第一〇八話 カエルは小者だからといって油断してはいけません その1
「ぎゃはははははははははははははっ! い~ひっひっひっひっひ!! 何だその『天翔るニャン』って! ぶははははっ!!」
灼熱の外界とは隔絶された店内に、恵美のバカ笑いが響き渡る。
「ちょっと、恵美。声がデカいよ」
「大丈夫っ。誰も聞いてねえからっ! だはははははははははっ!!」
恵美の言葉に周囲を見回すと、確かに誰もこちらに注目していなかった。
黒縁眼鏡の青年は、それじゃあ逆に読めんだろうとツッコミたくなる程本に顔を近づけ、天パの青年は、どっかから電波でも受信してんのか? と問い質したくなる程ひたすらにスケッチブックに何かを書き殴り、窓際の老人は、そのまま逝ってしまうなよ! と声をかけたくなるような悟りきった表情で虚空を見つめてる。
老人以外は、意識してこちらを見ないようにしているコトがありありと分かり、けれどもその心情も理解できるので、アタシは敢えて気がつかないフリをした。
ここは世に言うマンガ喫茶である、らしい。
マンガ喫茶と言えば、マニアから営業をサボるサラリーマンまで、様々な人種がたむろする場所である。特に夏休みシーズンのこの時期は、学生達がアパートの電気代の節約と趣味を兼ねて集ったりする場所だ。
しかし昭和の香りのプンプンする店内は、レトロと言えば聞こえは良いが、ぶっちゃけ古くさ過ぎて殆ど人影がない。それもそのはずで、ここに置かれているマンガは今流行のものなどはなく、それどころか殆どが消費税導入前のものである。パソコンもなく、従ってインターネットにも繋がっておらず、フリードリンクもない。飲んだら飲んだ分だけ払う。しかもマスターの淹れるコーヒーは本格的なので、結構なお値段である。
いっそマンガ喫茶の看板を下ろせばいいのに、と思うんだけど、マスターにはマスターの拘りがあるのだろう。
そんな場所に集うの一部のマニアか、暇をもてあました老人くらい。
半年程前に恵美が見つけた大学からさほど遠くないこの場所は、今や恵美のテリトリーである。
それは即ち、恵美が法、恵美が正義、恵美が神。
「は~、笑った笑った。笑ったら、腹減った。オッちゃん! チキンライス! 大盛り!」
今日も恵美は欲望のままに行動し、
「おいっ! メガネ! 水!」
そして支配する。
メガネと呼ばれた黒縁眼鏡の青年は、一瞬ビクリと身体を震わせたものの、
「………」
文句一つ言わず、恵美の元へと新しい水を運んでくる。
採算が取れているか甚だ怪しい程常連しか寄りつかない店は、客もまた恵美の下僕と化しているらしい。
「あ、オッちゃん、ミックスジュースもっ」
「あ~、ゴメンね、恵美ちゃん、さっきの分で桃缶が切れちゃってね。あと、今見たらケチャップも少なくって…」
「じゃあ、天パが買いに行くからっ」
恵美はそう言うと、天パの青年に向かってお絞りトレーを投げつける。
お絞りじゃなくて、お絞りを置くプラスチックのトレーの方を投げる辺りが、恵美の恵美たる所以である。
カコ――ンッ!!
「聞こえてんだろうがっ! 下手な絵ばっか描いてねえで、さっさと買い出し行って来い!」
「痛っ!! 痛いっすよっ! そんなに思いっきり投げなくってもいいじゃないっすか!」
天パの青年は不平を口にするが、投げることそのものではなく投げる強さに言及するあたり、きっともう既に恵美に逆らってはいけないと骨の髄まで染み込んでしまっているのだろう。
青年よ、強く生きたまえ。恵美の横暴に耐えられれば、この先どんな苦難にも立ち向かっていけるだろう。
「あ、じゃあ、松島君、ついでにソースと山芋とキャベツと豚コマも買ってきてくれないかい?」
恵美の命令に便乗して、別のものも頼むマスター。
口調は酷く遠慮がちで、一見不審なくらいおどおどとしているが、実は図太いことは立証済みである。
「あ、それからスーパー・タカヤマで小麦粉が特売日だから、それもね」
「タカヤマって、遠いじゃないっすか。チキンライスとミックスジュースが遅くなりますよ?」
「じゃあ、近所でケチャップと桃缶買って一度戻ってから、その後行ってくれるかい?」
「ええ?? それってただのお使いじゃないっすかあ」
恵美のパシリとマスターのお使い、常連としてどちらがまともかと言えば後者だと思うんだけど、青年は「ただのお使い」の方により理不尽を感じるらしい。
「あ、松島君」
「何すかぁ?」
「材料は全部二十人分くらいでね」
「そんなに持てないっすよぉ」
「文句ばっか言うな! 天パ!」
カコ――――ン!
