第九三話 カエルがヘビを食べるコトもあります
何かとてつもない危機が迫ろうとしている。
そんな本能的な危機感に揺り動かされ、クワッと目を開いたら。
何故か視界いっぱいに、ご飯粒まみれの手が!
「どりゃっ」
アタシは反射的にその手を乱暴に払いのけると、急いで上体を起こし怒鳴り散らした。
「何すんだ、ゴラァッ!」
「チッ。もうちょっとだったニョロ」
長く真っ直ぐな黒髪を優雅に掻き上げながら、心の底から口惜しそうにそう言ったのは、なんと我が悪友、桧山恵美子であった。
勿論、恵美以外にそんなコトをしでかす人間を知らないので、当然と言えば当然なんだけれどもさ。
「なんで、ご飯粒まみれ?」
「お握り握ってたニョロ」
「じゃあ、なんでその手をアタシに押しつけようとした」
「押しつけようとしたんじゃないニョロよ。擦り付けようとしたんだニョロよ」
「だからなんで??」
「う~んと、スミの危機管理能力を検査しようとしたニョロね」
「だから何故!?」
「祖母ちゃんとお握り握ってたんだニョロ」
「ブート・ジョロキア入りか??」
「ニョ?」
「いや、こっちの話。で、お祖母さんとお握り握ってて?」
「閃いたニョロ」
「何を?」
「顔がご飯まみれになったら、イヤだろうなって思ったニョロ」
「何故!?」
「ええ? イヤじゃねえニョロか?」
「いや、イヤだけれどもっ。何故そこで閃く??」
「閃きって、そんなもんニョロよ」
いやまあ、そうだけど。
「じゃあ、イヤだと思った事と、アタシの危機管理能力の相関関係は?」
「ないニョロね」
言い切ったっ。
言い切りやがったっ!
「けど、ワタシがイヤだと思う事を、スミがイヤがるとは限らないニョロ。ほら、幸不幸は所詮個人の主観ニョロね? だから試す価値があると思ったニョロよ。危機管理能力云々は、付け足しニョロよ」
「……………」
今のこの気持ちを、何と言えばいいんだろう。
恵美の言葉は、一つ一つを取ってみれば間違っていないのに、全体として致命的に破綻している。
ただそれをどう説明すれば、恵美に理解させることができるのか?
残念な事に、アタシには全く思い浮かばなかった。
なので。
「ていうかさ、なんでさっきから『ニョロニョロ』言ってんの?」
とりあえず、話題を変えることにした。
事実は小説よりも奇なりとはよく言ったもので、夢の夢の中では謎の「ニャ」語を喋っていた恵美は、現実では更に奇妙な「ニョロ」語を喋っている。
勿論最初から気になっていたけど、衝撃的な現実の前では些細なコトでしかなかったのだ。
恐るべし、恵美ワールド。
その傍迷惑なまでの行動力で、複雑怪奇な夢よりも、遙かに奇妙奇天烈な現実を提供してくれる。
「今、台風が来てるニョロね?」
「ああ、うん」
そういえばそうだったなと、アタシの中では結構前になる記憶を手繰り寄せる。
ついでに、夢の夢での恵美の台詞も思い出す。
「台風でエントロピー増大したプラスイオンの影響ニョロね」
夢の夢の中で語った理由とほぼ同じだったけど。
ていうか、プラスイオン云々はアタシが教えたハズだけど、
「プラスイオン」が気に入ったのか?
「え~と、エントロピーって何だったっけ?」
「よく知らないニョロね。けど、何となく、かっこいいニョロよ」
どうやら「エントロピー」を使いたかっただけらしい。
でも、その気持ちは分からないでもなかった。
アタシも恵美も思いっきり文系頭なもんだから、意味のよく分からない理系の用語にインテリジェンスを感じてしまうものなのだ。但しアタシの場合は、間違った文脈で使う恥を怖れるが、恵美にその手の羞恥心は存在しない。
「そっか、じゃあ、仕方がないか」
これ以上話を掘り下げても仕方がない――というか、確実に意味不明のモノしか出てこない――ので、切り上げるコトにする。
「そうニョロ。仕方がないニョロね。けど、安心していいニョロよ」
「何を?」
「恵美ニョロは、ニョロニョロ言うけどヘビじゃないから、スミカエルを食べないニョロね」
「……………」
恵美がヘビじゃなくて人類だなんてコトは、分かりきっている。当然アタシもカエルじゃなくて人類だし、そもそもヘビはニョロニョロ言わない。寧ろ言うなら「シャーシャー」じゃないだろうか?
