎ決めずに死んじゃったもんだから、その後二十年にもわたる内戦を招いたっていう。う~ん、どっちの名前もあんまり使わないよね」
スラスラと伝説上の人物の逸話を披露するシャルルートに、感心したようにナジャが言う。
「良く覚えてますね」
「二人とも『聖典』に載ってるじゃない。ああ。ナジャはヨグナ教徒だもんね」
「そいう問題ですか?」
「二人の狂皇のことは知ってるが、神聖名までは一々覚えてないぞ。『聖典』を一言一句違えずに覚えているヤツと一緒にされてもな」
「そんなの、物心着く前から繰り返し読み聞かせられてたら、誰だって覚えるよ」
肩を竦めながら軽くそう言う国王侍医に、宰相と王佐は「覚えねえよ」と思ったが、敢えてそれを口にすることはなかった。
天才というものは得てして、凡人の能力の限界にというものを理解しないものだからだ。
尤も、二人とも「凡人」と称するには、些か優秀過ぎる嫌いはあるが。
「しかし、この手紙で分かったことは幾つかあるな」
「そうだね」
「動くカエルは『クリス』だけではないということですね」
「布製カエルは五体あるという話だ」
「この『エウリディケ』は何色なんでしょうね」
「ああ、それは白だよ」
「何故そうと分かる?」
「だって、あの王女付きの侍従武官がそう言ってたって話だし」
「誰に聞いた?」
「マリーから」
マリーというのは、彼の幼なじみだという後宮付き神殿娘子軍の隊長である。
手紙を宰相の元に届けたのは副隊長の方だったが、彼女がそのことを知らないはずはなかった。
「何故、こちらにはその報告がない?」
「今更、何言ってんのさ。娘子軍は神殿の犬だよ? 訊かれもしないのに君らには言うわけないでしょ。ま、僕も他人のことは言えないけど。僕の場合は犬っていうより蝙蝠かな。どちらにも情報を流してる」
まるっきり楽しそうにそう言うシャルルートに、自分を卑下している様子は見えなかった。
大抵の聖者は、神殿に逆らえないように育てられる。
端から見ればそれは悲劇にしか見えないが、彼にしてみれば単なる事実でしかないのだろう。
しかし、メガネの奥の瞳が影っていることを二人は知っていた。
そして同時に、その鬱屈を慰める言葉がないことを。
どこか淀んでしまった雰囲気に、ナジャは徐に懐に手を伸ばした。
パスコ―――――――ン!
「なななななっ、何するのさ! いきなりっ」
「いえ、蝙蝠の鳴き声って聞いたことがないので。どうなのかと好奇心が…」
「それって動物虐待じゃない!? 動物虐待反対!!」
「本物の蝙蝠なら叩きませんよ。蝙蝠は夜の双性神の眷属と言われてますからね」
「だったら、僕を叩いても、蝙蝠の鳴き声なんか分かんないでしょっ」
「何事も挑戦する心が大切って言うじゃないですか」
「それ挑戦違う!」
ガコッ。
「うっ」
「おっと」
バサッ。
何処からともなく飛んできた本に、シャルルートは見事に当たり昏倒した。
同時にナジャは素早く避けて、本は空しく床に落下した。
ナジャは、先程のものと比べれば少しばかり薄い本を拾い上げながら言った。
「………クラリス。シャルルートは運動神経が皆無なので、不意打ちは止めてあげてくれませんか」
賢明にも宰相は「お前の不意打ちはいいのか?」とは訊かなかった。
「分かった。今後は投げる前に予告しよう」
シャルルートが昏倒している間に、またしても薄暗い約定が成立した。
同日、なんだかしっくりこなかったので副題変えました。