二度目のお絞り受けの投下である。
因みに、そのお絞りトレーはアタシの分だ。
お絞りトレーがプラスチック製なのは、割れるのを防ぐためか、はたまた投げやすいためか、こうも見事に命中すると判断に迷うトコロだ。
「メガネッ、天パと一緒に行ってやれっ」
恵美の指令に、またも無言で立ち上がるメガネ君。
ベラベラとよく喋る天パとは対照的に何も言わないのは、彼なりの意地なのか、或いは戦略――下手に何か言ってはものを投げつけられるのを避ける的な――なのか。
カエルの中にも繁殖期にもかかわらず戦略的無言を通すものがいる。
若くて身体の小さなオスが、立派な鳴き声のオスの側でひっそりと待ち構え、鳴き声に誘われてやってきたメスをあれよあれよという間に横取りするんだとか。確率としてはそれ程高くはないけれど、下手に鳴くと立派なオスから攻撃されるので、保身も兼ねているらしい。
小者には小者なりのやり方があるというコトだ。
恵美はオスじゃないけれど、繁殖期のオスガエルよりも確実に質が悪いだろう。
保身のために無口を決め込むメガネ君の気持ちも分からなくもないけれど、本当にイヤなら恵美を避ければいいだけの話なので、同情には値しない。
「スミ、ついでに何か欲しいものは?」
恵美は親切心からかそんなコトを訊いてくるけど、幾らついでとはいえ見も知らぬ他人をパシリに使うのは気が引ける。
「いや、特にない」
アタシがそう答えると、恵美はコクリと頷いて、
「行け!」
「ラジャー!!」
元気良く答える天パと無言のままのメガネが、敬礼して出て行った。
一体どうやって躾けしたんだろう?
梅雨時に来た時は、ここまで酷くなかったのに。
恵美の行動にも周囲の人間の行動にもツッコミ処は満載だけど、それら全てにツッコんでては身が持たない。
アタシは無我の境地(多分)の老人を見習って、無心の境地でスルーした。
――麗しの天翔るニャン。
アタシの舌がムーンサルトでもしたかのように、そんな言葉が突いて出た後。
どうにかカエル転送空間に戻ったアタシは、チビアディーからの怒りのハリセン殴打に備えて身構えた。
腕を顔の前で交差して、取りあえず精神的ヘコみ度合いの高い顔を庇う。
けれども、いつまで経ってもハリセンは飛んでこず。
それどころか。
「にゃんにゃんにゃ~んにゃにゃにゃにゃにゃん」
「ゲコッゲコッゲコ~~ゲコゲコゲコ」
「ケロッケロッケロ~~ケロケロケロ}
「キュルッキュルッキュル~~キュルキュルキュル」
「オゲッオゲッオゲ~~、オゲオゲオゲ」
「…ッ…ッ…~~~~、ッッッ」
チビアディーとカエル共は謎のカーニバルの真っ最中だった。
エフェクトの紙吹雪が舞い、クラッカーが鳴らされる。
パンッ!!
パパンッ!!
「な、何事??」
戸惑うアタシの周りを、チビアディーとカエル共が輪になって囲む。
「おめでとうっ!」
「オゲゲッ!」
「ケロロッ!」
「キュルルッ!」
「ゲコッゲ!!」
「ッッッッ!」
「え? お、怒ってない?」
「どうして!?」
アタシの問いに、チビアディーが上機嫌で問い返す。
「だって、何か、神獣とか、精霊より物凄いコトになっちゃったしっ」
アヌハーン神教の宗教的ヒエラルキーは、神>神獣>聖獣>精霊>神人>聖者>>>普通の人間、てな感じである。
因みに神獣と聖獣の違いは、前者が神サマが「産んだ」ものなのに対して、後者は神サマが「創った」ものというコトらしい。
当然ながら、色んな意味でハードルがダダ上がりである。
「確かにそうね! でも『ニャン』でしょ! 『ニャン』を嫌いな女の子はいないわ!」
どうやら神獣「ニャン」は向こうの世界では人気らしい。
「それって、女子限定?」
「そうねえ。男の子は、余り興味がないんじゃないかしら?」
男子が興味なくて、女子は大好き。
一体どんな神獣なんだ?