ツッコミ処は盛りだくさんなんだけど。
長い長い旅にも似た夢に些か精神的に疲れていたアタシは、とっておきの情報を恵美に教えることにした。
「恵美」
「何ニョロか?」
「カエルがヘビを食べるコトもあるんだぜ?」
「マジニョロか!?」
正真正銘マジである。
なんせ動画サイトで、実際の映像を観たのだから。
目を見開いて驚く恵美に、ちょっとだけスッキリした気分になるアタシであった。
「というワケでさ、大神官は自殺で、実はリズは知らないウチに王サマになってたんだよね」
そう締めくくって、アタシはお握りの最後の一口を頬張った。
アタシは口の中に広がる鰹節と醤油の香りを、ゆっくりと咀嚼しながら堪能する。
さっきのはブルーベリージャムだったからな。
その前は鮭だったけど。
その前は、リンゴジャムとイチゴジャムのダブルパンチだった。
蝋燭の幻想的な明かりに浮かぶ、白いお握りの山。
最初の頃に比べて、随分標高が低くなってしまったけれど、まだまだ踏破にはほど遠い。
正直言って、もうアタシの腹は限界だ。
けれど恵美とお祖母さんは、一息入れた後にまた食べる気満々らしい。
なんでも一晩掛けて、お握り山を踏破するんだとか。
どうやら梶川家では、「台風=(お握り+蝋燭)夜更かし」「お握りの具(お握りの数÷α)=ジャム」という公式が存在しているらしい。因みにαは具材の種類で、その時々によって代入される数が違う。つまり、他の何をおいても、梶川家ではジャムはお握りの具材として定番というコトだ。
奇しくも夢の中で見た夢に酷似した光景となってしまったけれど、よくよく思い出してみると、子供の頃、恵美は遠足にジャム入りお握りを持ってきていたのだった。すっかり忘れていたけれど――というのも数々の恵美の奇行の中では比較的地味なので――、無意識ではちゃんと覚えていたのだろう。多分蝋燭の件も、恵美から話を聞いていたのに違いない。
幸いなことに、梅干し、おかか、しゃけ、という超定番メニューもあるし、夢と違ってブート・ジョロキアは入ってない。甘いジャムも、濃いめの赤出汁と一緒に流し込めば、耐えられないこともない。
ついでに言えば、夢の中では恵美はお握りを握れなかったけど、現実ではちゃんと握れる。
そりゃそうだよな。
幾ら何でも、お握りを握る力加減ができないなんて、どんだけ不器用なんだって話だよ。
そもそも恵美は叔母さんのように家事能力が欠如しているワケじゃなく、そして意外なことに特別不器用というワケでもない。ただ、解釈の仕方が人とちょっとばかり甚だしく違うだけなのだ。
それに加えて味覚が非常に個性的なので、結果として謎の物体ができあがってしまう。
どう育てればそんな人間に育つのか? 前々から疑問だったけど、お祖母さんと会って分かった。恵美のそれは、後天的なモノではなく、先天的なモノなのだと。
「あ、くそっ、ママレードニョロよ。ママレードは嫌いじゃないけど、お握りの具としてはイマイチニョロよ」
「おばあちゃんはねえ、最近、フォションのイチジクジャムがマイブームなの。澄香ちゃんは、どのジャムが好きかしら?」
「……………」
いや、ジャムはお握りの具材としては好きではありません。
と言おうとしたけど止めた。
恵美になら平気で言えるけど、お祖母さんに言うのは気が引ける。
というか、アタシが小一時間掛けて語って聞かせた、夢の話への感想は無いのだろうか?
アタシが、恵美曰く「飛んでる金だらいにヘディングかました」のはスイカを食べ終わった午後三時半頃。そして目が覚めたのが七時前。
残念ながら、チビアディーの予想した「二時間サスペンスドラマ」よりも長い時間、眠って、じゃなくて気絶していたらしい。
いや、チビアディーは別に予想してはないんだけれどもさ。
体感時間としては数週間の経験を、小一時間にまとめるのは、結構大変だったのに。
アタシは未だに鈍い痛みの残る後頭部を摩りながら、憮然とした気持ちになった。
大体お祖母さんは初めて聞いたんだから、もっとリアクションがあってもいいと思う。
「ちょっと、何か言いなよっ」
言いながら、ちゃぶ台の下で恵美の膝を軽く蹴る。
すると恵美は、ゴクリと口の中のものを飲み込むと、
「ファンタジーとスリルとサスペンスに満ちたロイヤルミステリーな数時間だったニョロね」
いや、そんなまとめは要らないんだけど。
と脱力していると、お祖母さんがコポコポとお茶をつぎ足してくれながら言った。
「澄香ちゃん、随分と苦労したのねえ。お疲れ様」
あの、ねぎらいも要らないです。
とは、勿論お祖母さんに向かって言うコトはできないので、素直に頷くだけに止めた。
ところで、なんでお祖母さんも話を聞いているのかというと。
話そうとしたら丁度夕食に呼ばれたし、じゃあ夕食後部屋に戻ってからっていうのも何だかなと思ったからだ。第一、大型台風が来ているというのに、お祖母さんを一人にするのは気が引ける。
お祖父さんが亡くなってからはこの家に一人なので、慣れているかも知れないけれど、気が引けるものは引けるのだ。
ま、恵美のルーツそのものみたいなお祖母さんなら、話しても大丈夫だと思ったからってのが一番大きいんだけれどもさ。
「ところで、分からないコトがあるニョロね」
恵美が、継ぎ足されたお茶をすすりながら言った。
「アタシにも分からないコトだらけだよ」
「そうじゃないニョロね。その宗教団体は、何の目的で、クルルン王国のお姫サマにゴリゴリ王国の悪口を言わせたニョロね?」
「そういえばそうねえ。クルルン王国が滅んだのは、その団体さんには計算外だったのよね? ということは、クルルン王国は利用されただけで、目的はゴリゴリ王国だったのよ」
「……………」
内容はしっかり覚えているのに、何故名前を覚えない?