やっぱ可愛いとか、そういうコトだろうか?
何せ、アタシにはその手の知識が殆どないから…。
と考えた刹那、アタシの脳裏に一つの映像が鮮やかに浮かび上がる。
どうやらそれは「ニャン」の絵らしい。
アディーリアの記憶か、ド変態の知識か。或いは両方かもしれないけれど。
「………虫?」
それが、一目見た瞬間の感想だった。
獣なのに虫?
とは思ったけど、よく考えたら「創世記」に出てくる「初めの虫」も聖獣の部類にはいるワケだから、「ニャン」が昆虫だとしてもおかしなことはない。
とはいえ、どこがどうなってのかイマイチ分かり難い「尾のない獣」の例からも推測できる通り、神教はその手の想像力が些か、いや正直に言おう、相当おかしい。
しかも「尾のない獣」の絵には彫刻刀を思わせる力強さがあるけれど、「ニャン」にはそれがない。躊躇うような揺れるラインは、小学生が教科書の余白にうろ覚えで描いた落書のよう。
しかも、その小学生は心に深い闇を抱えている…。
夢の中であろうとも、コレに追いかけられたりしたら、トラウマになるコト間違いなしだ。
なんでこんな「ニャン」が女子に人気なのか、アタシには分からない。
コレが世界の違いというヤツだろうか?
それとも単純にアタシの女子力が足りないせいなのか?
どちらにしろ、結論は一つ。
「アディー」
「なあに?」
どんだけ嬉しいんだか、チビアディーはカエル共とはしゃぐのに忙しくて、振り返りもしない。
「あのさあ、アタシが『ニャン』になるのはムリだと思う」
「どうして?」
「いや、だって、アタシは所詮人型だしさあ」
ハリウッドばりのSFXが可能だとしても、「ニャン」は地球上の生物の限界を超えている。
即ち、たかがホモ・サピエンス如きがどんなにエフェクトを駆使したところでどうにかなるレベルではない、というコトだ。
アタシにどれほどやる気があろうとも、越えられない壁はある。
別に、上手いこといけば声の出演だけで済ませられるかも、とか姑息な考えがあったワケじゃない。コトもないけど。まあ、そこら辺は目を瞑ってくれたまえ。
なんて都合のいいコトは、チビアディー相手には通じなかった。
チビアディーは、まるで阿波踊りの途中でストップモーションかけられたみたいにピタリと動きを止めると、そのままの格好でクルリと振り返る。
そして、口の両端を不自然なまでに釣り上げて、
「あら、大丈夫よ。コレを取り寄せておいたから!」
チビアディーがそう言い終わるやいなや、ボヨヨ~ンと何とも間抜けな効果音と共に、ソレが現れたのだ。
「どっから出した!?」
「やあね。私が出したわけじゃないわ。ネット通販で、丁度今届いたのよ」
「通販!?」
「あなたの言う通り、『ニャン』ともなれば、確かにエフェクトだけじゃどうにもならないものね」
「宅配?? 配達員は??」
「やあね。転送よ、転送。この手の通販は、亜空間転送が一番早くて確実なのよ。しかもタダだし」
「何気にオーバーテクノロジー?? しかもタダ!!」
驚きと戸惑いとでワタワタとするアタシに、チビアディーがキラリンッと目尻から星のエフェクトを放ちながら得意顔で言う。
「ふふ。あなたが向こうで『ニャン』と言ったから、直ぐにコレを注文したのよ」
いや、頼んでないよっ。頼んでないからっ。
アタシの心の抗議はきっちり届いたのだろう。チビアディーがムッとしながらとんでもないコトを言ってくれた。
「言っておくけど、当然オーダーメイドだから、返品は不可よ」
オーダーメイド!?
そりゃまあ、こんなの既製品じゃあありえないだろう。
けど、それって高いってことなんじゃ…。
一体アタシの魂、どれくらい削られた?
いや、ド変態の分だから、それはそれでいいのか??
イロイロと思い悩みながらも、アタシは改めてマジマジとソレを見た。
「可愛いでしょう?」
チビアディーが自慢げにそう言うけれど、
「ええと…」
適当な言葉が浮かばなくて、言い淀む。
恐らくデザイン的にかなりデフォルメしたのだろう。
全体的に丸っこくさせて、沢山色を使うことで可愛らしさを演出している。
その意図はハッキリと読み取れるものの、それが返って原型の不気味さを増幅させている。
とはいえ、こういうのを好む女子高校生はいそうである。
ブキカワとでも言うのだろう。
コレが遊園地で風船配ってたら、子供達がこぞって泣き出しそうだけれども、ウラハラ辺りでならコアなファンがつきそうだ。
ウラハラ行ったコトないから、分かんないけど。
「ちょっとっ、何かいいなさいよっ」
「え? ああ。う~ん、縫製がしっかりしてそうだね」
自分でもちょっとどうかと思うようなコメントだけど、それしか思い浮かばなかったので仕方がない。
けれども、そんな適当な言葉もチビアディーにはポイントが高かったらしい。
チビアディーはパッと表情を明るくさせると、
「そうでしょう? もっと安いお店もあったんだけど、このお店はレビューで評判がよかったの。布地も安っぽくなくて、縫製もしっかりしてるって。しかも軽いんですってっ」
「…………」
誰が書いたレビューなんだろう?
読んでみたいような、みたくないような…。
「へ~、軽いんだ」
何のために?
返ってくる答えに嫌な予感を覚えたアタシは、敢えて訊かなかった。
けれども、チビアディーは敢えて応えた。
「ええ、動きやすいようにね」
ならば、どうやって動かすのか。
ここまで来れば、どんなに鈍い人間でも、訊かなくても分かるだろう。
「やっぱ、入るんだよね……?」
「ええ、勿論、あなたがね」
そりゃそうだろう。
どう見ても、完全にアタシサイズである。
三頭身のチビアディーにはでかすぎるし、十頭身のアディーリアには低すぎる。
「じゃあ、ちょっと着て、ポーズの練習してみましょうか」
「ちょっと待てっ。ポーズはしなくていいって言ったじゃんっ」
「それは、あくまでも素の状態だからよ。着ぐるみなら、平気でしょう? 一号で散々おかしなポーズしてるじゃないの」
「おかしい言うなっ」
確かにおかしいけれど。
自覚してる分、他人に言われると余計にヘコむのだ。
「あら、他人じゃないでしょう?」
「だったら、もっと思いやりをっ! てかもっと自分を愛そうよっ!」
アタシは渾身の思いで抗議するけど、
「いやあね、この子ったら。アディーリアと自分の性格を、考えてごらんなさい」
図星と言う名の必殺技を受け、
「ぐがあああああっ!!」
アタシは変身ヒーローに倒された怪人のような断末魔を上げた。
「それを着て、あの台詞とかだけでもアレなのに……。その上ポーズとか、一体何の虐め…」
アタシは滂沱の涙を流しながら、地面に崩れ落ちた。
「涙出てないわよ」
「心が泣いてんだよっ! 心がよっ!」
「泣くのは勝手だけれど、完全に『自分で撒いた種』じゃないの」
それも全くの図星なので、反論のしようがなかった。
「ところで、あの台詞だけれど」
――我は千の名前を持つ精霊。
――我が名を許しなく口にすれば、命はない。
「『精霊』ってところは、『神獣』に直しなさいよ」
――我は千の名前を持つ神獣。
――我が名を許しなく口にすれば、命はない。
――汝らが、我が養い子に全てを捧げるならば、汝らに最も短く最も力なき、だが只人には身に余る程の霊威を宿した我が名前を許そう。
――心して呼ぶがよい。
――我が名を。
「それから、『くれないてんにゃ』は『くれないてんニャン』の方がいいと思うの」
――心して呼ぶがよい。
――我が名を。
――くれないてんニャン、と。
「いぃやぁだぁああああああああああああああああ!!」
茫漠たる空間にアタシの悲鳴は轟き、そして誰にも届くコトなく消えていった。