名前を覚えないのは、アタシだって似たようなもんだけど。
それとも、最初の一文字だけでも合っていることを褒めるべきか?
ていうかお祖母さん、「団体さん」なんて言っちゃうと、まるで旅行ツアーの団体客にしか聞こえないんですが?
アタシはイロイロと思うこともあったけど、敢えて全てを胸の奥にしまい込む。
「皇女が嫁いでるクリシアを、神教が犠牲にするとは思えません。大体、普通に考えれば、皇女のいる国を攻めることはないですからね」
皇族は、国を持たない。
けれどその権威は、世界最高。
全大陸的圧力団体アヌハーン神教が、教団を上げて崇め奉ってるワケだから、それにイチャモンつけようなんて無謀な国は存在しない。
というか、皇家を支えることが、神教の権威の由来なわけだし。
なのにゴーシェはクリシアを攻めた。
ただ攻めただけじゃなく、滅ぼした。
ゴーシェ王族に対する蔑みの言葉。
けれど相手はまだ成人すらしていない。
とはいえ、王族だから国際問題にはなるだろう。
普通はここで、神教の調停が入るハズだ。
その調停が入る前に、ゴーシェはクリシアを攻めた。
素早く、迅速に。というより、まるで急くかのように。
「じゃあ、団体さんは、ゴリゴリ君をどうしたかったのかしら?」
いや、お祖母さん、もう国ですら無くなってます。
と口に出しそうになったけど、人生の先輩に敬意を表して、やっぱり心の中で言うに止めた。
「う~ん。『今』の状況がヒントになるかも。ゴーシェの持つ鉱物資源の採掘権を、周辺の国が持ってるんですよね。で、その裏で動いてんのが、神教」
「なるほど、資源目当てニョロか」
「どの世界でも、資源は紛争の元なのねえ」
神教の目的は、ゴーシェの資源。
なら、ゴーシェの目的は?
「あのさ、小国とは言え、一つの国を滅ぼすのに、軍事力ってどれくらい必要なのかな?」
アタシの問いに答えてくれたのは、意外なことにお祖母さんだった。
「そうねえ。前にテレビで軍事評論家という人が言ってるのを見たのだけれど、攻める側は守る側の三倍の軍事力を投入するのが、定石という話だったわ」
お祖母さんは一体どんな基準で番組をチョイスしているんだろう? とは思ったけれど、情報はありがたく頂いておくことにする。
クリシアの軍事力が分からないから、ゴーシェがどれくらいの軍隊を送り込んだのかは不明だけれど、つまりは相当な数の軍隊だったってコトだろう。
「そんな大規模な軍隊って、直ぐに集まるもんなんでしょうか?」
「その国がどれくらい軍事に力とお金を掛けてるかによると思うわ」
「前々から準備していたと思う方が自然ニョロ」
ゴーシェは前々からクリシアにイロイロと思うことがあっただろう。
小国のくせに、経済力もないくせに、格だけで自分達の上にのしかかる。
どう考えても、目の上のたんこぶだ。
けれど、メリットがなかったワケじゃない。
クリシアと優先的に婚姻を結ぶことで、ゴーシェは血統ランクを順当に上げてきた。
ところが今は、上位の血筋と婚姻を結ぶことができないでいる。
「どう考えても、クリシアを滅ぼすデメリットの方が大きいと思うんだけど…」
「人間は何時でも誰でも計算ずくで動くとは限らないニョロよ」
「デメリットを凌ぐメリットがあると確信していたのじゃないかしら?」
異なる二つの意見は、それぞれ理屈が通ってる。
けれど、前々から大規模な軍事力を用意してたのなら、ゴーシェのクリシア侵攻は計画的だったということだ。当然そこには、冷静な計算がなされているハズだ。
けれど、神教からのバッシングを凌ぐメリット?
そんなモノがあるだろうか?
いや、そんなものを与えられる人間がいるだろうか?
そう思った瞬間、アタシは気がついた。
気がついてしまった。
湯飲みを持つ手が震える。
いるじゃないか。
神教の権威を跪かせる存在が。
クリシア国王妃フランシーヌ皇女。
――妾を恨むがよい。憎むがよい。そなたの国を滅ぼすのは他でもない妾なのだ。
ジェイディディアが最後に妃殿下に会った時に言われた台詞。
あれは、そのまんまの意味だったのだ。
後半がどうにも説明くさくなってしまうのを、あれやこれや考え直してたら、遅くなってしまいました。遅れてすいません。
誤字報告ありがとうございましたm(_ _)m。修正しました。
脱字修正しました。(お握り公式の部分)